禾乃登その五 布姫面談
布姫が間渡矢に来て今日で四日目です。城下の河月院に入ったのは昨日。そして今日はその布姫からの要請を受けて、間渡矢の四人の姫たちは河月院に向かっていました。庄屋の屋敷から黒姫と毘沙姫。城からは恵姫とお福。そして御典医の屋敷からは才姫。今日はこの五人が布姫と話をするのです。
「ふう~、やっと着いたねえ」
河月院の山門をくぐった黒姫と毘沙姫。城下にある寺ですが、ここを訪れる事は滅多にありません。姫は神に通じる力を持った者たちなので、神社に比べれば寺院は敬遠しがちなのです。
「思ったより大きな寺だな」
初めて足を踏み入れた毘沙姫は境内を見回します。正面に本堂があり、その東に廊下で繋がった書院、書院の奥には
「おや、毘沙姫様、黒姫様。ようやくお越しですか」
雁四郎でした。木刀で素振りをしているところを見ると、わざわざ寺に持参したのでしょう。
「雁四郎か。どうしてこんな所で素振りをしている」
「恵姫様とお福様の警護です。二人の話が済むまで暇なので、こうして素振りをして待っているのです」
雁四郎の稽古馬鹿は以前から知っていましたが、ここまでとは思わなかった毘沙姫です。とにかくも恵姫たちは既に到着している事だけは確かなようです。
「黒姫様、毘沙姫様ですね。ようこそお出で下さいました。こちらでございます」
寺の庭を掃いていた小坊主が声を掛けてきました。二人は雁四郎と別れると、小坊主の案内で書院の中へ入りました。
「こちらでお待ちください」
通された控えの間を開けると、恵姫とお福が座っていました。
「早いな、恵。寝坊のおまえにしては珍しい」
「わらわが早いのではない。そなたが遅いのじゃ。五人揃って挨拶を済ませてから、ひとりずつ話を聞くと言っておったが、そなたたちが遅いので先に才が布と話をしておる」
「ん、そうか。それは悪かったな」
悪かったなと言いながら、少しも反省しているようには見えない毘沙姫です。まだ文句を言い足りない恵姫。しかし別室で話をしている布姫の邪魔になっては悪いと思い、それ以上の小言は控えました。
「ここは客に茶も出ないのか」
また毘沙姫です。小言をやめた恵姫でしたが、仕方なく返答します。
「布が居る部屋は茶室じゃ。茶を飲み、菓子を食い、心を寛がせて話をして欲しいそうじゃ。毘沙の番が回って来ればすぐに飲める」
「おお、それは楽しみだな」
そんなお喋りをしているうちに、才姫が控えの間へ戻って来ました。特に疲れた様子もありません。
「次はわらわじゃ。行ってくるぞ」
入れ替わりに恵姫が出て行きます。毘沙姫は戻って来た才姫に尋ねました。
「才、どんな菓子が出た?」
「何だい、気になるのは布とした話の内容じゃなくてそっちかい。お茶は宇治の抹茶、茶請けは吉野の葛菓子、どちらも茶人好みの銘品さね。近頃の坊主は懐が潤っているようだね。衆生救済が聞いて呆れるよ」
「吉野の葛菓子か。それは楽しみだ」
毘沙姫の耳には菓子の話しか聞こえてこなかったようです。鼻先で笑う才姫に今度は黒姫が尋ねます。
「ねえねえ、才ちゃん、布ちゃんとどんな話をしたの」
「ただの世間話だよ。布が知りたいのは今の間渡矢の有様とほうき星について。だけど、それについてあたしが知っている事なんて布と大差ないからね。結局大した話もできずに終わっちまったさ。じゃあ、あたしは一足先に帰らせてもらうよ」
才姫はそれだけ言うとさっさと控えの間を出て行きました。残った三人にはまた静かに待つだけの時がやってきます。
「あ~、布とこれほどの長話をするのは初めてじゃな」
恵姫が帰って来ました。晴れ晴れした表情をしています。
「めぐちゃ~ん、どんな話だったの」
「わらわの島羽での大活躍を存分に語って聞かせてやったわい。船を沈めてやったくだりでは手を叩いて喜んでおったぞ。黒、そなたにも聞かせてやろうか」
『本当かなあ。あの布ちゃんが手を叩いて喜ぶなんて……』
と思った黒姫の勘は当たっていました。島羽の話もするにはしたのですが、それはすぐに打ち切られ、布姫が聞き出したのは与太郎、お福、瀬津姫、この三者についての話が大部分だったのです。前日から島羽の一件を布姫に聞かせるのを楽しみにしていたのに、それが叶わず不満の恵姫、自分の願望をつい黒姫に語ってしまったのでした。
「あ~、めぐちゃん、島羽の話はまた日を改めて聞かせてもらうよ。えっと、次はお福ちゃんだよね」
黒姫に言われてお福が出て行きます。再び静かに待つ三人。ここで黒姫が気付きました。
「ねえ、今、思ったんだけど、お福ちゃんって言葉を喋らないよね。どうやって布ちゃんと話をするんだろう」
「それはわらわも不思議に思ってな、ここに来てすぐに布に訊いたのじゃ。するとこう答えおった。『お福様には私から質問を致します。それに対して首を縦に振るか、横に振るかで答えてもらうだけで結構でございます』とな」
「筆談でも良かったんじゃないの。お福ちゃんって字を書けるんでしょう」
「書ける。しかしお福は書かぬのじゃ。以前、与太郎が二度目に来た時、お福は厳左の吟味を受けてな。どれほど厳左が書けと命じてもお福は筆すら取ろうとしなかった。その後、わらわや磯島が筆談しようとしても、やはりお福は書こうとせぬ。わらわが見たお福の字は『笑門来福』の四文字と、雀言葉が書かれた七夕の短冊だけじゃ」
「書けるのに書かぬ、喋れるのに喋らぬか……」
二人の話を聞いていた毘沙姫が何か考え始めたようです。恵姫も黒姫も毘沙姫が話し出すのを待っていました。しかしいつまで経っても口を閉ざしたままなので、恵姫が催促します。
「毘沙、言いたい事があるなら早く言わぬか。気が落ち着かぬではないか」
「言いたい事? そんなものは無いぞ」
「先ほど、お福の話を聞いて何やらつぶやいていたではないか」
「ああ、あれは面白いなと思っただけだ。別に何か言いたいわけではない」
思わせぶりな毘沙姫の態度に振り回されてしまったようです。恵姫も黒姫も気が抜けてしまい、それからは黙って待つ事にしました。
やがて音もなく襖が開きました。同時にお福が控えの間に入って来ると、その場に両手をついて倒れ込んでしまいました。
「お、お福、どうしたのじゃ」
俯いているお福の顔に血の気はありません。ひどく驚いているような怯えているような、そんな表情です。
「少し、余計な話をし過ぎてしまったかもしれませんね」
襖の向こうには布姫が立っていました。一切の感情を失くしてしまったかのような布姫の表情。いつもは穏やかに見えるその姿が、恵姫にはひどく冷淡に見えました。
「布、一体、お福とどのような話をしたのじゃ」
「それは申し上げられません。知る時が来れば皆様も知る事になりましょうし、知る時が来なければ知らぬまま時は流れていきます。私が敢えてお教えする必要はないのです。では、次の方、黒姫様か毘沙姫様、早くお話を聞かせてくださいまし」
布姫はそれだけを言うと茶室へ戻って行きました。
「あ、じゃあ、あたしが行くね」
黒姫が後を追って控えの間を出て行きます。それを見送った後、恵姫はもう一度お福を見ました。まだ怯えた表情をしています。
「お福、大丈夫か。何か恐ろしい話でもされたのか」
恵姫の言葉にお福は少し微笑みながら首を横に振りました。それは無意味な質問でした。たとえ本当に恐ろしい事を言われたとしても、お福が首を縦に振るはずがないからです。
「毘沙……」
答えを求めるように毘沙姫を見る恵姫。しかし毘沙姫もまた首を横に振るだけです。
伊瀬の姫衆随一の知恵者、その底知れぬほど深く広大無辺な布姫の知恵に、恐怖に近い畏敬を感じてしまう恵姫ではありました。
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