天地始粛その五 風の凶日
結局、鷹之丞と亀之助が知恵を絞って製作した新型自動式扇風機は、次郎吉が一度走っただけでお払い箱になってしまいました。
「毘沙姫様のお話を伺った以上、このような出来損ないをこの世に残してはおけません。持ち帰って分解し、鯨の髭を用いた新たな扇風機の工夫を考えたいと思います」
鷹之丞はそう言って自分の屋敷に帰ってしまいました。その頃にはもう昼になっていたので恵姫は庄屋の屋敷で昼食を御馳走になり、今は食後の一服を楽しんでいるところです。
「風が出てきたねえ」
黒姫が心配そうにつぶやきました。朝から強かった風は弱まるどころか増々強くなっています。
「今日は二百十日だからな。同じく風の凶日と言われる
「そうじゃぞ、黒よ。わらわたちが気を揉んだからとて風が治まるものでもない。むしろ涼しくなって汗をかかずに済むのじゃから有難いではないか。これならば昼寝も心地よくできそうじゃわい」
毘沙姫も恵姫も呑気なものですが、黒姫はそうはいきません。この時期の稲は穂が割れて花が咲いています。強い風が吹くと花が散らされて、米が実らなくなってしまうのです。
「ねえ、あたしやっぱり田を見て来るよ。ちょっと心配になって来ちゃった」
「田を見て回ったとて何ができるわけでもあるまい。黒よ、果報は寝て待てと毘沙も申しておるではないか。米の実りは寝て待てば良いのじゃ」
米への愛情をまるで分かってくれない恵姫に、黒姫の機嫌は一遍に悪くなってしまいました。
「米はあたしの宝物なのっ! めぐちゃんだって海が荒れて、沢山の黒鯛が岩に頭をぶつけて死んじゃったら悲しいでしょ。それと同じなんだよ。それにこれだけ風が強いと、田に色んな物が飛んで来て稲が倒されているかもしれないし。それを確かめに行きたいんだよ」
寝ていた恵姫がむくりと起き上がりました。海が荒れて黒鯛が死ぬ……恵姫にとってこれほど悲しい例え話はありません。黒姫の気持ちがようやく理解できたのです。
「そうか、黒、済まなんだな。そなたが米に対して抱いている執念は、わらわの黒鯛への想いと同等であったのじゃな。よし、田に行こうぞ。おい、毘沙、起きよ。そなたも行くのじゃ」
恵姫に言われてのっそりと身を起こす毘沙姫。最近、農作業がないのですっかり怠け癖が付いてしまっているようです。
こうして三人は屋敷を出ると田を目指して歩き始めました。風は本当に強く、時には歩みを止めなくてはならないくらいの強風も吹いて来ます。恐らく海は大荒れでしょう。
「おい、二人とも、私の腕を離すなよ」
黒姫と恵姫は毘沙姫の右腕と左腕をしっかり掴んで歩きます。まるで丸太のような腕はそれだけで本当に頼もしく思えます。しかもどれほど強い風が吹いて来ても、毘沙姫の体は風に揺れることなくいつも通りに歩いて行くのです。大きな鉄の玉が転がって行くが如き安定感です。
「なるほどのう。毘沙よ、地の力を使って己の体を重くしておるのじゃな」
「ははは、分かるか。しかしその分、歩くのに力が必要となるので腹が減る。黒、夕食はお代わりをさせろよ」
「分かってますよ。毘沙ちゃん、ありがとうね」
のっしのっしと風の中を歩く毘沙姫と、引きずられるように付いて行く黒姫と恵姫。やがて庄屋の田が見えてきました。
「ほう、よく育っておるな」
感慨深げに田を見回す恵姫。五月に田植えをした時はまだ弱々しい早苗でしたが、今では青々とした立派な稲に成長しています。
「あ、あそこ!」
黒姫が大きな声を上げて東の方を指差しました。何やら田の上に覆いかぶさっています。
「何か飛んできておるようじゃな」
「ねっ、やっぱりあたしの言った通りでしょう。でも、あれ何だろう」
「……
見詰めていた毘沙姫がつぶやきました。そう言われてみればそんな気もします。
「何でもいいから早く田から除けなくちゃ。あのままだと稲が倒れちゃうよ。毘沙ちゃん、お願い」
「おう、任せておけ」
二人を引き連れて東へ歩く毘沙姫。近付くにつれてその正体が分かってきました。やはり葦簀です。夏の間、日除けとして使われていたものが風にあおられて飛んできたのでしょう。
「どれ、取り除くとするか。二人ともちょっと離れてくれ」
恵姫と黒姫が腕から離れると、毘沙姫は背中の大剣を抜きました。すぐさま黒姫が叫びます。
「毘沙ちゃん、剣を使ったら駄目だよ。一緒に稲まで抜けちゃうよ。歩いて行って、手で取り除いて!」
「んっ、それもそうだな」
大剣を振るって葦簀を吹き飛ばそうとしていた毘沙姫。黒姫に言われて元通りに剣を鞘に収めました。そしてそろそろと田に足を踏み入れます。
「毘沙よ、稲を倒すでないぞ。黒が怒り狂うからのう。一本でも倒せば間違いなく今日の夕飯は抜きじゃ」
「分かっている。恵はそこで大人しく見ていろ」
風に吹かれて波のように揺れている稲の間を毘沙姫はゆっくりゆっくり進んでいきます。やがて葦簀に手が届く場所まで来ると、片手でそれを引き上げました。
「そらっ!」
風に吹かれて葦簀が立ち上がりました。葦簀は予想よりもかなり大きく、重量もありそうです。軒先の日除けではなく小屋の囲いに使われていた物かもしれません。
「ははは、凧のようで面白いな」
毘沙姫は片手で持った葦簀を風の中で揺らしています。毘沙姫ほどの握力がなければ到底できない遊びでしょう。たまらず黒姫が叫びました。
「毘沙ちゃん、いつまでもふざけていないで、早く葦簀を外に出して!」
「ああ、分かっ……」
毘沙姫がそう返事をしようとした時でした。いきなり考えられないような突風が吹き付けてきたのです。風に煽られ大きく揺れる葦簀。
「しまった!」
毘沙姫は油断していました。葦簀を掴み直そうとした時には手遅れでした。風に煽られた葦簀は大きく宙を舞い、離れた所に立っていた黒姫目掛けて飛んできたのです。
「きゃあああ!」
大きさから考えても重さは十貫くらいありそうです。直撃すれば大怪我をするかもしれません。
「黒、逃げろ!」
毘沙姫と恵姫が同時に叫びました。しかし驚いた黒姫はその場に座り込んでしまい、動けなくなっています。毘沙姫は大剣を抜きました。稲をなぎ倒してでも黒姫を救おう、そう考えて大剣を振り上げた時、
「ふうー……」
穏やかな吐息のような音がしました。その音に力を奪われたかのように鎮まる風。力なく畦道に落ちる葦簀。
「な、なんだ、何が起こった……」
周囲に満ちていた風の音は止み、稲は波打つことをやめ、長閑な昼下がりの風景が広がっています。顔を見合わせて呆然とする三人。その三人に語り掛けるように澄んだ声が聞こえてきました。
「毘沙姫様、己の力を過信するのはよろしくありませんよ」
聞き覚えのある声、三人は声が聞こえてきた方へ顔を向けました。
「そ、そなたは!」
そこには一人の尼僧が立っていました。まだ暑さが残る七月末だと言うのに黒い法衣と白頭巾、手には旅荷と言うには小さすぎる風呂敷包み。それが誰なのか、一目見ただけで三人には分かりました。
「恵姫様、黒姫様、お久しぶりでございます。伊瀬の神宮でお会いして以来ですね」
「ほ、
歓声を上げる毘沙姫。驚いてまだ立ち上がれない黒姫。畦道に突っ立ったままの恵姫。そんな三人を優しい眼差しで見守るのは、毘沙姫と厳左の二人が心待ちにしていた姫、伊瀬の姫衆随一の知恵者にして風を制する力を持つ布姫その人でありました。
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