桐始結花その五 寝坊姫

 恵姫の昔語りを聞いた後、一心不乱に梅干し集めに取り組んだ甲斐あって、なんとか昼までに全ての梅干しを取り入れた与太郎。昼食の膳を前にしてほっと一息です。


「よかったあ~、お昼抜かれたらどうしようかと思ったよ。いただきます」


 嬉しそうにご飯をぱくつく与太郎を尻目に、恵姫は目の前に座っている磯島に尋ねました。


「梅干し取り入れのお役目、此度は無事完了させた。約束は守ってくれるのじゃろうな、磯島」

「勿論でございます。さりとてあの料理本は今、手元にはございません」

「どこにある、いつ貰える」

「本日の土用の虫干しは奥と表と同時に行っております。表では蔵の収納物を天日に晒しております。あの料理本は一年間蔵に入っておりましたゆえ、表に引き渡し、蔵の収納物と一緒に虫干しをしております」


 蔵の管理は奥ではなく表の管轄です。従って虫干しも表の役人の受け持ちになります。


「では、虫干しが終われば、晴れてわらわの手元にやって来るわけじゃな」

「そうなりますね。恐らく日暮れ頃には元通り蔵に戻すと思われますので、それまでに表御殿に出向き、次席家老の寛右様に直接お申し付けください。渡してもらえるはずでございます」

「うむ、相分かった!」


 恵姫は機嫌よく返事をするとようやく箸を持ちました。今日の働きが無駄にならない事が確かめられたので、心置きなく膳の料理を味わえます。


「やっぱり働いた後のご飯は美味しいなあ、もぐもぐ」


 いつもは小食の与太郎も今日は珍しく大食いです。早朝から奥の虫干しを手伝い、その後梅干しの取り入れと働き詰めだったのですから無理もありません。


「それではごゆるりとお過ごしくださいませ。麦湯は置いて行きますので喉が渇いたらお飲みください」


 食事が終わると、土瓶と湯呑の乗った盆を置いて、片付けの女中と一緒に磯島は座敷を出て行きました。残されたのは恵姫と与太郎の二人。特にやる事もないので与太郎はたかむしろに寝転がっています。


「すっかり夏の座敷になっているよね、ここ。この竹の敷物、気持ちいいし、障子や襖も風の通る建具になっているし、ああ、それから風鈴、情緒があっていいよねえ、チリ~ン」


 気持ちよさそうに寛ぐ与太郎を見ていると無性に腹が立ってくる恵姫です。そもそも主はまだ座って麦湯を飲んでいるのに、家来が寝転がってゴロゴロしているのですから無礼千万もいいところです。


「ここって山の上にあるせいか、いい風が入るよねえ。これならエアコンなしでも快適に暮らせそうだなあ、ふあ~」


 与太郎が目を閉じました。どうやらこのまま昼寝を始めるつもりです。恵姫は湯呑を置くと与太郎の頭を叩きました。


「いてっ、何するんだよ、めぐ様」

「それはこっちの台詞じゃ。何を勝手に眠ろうとしておる。ここは男子禁制の奥御殿じゃぞ。いつまでここに居座るつもりじゃ」

「だ、だって他に行くところがないし、夏になると昼食の後は奥も表もみんな昼寝するって磯島さんが言っていたよ。僕も午前中は一所懸命働いたんだから、昼寝くらいさせてくれてもいいでしょ」


 随分と虫のいい言い分ですが、梅干し取り入れを手伝ってもらった恩義を恵姫も多少は感じていました。料理本も手に入る目途は付いた事ですし、少しくらいは温情を掛けてもいいかなと思い始めたようです。


「うむ、本日の働きに免じて昼寝くらいは許してやってもよいがここは奥御殿。おのこを眠らせる訳にはいかぬ。そうじゃな……縁側ならば良しとするか。座敷の外であるし、そこでなら寝てもよいぞ」

「分かったよ。じゃあ縁側に行くね」


 与太郎は風呂敷を持って縁側に出ました。風呂敷にはここに来る時に着ていたパジャマが包まれています。眠っている内に元の時代へ帰っても置き忘れる事がないように、抱いて眠るつもりなのです。


「ふむ、そう言えばほうき星は随分傾いておったのう。日暮れまでに与太郎も帰るか……ふあ~、わらわも眠くなってきたわい。どれ一眠りするか」


 恵姫は簟の上で横になりました。朝釣りの後、与太郎が来るまで働き詰めだったのです。たちまち眠りに落ちてしまいました。


 * * *


「くしゅん、おや、風が出て来たのか」


 目が覚めた時には座敷は幾分暗くなっていました。雲が広がって日が陰ってきたのでしょう。傍らには湯呑と土瓶と茶請けが乗った盆があります。八つ時に女中が置いて行ったようです。


「やや、昼八つの時太鼓にも気付かず眠っていたのか。余程疲れていたと見える。どれ、まずは馳走になるとするか」


 湯呑に麦湯を注ぎ一杯飲むと、茶請けを食べる恵姫。まだ起きたばかりで頭がぼんやりしています。


「むぎゅむぎゅ、そう言えば与太郎はどうしておるかな」


 茶請けを食べながら縁側に出ると、与太郎の着ていた装束と風呂敷が落ちています。どうやらここで昼寝をしたまま自分の時代に戻ったようようです。


「相変わらず去り際は濁っておるのう、むぎゅむぎゅ」


 落ちている装束を片付けて座敷に戻る恵姫。ここで重要な事を思い出しました。


「そうじゃ、忘れておった。表へ行って料理本を受け取るのじゃった、むぎゅ」


 急いで茶請けを飲み込み中庭に下りると表御殿へ走る恵姫。玄関で大声を出します。


「おーい、寛右、居るかあ、わらわじゃ、書を受け取りに参ったぞ」

「おや、恵姫様、如何なる御用ですか」


 出て来たのは雁四郎です。こんな時刻に居るところを見ると、どうやら今日は夜番のようです。訳を話して呼びにやらせると、しばらくして寛右が玄関に姿を現しました。


「おお、寛右、蔵の虫干しご苦労であった。磯島から聞いておると思うが、『合類日用料理抄』を受け取りに参ったぞ。早う渡せ」

「渡せませぬ」


 即答でした。顔色ひとつ変えず恵姫の頼みを門前払いです。予想外の返答に怒りよりも驚きが先に立つ恵姫です。


「な、何故じゃ。虫干しが終わったらわらわに渡す手はずではないのか」

「虫干しが終わり蔵に納める前に姫様が取りにいらしたら、書を渡すようにと磯島様から言われております。残念ながら虫干ししておりました物は既に全て蔵に納められております。よってお渡しする事はできません」

「な、なんじゃと!」


 恵姫は磯島の言葉を思い出しました。「日暮れ頃には元通りに蔵に戻すと思われますので、それまでに表御殿に出向き……」そう、確かにそのように言っていました。


「ね、寝過ごしたのか、なんたる失態」

「ご愁傷さまです」


 だからと言って簡単に諦められるはずがありません。梅の実並べと梅干し取り入れの苦労が水の泡になってしまいます。ここは必死に食い下がる恵姫です。


「何とかならぬか寛右。蔵の鍵はそなたが持っておるのじゃろう。ちょっと蔵に行き、鍵を開け、書を取り出す、それだけじゃ。雁四郎とて簡単に火薬玉を持ち出したではないか。頼む。蔵を開けてくれ」

「できませぬ。たとえ姫様といえども蔵の物を専有されるには、殿の御許可か重臣たちの合議が必要となります。雁四郎の火薬玉は緊急の案件ゆえ、ご家老と大目付の独断で持ち出されたもの。それがしへは事後の報告だったのです。そもそも蔵の物を勝手に持ち出した時点で処罰されても仕方がないのですよ。それを磯島様も某も一度は見逃して差し上げたのです。これ以上掟に背く訳には参りませぬ」

「そ、そこを何とかできぬか、頼む。あの料理本は役に立つぞ。奥御殿に置いておけば、美味い料理がいつでも食べられるようになる。だから今から蔵に行き……」

「その必要はありません」


 背後からお馴染みの声が聞こえてきました。磯島です。


「あの料理本はこの数日間のうちに、私もお福も厨房女中たちも全員読破致しました。蔵から出す必要はありません」

「まだわらわが読んでおらぬではないか!」

「料理は刺身以外作らぬ姫様が読んだところで、何の役にも立ちません。どうせ書かれている料理を想像しながらよだれを垂らすだけでしょう。そんな読み方をされては料理本が気の毒です」

「うぐぐ」


 図星なので反論できません。しかも勝手に蔵から持ち出した物を、もう一度蔵から出せと言っているのですから、盗人猛々しいにもほどがあります。


「さあ、寛右殿も困っております。奥へ戻りましょう。そうそう言い忘れておりました。蔵から持ち出した木箱や三つ折り鯛人形、全て寛右殿に返しました。それから先日の『鮒鯉合戦』と、浜の釣り道具箱の中に隠してありました『伊瀬生真鯛蒲焼』、この二冊も虫干しを兼ねて寛右殿に渡しております。今頃は一緒に蔵の中に納められているはずです」

「な、なんじゃと!」


 恵姫の心の臓が止まりそうになりました。伊瀬の旅の途上、雁四郎を騙して手に入れた絵草紙、密かに座敷の物入れから浜の道具箱の中へ隠しておいたのに、磯島はそれすらも見破り、しかも寛右に渡していたのです。


「あれは雁四郎が間違えて注文したそうですな。代金を立て替えたとはいえ城の銭で手に入れた物、蔵に納めておきました」


 寛右の言葉は恵姫の耳には入りません。大切な絵草紙を奪った磯島に食って掛かります。


「い、磯島! そなた最初からそのつもりだったのじゃな。わらわをただ働きさせて褒美の書を与えるどころか、大切な絵草紙まで奪おうとは、なんたる非道、なんたる無慈悲、鬼じゃ、そなたは鬼じゃ!」

「蔵の物を勝手に持ち出した罰ですよ。ほほほ。さあ、寛右殿、用は済みました。お下がりくださって結構ですよ」

「さればこれにて失礼」


 寛右は表御殿の中へ消えました。磯島は意気揚々と奥御殿へ帰って行きます。


「くそ~、またしても磯島にしてやられたわい。あれほど頑張って梅の実を並べ、取り入れたと言うのに、うっうっ、悔しいのう、悔しいのう。わらわの努力を、わらわの絵草紙を返してくれ~」


 沈みかけた夕陽に向かって無念の雄叫びを上げる哀れな恵姫ではありました。





 ※明日は休載日のためお休みです。

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