第三十二話 はす はじめてひらく

蓮始開その一 厳左の温情

 水平線には顔を出したばかりのお日様。差してきた朝日を浴びて海に向かっている恵姫。釣竿を持って仁王立ちになっているその後姿を眺めながら、毘沙姫は浜の岩に腰掛けていました。


「座敷に居る時とは別人だな」


 背筋を伸ばし足を踏ん張り、凛とした雰囲気を漂わせる恵姫の後姿には、普段、座敷でゴロゴロしながら着崩れた格好で、暑い暑いと団扇を扇ぐ怠け者の面影は全くありません。好敵手に挑む武士の如き気迫に溢れています。釣りとは魚を相手にした一対一の真剣勝負、という恵姫の言葉そのままの姿です。


「ふあ~、こうして座っているだけで眠くなってくるな」


 朝日を飲み込んでしまいそうな毘沙姫の大欠伸です。六月に入って朝のお稽古事が休みになると、恵姫は暑い日中を避けて朝と夕に釣りをするようになります。今朝も日の出前から起き出して、遊びに来ていた毘沙姫と一緒に浜へと繰り出したのでした。


「毘沙、退屈ならイワムシでも取っておれ。暇つぶしには丁度よいぞ」


 釣れた魚を魚籠に移し、針に餌を付けている恵姫。そんな言葉を聞かされても毘沙姫は動く気にはなれません。岩に座し、右手を頬に当てて、ぼんやりと恵姫を眺めているだけです。


「寝坊助の毘沙が珍しく朝釣りに付いて来ると言うので、てっきりわらわの手伝いをしてくれると思ったのに、岩に腰掛けておるだけとはのう。これでは与太郎以下の役立たずではないか。まあよい。釣りが終わるまで岩の上で眠っておれ」


 何もしようとしない毘沙姫を、恵姫はさほど気に留めていない様子です。いつもは一人で釣りをしているのですから、手伝いがないのは日常茶飯事、別段腹を立てるような事でもないのでした。


「悪いな、恵、しばらく岩の上で夢でも見るか」


 座ったままで目を閉じる毘沙姫。その瞼の裏に映るのは五日前の鯛焼き味見の会での出来事でした。


* * *


「瀬津とどのような関係か、答えられぬのか、寛右!」


 毘沙姫と寛右、二人だけが残った表御殿の小居間には緊迫した空気が漂っていました。問い詰める毘沙姫、口を結んだまま無言の寛右。まるで仇同士のように二人は睨み合っています。

 味見の会の片付けに来た女中が小居間に入り、小皿や湯呑を盆に乗せている間も、二人は無言で睨み合っていました。やがて女中が会釈をして小居間を出て行くと、ようやく寛右が口を開きました。


「そのような事を尋ねて、如何なさるおつもりか」

「おまえの返答次第だ。何もせぬかもしれぬ。あるいは、何かするかもしれぬ」


 再び黙り込む寛右。記伊の姫衆とは違い、伊瀬の姫衆は殺生を極端に嫌います。しかしその伊瀬の姫衆の中で唯一人、人を斬った過去を持つのがこの毘沙姫でした。その気性は厳左と同質、いや、厳左を上回る激しさかもしれません。

 寛右は慎重に、そして言葉を選んで答えました。


それがしと瀬津姫様に関して、毘沙姫様にお教えする義務はないと考えます」


 そう答えるや、両手を畳につき、深々と頭を下げる寛右。そこにはどうあっても口を割る気はないという強い意志がみなぎっていました。大剣を突きつけて脅したとしても、この頑ななまでの寛右の意志を変える事はできないでしょう。毘沙姫はしばらく思案した後、言いました。


「分かった。下がってよいぞ。手間を取らせたな」


 そうしてその場は一応の決着を見たのでした。


 翌日の夕刻、毘沙姫は厳左の屋敷を訪れました。


「これは驚いた、毘沙姫様が突然訪問とは。大した持て成しも出来ぬが上がられよ」


 厳左自ら迎えに出て座敷に通すと、雁四郎が入って来ました。


「お珍しい事もあるものですね、日暮れにお一人で訪ねて来られるとは。夕食は如何されますか」

「済ませてきた。余計な気は遣うな。この通り酒と肴も持参してきたのだ」


 背中の大剣を縛っている革紐を解いて畳に置き、自らはどかりと座布団に腰を下ろす毘沙姫。その目はじっと厳左を見詰めています。如何に勘の鈍い雁四郎でも毘沙姫訪問の目的が厳左との話し合いである事は容易に見て取れました。


「分かり申した。では毘沙姫様に湯呑を、お爺爺様に盃を用意致します。今宵は心行くまでお爺爺様と語り合ってくだされ」


 雁四郎が退き、女中が湯呑と盃を持って来ると、毘沙姫はすぐに昨日の寛右との一件を厳左に話しました。最初は事実だけを。それを話し終わった後は自分の考えを。


「与太郎の鯛焼き売りの案に対し、丁寧に応じる態度を見て分かった。寛右は実直で正直な男だ、とな。だからこそ私の問いには答えられなかったのだ。もし不誠実な者ならば、己と瀬津とは何の関係もないと答えればいいだけの事だ。だが彼奴は嘘が付けぬ。本当の事は言いたくないし嘘も言いたくない、となれば答えぬ道を取るしかない。それは裏を返せば、瀬津と何らかの関係があると白状しているのと同じだ。新田候補地の下見に恵たちが赴くことを瀬津に知らせた者が誰か、まだ判明はしておらぬのだろう。厳左、寛右は調べなかったのか」


 酒を呑みながら話を聞いていた厳左の表情は、終始変わることはありませんでした。この事実を突きつけられても何ら驚く様子も見せず、厳左は平然と答えました。


「重臣の吟味はしておらぬ」

「何故だ」

「仮に関与していたと判明しても手を下せぬからだ。有能な家老や目付を御役御免にする訳にはいかぬ。そして上に立つ者に処罰の沙汰を下せば反感を抱く者が必ず現れる。これを切っ掛けに比寿家を二分する争いに発展する恐れもある」


 やはり厳左も気付いていたのだ、と毘沙姫は思いました。寛右が瀬津姫と手を組んだ理由、それは瀬津姫に恵姫を城から連れ出してもらい、養子縁組の話を一気に進めるため。つまりは江戸家老の思惑通りに事を進めるためなのです。


「なるほど。寛右を慕う江戸家老派の者たちを刺激せぬために、敢えて見て見ぬ振りをしたという訳か。鬼の厳左にしては温情溢れる処置ではないか」


 皮肉めいた毘沙姫の言い方に苦笑いする厳左。今回の件に関して全くのお咎めなしで済まそうとする自分の甘さを、厳左自身もよく分かっているのです。

 厳左は盃を置くと座敷の床の間に置かれている花入れに目を遣りました。行燈の淡い光に照らされて、数十枚の花弁を付けた花が一輪、薄紅色に咲いています。置かれた盃に酒を注いでいた毘沙姫が感慨深げに言いました。


「蓮か。この花を見ると夏を感じるな。比寿家の江戸屋敷の近くにある蓮池を思い出す」

「蓮根は寛右殿の好物のひとつ。秋の頃に寛右殿の屋敷に行けば、山芋と共に摺りおろして飯に掛けたものを必ず供される。蓮根と山芋のとろろ掛け、それはまた恵姫様の弟御、飛魚丸様の好物でもあった……」


 厳左の声には普段の厳めしさとは似ても似つかぬ穏やかな響きがありました。行燈に照らされた厳左の目に、何か懐かしいものを見るかのような穏やかな光が宿っています。


「飛魚丸……島羽の一件で間渡矢から駆けつけた小早船。名付けたのは恵だと聞いている。やはりまだ弟を忘れてはいないのか」

「うむ。あれは恵姫様にとっても、そして我らにとっても大きな出来事に違いなかった。とりわけ寛右殿にとってはな。あの日から寛右殿もそして比寿家の運命も大きく変わったのだ」


 そこで話を切ると盃を手に取り酒をあおる厳左。その頃の辛い思い出は今もなお消えることなく心の底に沈殿しているのでしょう。


「何故寛右殿がこれほどまでに養子縁組にこだわるのか、わしにはその気持ちがよく分かる。故にこの件に関してはどうしても腰が引けがちになるのだ。毘沙姫様は当時の事をあまり知ってはおらぬはず。年寄りの昔話など酒の肴にもならぬであろうが、よければ少し耳を貸してはくれぬか」


 いつになく気弱に見える厳左の横顔に忍び寄り始めた老いを感じつつ、無言で頷く毘沙姫ではありました。

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