夏至

第二十八話 なつかれくさ かるる

乃東枯その一 御田植神事

 夏至も過ぎ、間渡矢は田植えの時期を迎えました。この地にある乾神社は伊瀬神宮の別宮。鳥居を備えた見事な御神田おみたを持っています。間渡矢の全ての田に先駆けて田植えを始めるのがこの御神田。そして今日はそのお田植えの日なのです。


「おお、今年も盛大であるのう」


 恵姫は御神田に集まった大勢の人々を感慨深げに眺めました。まるで間渡矢の民が全て集まったかのような賑わいです。そう、御神田のお田植えはお祭りと言ってもいい程に、人々を高揚させ活気づかせるのです。


「黒の晴れ姿、久し振りだな」


 毘沙姫の視線の先には今日の主役である黒姫が、役人やくびとや世話人に囲まれて出番を待っています。鯛網漁で恵姫が扮したのが竜宮の乙姫ならば、お田植え祭りの黒姫が扮するのは太鼓打ち。田の神に仕える巫女として田船に乗り田舞と太鼓を披露するのです。


「黒が扮する太鼓打ち、かつては女に扮した男児が担っていたはず。庄屋の娘が姫の力を持つと分かって毎年引き受けるようになったのだろう」

「うむ。しかしそれも今年までと聞いておる。黒も若くはないからのう」


 恵姫の力は大漁に直結しますが、黒姫の力は豊作とはほとんど関係ありません。誰がその役を担っても同じなのです。しかし間渡矢の領民はこの役に黒姫を望みました。それは姫の力を持っているというだけでなく、黒姫に生来備わった明るさと陽気さ、それがこのお田植え神事には相応しいと誰もが思っているからなのでしょう。


「そろそろ苗取りじゃ。始めるとしようぞ」


 隣り合う田道人たちどと手を繋いで苗床に向かう恵姫。毘沙姫とお福も一緒に向かいます。今日のこの三人はお田植え祭りのもう一つの主役である早乙女の役です。六人の娘が早乙女となり、六人の男が田道人となって十二人で御神田に早苗を植えていくのです。


 六人の早乙女たちは白装束、緋襷、菅笠。六人の田道人は法被姿に紺の股引、菅笠。ただし毘沙姫だけはこんな時でも大剣を背負っています。恵姫たち三人以外は間渡矢の領民の中から選ばれた若い男女。皆、晴れがましい顔で手を繋いでいます。


「ほれ、お福、しっかり歩くのじゃ」


 十二人の男女は交互に並び、手を取り合って苗田に入ります。若い男に手を握られるという経験がほとんどないお福の頬は紅潮し、歩き方もどこかぎこちなくなっています。


『お福め、おのこに手を握られて恥ずかしがっておるのか。最近、気が強くなったと思っておったが、まだまだ初心なところもあるようじゃ』


 弱みを見せている者を見れば揶揄からかいたくなるのが恵姫。さっそくお福に一声浴びせます。


「お福、手を繋いでいるのはおのこではない。与太郎じゃと思え。さすれば恥ずかしさなど感じぬであろう」


 途端にお福の顔付きが変わりました。恥ずかしそうな表情は消え、最近よく見せる気丈な面持ちに変わっています。どうやらいつもの自分を取り戻したようです。舌打ちする恵姫。


『ちっ、逆効果であったか。まさか本当に与太郎をおのこだと思っておらぬとは考えもせなんだわ。じゃがそうなると、お福は与太郎を何じゃと思っておるのかのう』


 ついそんな事を考えてしまう恵姫なのですが、自分自身は与太郎をどう思っているかと問われれば、答えようがない事も自覚しているのです。実際の年齢は与太郎の方が上なのでそれなりに敬ってしかるべき。しかし生まれ年で考えれば与太郎は三百才年下、鼻たれ小僧以下の存在です。恵姫が与太郎を見くびっているのも、実はこの点が大きく作用していると言えるのでしょうし、それはお福もまた同じなのでしょう。


「神事とはいえ堅苦しいな。苗を植えるだけなんだろう」


 毘沙姫がぶつくさ言っています。苗場から早苗を取るだけの事にも、いちいち所作が決まっていて、それに従って早苗を取って行かなくてはならないからです。


「そう文句を垂れるな、毘沙。米作りは神勅しんちょくのひとつ、神からのめいであるからな。伊瀬の神宮にある神鏡を大切にするのと同じく、稲穂を育て国中に実らせよと神が帝へ命じられたのじゃ。その命に従って帝は今でも早苗をお手植えされておる。神に通じる力を持つわらわたちが、これくらいの事で不平を漏らしては帝に申し訳なかろう」


 楽する事と怠ける事が大好きな恵姫も、ここ一番という時には領主の娘らしく振る舞う事を忘れません。きびきびと苗田から早苗を取っていきます。

 もっともこれだけ大勢の領民に見守られていては、普段の怠惰な姿を晒すには相当な度胸が必要です。如何に肝っ玉が太い恵姫でも。この場に鯨でも現れない限りそれはあり得ないことでした。


「さて、一服して竹取りでも眺めるか」


 早苗を取り終わって十二人の男女が御神田の外へ出ると、代わりに下帯姿の大勢の男たちが中へ入り込みます。泥を掛け合い、泥の中へ飛び込み、相手を泥まみれにし、自分も泥だらけになり、まるで幼子の泥遊びのように暴れ始めました。


「あれは一度やってみたいのだ。だが、やらせろと言っても認めてくれぬ」


 らんらんと目を輝かせる毘沙姫。田の中で大騒ぎする裸男たちの姿に、自身の中に眠る暴れん坊の血がたぎるのでしょう。


「馬鹿を申すでないぞ、毘沙。そなたが加わってみろ、怪我人続出でお田植えどころではなくなるわ。そればかりか田の底が抜けて御神田がただの沼になりかねぬ。あれは苗の育ちを良くするために、体を使って田の土を練り、掻き、柔らかくしておるのじゃ。単なる泥遊びではないのじゃぞ。おう、竹取りが始まったか」


 御神田には長さが五十尺余りの青竹に大きな団扇を付けた忌竹いみたけが立てられています。これが田に倒されて泥だらけの男たちが団扇を奪い合うのです。団扇には帆かけ船の絵が描かれていて、船の先端の赤い宝珠は豊漁と航海安全のお守り。皆、それを手に入れようと泥仕合を繰り広げるのです。


「あれも一度やってみたいのだ。だが、やらせろと言っても認めてくれぬ」


 毘沙姫の再度の願望を聞いて呆れ顔の恵姫です。


「馬鹿を抜かすでない、毘沙。そなたが豊漁のお守りを手に入れても意味が無かろう」

「いや、お守りなど要らん。泥だらけになって暴れたいのだ」


 そう言いながら毘沙姫は御神田に向かって歩き始めています。まるで鯨に惹き付けられる恵姫のようです。慌てて引き留めた恵姫はそっと耳打ちしました。


「毘沙よ、お田植えの途中で酒宴があるのじゃぞ。忘れたのか。泥だらけになっては酒が飲めぬぞ」

「ん、そうか。そうだったな」


 食べるのが好きなら飲むのも好きな毘沙姫。この一言で思い留まってくれたようです。


 やがて竹取神事が終わり、男たちが竹と共に外へ出ると、荒れた御神田が平らにならされました。静かになった田の水面を進み始めたのは田船。そこに乗っているのは黒姫です。


「お、ようやくお出ましか。馬子にも衣装。いつもは野良着の黒も装束が変わると見違えるな」

「毘沙、よそ見をするでない。わらわたちもお田植えを始めるぞ」


 恵姫たち早乙女と田道人十二名は再び御神田に入りました。同時に始まる謡と田楽。それに合わせて舞い、太鼓を叩く田船の上の黒姫。年に一度の、そしてこれが最後の晴れ舞台です。御神田に鳴り響く笛、小鼓、謡の調べに合わせ、普段とは別人のような優雅さと気品を漂わせながら黒姫は舞い踊っています。


「お福、ゆっくりで良いからな。焦らず丁寧に植えていくのじゃぞ」


 一方、恵姫たちはそんな黒姫を観賞している余裕はありません。特にお福は初めての田植えです。見よう見まねで苗を手に取り、泥の中へ植えこんでいきます。ぎこちない動作がかえって初々しく、見守る領民たちも微笑ましく感じているようです。


「ちょっと、毘沙ちゃん、力入れ過ぎ!」


 田船の上から黒姫の声が聞こえてきました。毘沙姫は思いっ切り植え込んでいるので、苗はほとんど水没しています。黒姫に注意されて不満顔の毘沙姫です。


「そんな事はないだろ。この蒸し暑さだ。水に沢山浸してやった方が苗も涼しくて気持ち良かろう」

「おい、毘沙、そなた本当に田植えの経験はあるのか。苗とて呼吸しておるのじゃぞ。それだけ水の中に沈められれば、息が詰まって生きてはいけぬであろうが」

「なるほど。苗が萎えてしまうか。分かった、直す」


 毘沙姫の駄洒落に笑い出す早乙女たち、田道人たち、領民たち。

 植えた苗を引っ張り上げる毘沙姫を眺めながら、御神田のお田植えには二度と此奴を参加させぬようにしようと、心に決める恵姫ではありました。

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