麦秋至その五 艶紅姫

「斬!」


 毘沙姫は掛け声と共に大剣を横ざまに薙ぎ払いました。はぐれ畑の全ての麦は一瞬にして根元から切断され宙に舞います。どうだと言わんばかりに振り返る毘沙姫。しかし、浴びせられたのは恵姫の罵声でした。


「毘沙、何をやっておるのじゃ、この阿呆が!」


 思いもよらない言葉を投げつけられて心外な表情になる毘沙姫。同時に雁四郎も愕然として恵姫を見ています。とても芽久姫の言葉とは思えません。


「おい、何を言っている恵、じゃない、芽久姫。きちんと刈っただろう」

「芽久姫様、今、似つかわしくないお言葉が聞こえましたが」


 二人から一度に問い掛けられて興奮がますます激しくなる恵姫。ここは大きく深呼吸して怒りを鎮めます。


「はーふー、ええっと、雁四郎様、済まないでありんす。また恵姫の物真似をしてしまったのでありんす。そっくりでしたでしょうでありんす」

「左様でしたか。納得致しました」


 またも雁四郎は気付いていません。もはや与太郎並みの鈍さになっているようです。


「ところで何故に毘沙姫様を阿呆呼ばわりされたのですか」

「そうだぞ、恵、じゃない芽久姫。見ろ、麦は見事に刈られている。この調子で全ての畑を刈ればすぐに終わるぞ」

「それはおやめください。毘沙姫様」


 庄屋でした。見れば、田吾作と黒姫の母親が刈られた畑にかがんで何かをしています。


「庄屋、どういう意味だ」

「麦の穂が落ちてしまったのでございます。毘沙姫様の力が強すぎたのでしょう。普通に麦を刈っていても落穂はありますが、これだけの量が落ちますれば無視はできませぬ」


 茎と穂が一体になっているからこそ、その後で束ねたり干したりする作業ができるのです。麦の穂が落ちてしまってはその穂だけ別に作業しなくてはなりません。毘沙姫は大剣を背負うと庄屋に向かって頭を下げました。


「済まぬ。勝手な事をした。田吾作の言葉に従うべきであった」

「いえいえ、幸い畑は小さく、落ちた穂も半分程度。拾うのにさほどの時はかかりますまい。それに毘沙姫様は良かれと思って為されたにすぎません。そこに居られる芽久姫様の言葉がなければ、このような振る舞いは為されなかったでしょう」


 いきなりこちらに話を振られて慌てふためく恵姫。素知らぬ顔で返答します。


「わちきは麦刈りも毘沙姫の怪力も初めての事ゆえ、分からなかったのでありんす。さあ、それでは皆さんで麦を刈りましょうでありんす」


 さっさと自分一人だけで麦を刈り始める恵姫。それを見て他の者も麦刈りを始めました。

 中腰で行う刈り入れは稲も麦も辛いものです。特に麦は茎が太く実っても頭を垂れたりしないので、余計に刈るのが大変です。また長く伸びた穂先が顔や肌に刺さるとチクチク痛むので、稲刈りの時とは違う苦労もあります。


「疲れたので少し休むでありんす」


 恵姫は勝手気ままに休んだり、木陰に置いた瓢箪から水を飲んだりしています。これは毎年の事なので誰も何も言いません。お城のお姫様がわざわざ麦刈りを手伝いに来ているのですから、それだけでもう十分有難いのでした。


 麦畑の広さに比べると、その中に居る六人は本当に小さく見えます。それでも刈り続ければいつかは全て刈り取られる時が来ます。朝四つの休憩を挟んで刈り、昼の特別十段重ね弁当を食べて刈り、昼八つの休憩を取る頃には、もう麦畑はすっかり綺麗になっていました。


「終わったでありんすね。さすがに体がクタクタでありんす」


 半分くらいは木陰で休んだり勝手に蕎麦餅を食べていた恵姫ですが、半分くらいは真面目に麦を刈っていたので、さすがに疲れた様子です。そんな恵姫のくたびれた顔を見て、一斉に笑いが起こりました。


「……皆さん、何を笑っているのでありんすか?」

「めぐちゃん、じゃない、芽久姫様、お化粧がすっかり落ちちゃってるよ」


 黒姫にそう言われても恵姫には自分の顔が見えないので分かりません。それでも笑いが起こるくらいですから、相当ひどい有様なのでしょう。


「それでは城下を歩けますまい。こうなっては化粧を落とされた方がよろしいでしょう」


 庄屋の言葉の裏には、そろそろ雁四郎に正体を明かしても良いのではないですかという意味が込められています。恵姫もさすがに潮時と見て、素直に従うことにしました。


「では、お頼みするでありんす」


 黒姫の母親が濡らした手拭いで、汗で斑になった白粉や頬紅、眉から流れて筋になっている眉墨を綺麗に拭いて行きます。ただ、唇の紅だけは何もしませんでした。全く崩れることなくほのかな玉虫色の光を放っていたからです。すっかり化粧を落とした恵姫を見て、雁四郎は感嘆の声を漏らしました。


「ほお~、素顔になられても愛らしさに変わりはありませんな、芽久姫様」


 もう救いようがありません。唇の紅だけで雁四郎は騙されています。


『雁ちゃん、まだ信じ込んでる。これは本当に放っておけないわ。早く手を打たないと近い将来悪い女に引っ掛かっちゃうに決まってる』


 黒姫も危機感を抱くほどの雁四郎の腑抜けぶりです。


「それにしてもこの唇の紅は見事でございますね。恐らくは京の舞妓や江戸吉原の花魁が使う艶紅つやべにでございましょう」

「そんなに良き紅なのでありんすか」


 恵姫が尋ねると、黒姫の母親は少し羨ましそうに言いました。


「非常に高価なものですよ。紅一もんめは金一匁と言われています」

「なんと! 紅が金と同じ値じゃと言うのでありんすか」


 たかが唇を赤く見せるためにそれほどの銭を使う女の執念、恐ろしくも見上げたものであると感じる恵姫です。


「紅の原料は紅花。出羽の国で多く栽培されておりますが、隣の伊賀の国でも昔から末摘花すえつむはなと呼ばれて植えられております。この畑にも昨年伊賀の商人よりいただいた紅花の種を試しに植えてみました」

「おお、ではこれで紅を作れば銭が手に入るのじゃな、ではなくて、ありんすな」


 庄屋の言葉に思わず素に戻る恵姫、慌てて言い直します。


「いえいえ、この程度ではとても足りません。紅花餅一匁を作るには三百輪の紅花が必要となります。それほどの労力が必要だからこそ高価なのです。芽久姫様にこの紅を差されたお方は、よほど芽久姫様の事を大切に思っていたのでしょう。でなければ、麦刈りのような農事に際して、このような高価な紅を使われるはずがありません。良きお方でございますな」


『そんな大事な紅を磯島は使っておったのか。わらわの為に……』


 化粧が終わった時、素直に喜んであげれば良かった、そうすれば磯島も共に喜んでくれたはず、そんな後悔が恵姫の中に湧き上がって来ました。


「そろそろ続きをやろう、庄屋。日が長くなったと言ってもぐずぐずしていると暮れてしまう」


 毘沙姫が立ち上がりました。この後は刈った麦を束にして干す仕事が残っています。そこまでは恵姫の手を借りる事もないので、雁四郎と共に帰ることになりました。


「芽久姫様、本日はありがとうございました。恵姫様にお大事にとお伝えください」


 最後まで恵姫の猿芝居に付き合ってくれた庄屋の見送りを受けて、庄屋の屋敷へ戻る二人。そこで今朝着替えた装束を受け取り、城へ戻ります。


「雁四郎様、わちきは疲れたので背負ってくれでありんす」


 城への登り道はちゃっかりおんぶしてもらう恵姫。喜んで背負う雁四郎。どうやら芽久姫の言う事ならどんな我儘でも聞き入れてくれるようです。女に甘いにしても度が過ぎている雁四郎です。

 恵姫を背負ったまま城への山道を登り、雁四郎はようやく城門にたどり着きました。


「はあはあ、着きましたぞ、芽久姫様、はあはあ」

「ありがとうでありんす。気を付けて屋敷に戻るでありんすよ」


 疲れて地にへたり込む雁四郎を見捨てて、とっとと奥御殿へ戻って行く恵姫。玄関に入るとすぐに磯島が姿を現しました。


「おかえりなさいませ、恵姫様、いえ、芽久姫様とお呼びすればよろしいのですか」

「おや、知っておるのか。ははあ、さては厳左から聞いたのじゃな。芽久姫ごっこはもう終わりじゃ。化粧もすっかり落ちてしまったしのう」

「あまり雁四郎殿をからかうものではありませんよ。ああ、それから座敷に上がる前に湯殿へ行ってくださいましね。汗と泥だらけの野良着を脱いで着替えてくださいまし」


 磯島は朝着て行った装束を受け取ると廊下を戻ろうとしました。その背中に恵姫が声を掛けます。


「磯島、あの、その、化粧じゃがな。時々ならば今日のようにしてもらってもよいのじゃぞ。いや、勘違いするでない。別に美しいおなごになりたいとか、そういう意味ではなくて、雁四郎をからかうのが面白くてな。じゃから、その、たまには紅を差してくれ」


 磯島の動きが止まりました。恵姫に向けた背中が少し震えているようです。そして背中をこちらに向けたまま答えました。


「分かりました。して差し上げましょうとも」

「そうか、よろしく頼むぞ」

「……はい、恵姫様」


 声を震わせてそう言った磯島は、そのまま振り返ることなく廊下の奥へと歩いて行きました。

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