麦秋至その四 立腹姫
麦畑目指して歩いて行く恵姫たち六人。やがて城下町を抜けて見通しの良い道に出ました。ここからは山の方へと向かいます。それまで無言でしずしず歩いていた恵姫もさすがに退屈になってきたようで、雁四郎に話し掛けました。
「雁四郎様、先程、毘沙姫様が恵姫はお転婆とか仰っておられましたが、雁四郎様は恵姫をどのようなおなごだと思っているのでありんすか」
「そうですね、毘沙姫様の言葉通り相当なお転婆です。間渡矢一、いえ、志麻の国であれ程までにお転婆なおなごは居ないであろうと思われまする」
恵姫のこめかみに十文字の筋が現われました。黒姫もこれはまずいという顔付きに変わっています。
「そ、それでも、人より優れた点もあるのではないでありんすか。仮にも恵姫は領主の娘なのでありんすから」
「そうですねえ。嘘をつく時の冷静さ、人を騙す巧みさ、食べる事への貪欲さ、怠ける態度の太々しさ、この辺りは恵姫様の右に出る者は居ないと思われます」
恵姫の両肩がわなわなと震えています。これ以上は放っておけないと思ったのか、黒姫から口を挟みます。
「あ、でもめぐちゃんって釣りは上手だし、お魚料理の腕前は板前さん並みだし、見習いたいなあって所も沢山あるんだよ」
恵姫の両肩の震えが収まりました。安堵する黒姫。しかしここで雁四郎がまたも余計な一言を付け加えます。
「それもこれも魚食いたさに為せる業でございますよ。基本的に恵姫様は食う事、寝る事、浜遊び、この三つで構成されていると考えてよろしいかと……」
「何がこの三つじゃ、雁四郎の阿呆め!」
「えっ!」
驚いて歩みが止まる雁四郎。余りの言いたい放題に腹が据えかねた恵姫が、我を忘れて叫んでしまったのでした。
「あの、芽久姫様。今、何やら芽久姫様には似つかわしくないお言葉が聞こえたような気がしたのですが」
『くっ、怒りのあまり恵姫に戻ってしまったではないか。雁四郎の奴、好き勝手なことを喋りおって』
本当はもっと怒鳴りつけたい恵姫ですが、ここはぐっと堪えて咳払いをひとつ。
「コホン。失礼したでありんす。恵姫ならこんな文句を言うのではないかと思い、口にしたのでありんすが、少し気が入り過ぎたのでありんす。実はわちきは恵姫の物真似が得意なのでありんす」
「おお、左様でしたか。いや実に見事な恵姫様っ振りでございました。本人がここに居るのかと勘違いするところでした。」
実際に本人がここに居るのですから、勘違いでも何でもありません。雁四郎以外の者は、皆、クスクス笑っています。それでも気が付かないのですから、芽久姫の可愛らしさにすっかり判断力を鈍らされているのでしょう。
「雁四郎様。今度は恵姫の良い所を教えて欲しいでありんす」
「良い所ですか、そうですねえ……」
そう言ったまま黙り込む雁四郎。歩きながら上を見たり下を見たり横を見たり目を閉じたりしています。それでも一向に喋ろうとしません。
『雁四郎め。何を勿体ぶっておるのじゃ。容姿端麗で聡明で気立てが良くて器量良しと、城下でも評判のわらわじゃぞ。考えずとも良い所くらいすぐに出てくるであろうが』
やきもきする恵姫とは対照的に雁四郎は呑気なものです。ようやく口を開いたかと思えば、出て来たのはこんな言葉でした。
「ところで芽久姫様はどのようにして毎日過ごされておられるのですか」
『此奴、わらわの問い掛けを無視しおった!』
再びこめかみに浮かび上がる十文字の筋。それまでにやにやしながら見ていた毘沙姫がようやく横槍を入れます。
「雁四郎、恵の話はそれくらいにしておけ。壁に耳ありだ。間者はどこに潜んでいるか分からん。お前の言葉、聞かれているかもしれんのだぞ。恵の耳に入って困るような事は言うな」
実際に聞かれているし、耳に入っているのですから、今更用心しても手遅れです。しかし毘沙姫の助言によって、ようやく雁四郎は自分の愚行に気が付きました。如何に真実でも陰口と見なされるような振る舞いは臣下として慎むべきです。
「これは軽率でありました。恵姫様は我が
雁四郎はそれだけ言うと口を閉ざしてしまいました。もう何を問うても答えることはなさそうです。
『今頃気付いて後悔しても遅いわ、この不忠の輩が。雁四郎をからかうつもりが、逆に馬鹿にされてしまったではないか。このままやられっ放しでは腹の虫が収まらんわい。どうしてくれよう』
不意に恵姫の足が止まりました。手を握っていた雁四郎も歩くのを止めます。
「如何されました、芽久姫様」
「疲れて歩けなくなったでありんす。実はこんな長い道のりを歩くのは初めてなのでありんす。雁四郎様、背負ってくれでありんす」
「よ、喜んで!」
喜々として恵姫を背負う雁四郎。その背中で、為て遣ったりと言わんばかりの恵姫。
それからの六人は特に大きな波乱もなく歩みを進め、無事麦畑へと着きました。
「おう、これは見事に実りを迎えておりますな」
恵姫を背中から降ろした雁四郎が、風に揺れる黄金色の麦畑を前にして汗を拭いました。
「麦にとっては今が秋。稲穂よりも一足早く豊作を喜ぶことになります。有難いことです」
庄屋の声は弾んでいます。ただ、心底喜んでいないことは恵姫にも分かっていました。実っている麦粒の大きさも数も、昨年よりも明らかに劣っていたからです。ここにも一連の力の減衰の影響は表れているようでした。
『作柄は悪くなる一方か。何とかせねばのう』
隠れていた領主の娘としての自覚が、少しは顔を覗かせる恵姫です。
「さあさあ、皆さん、お願いしますよ」
田吾作が一人一人に鎌を手渡していきます。稲刈りの時と同じ鋸鎌です。鎌を渡された恵姫は突っ立ったままで、同じく鎌を渡された毘沙姫をじっと見詰めています。その顔が悪い表情に変わり始めました。良からぬ事を考えているようです。
「毘沙姫様は怪力と聞いているでありんす。誠なのでしょうかでありんす」
「ふっ、何を今更言っているのだ、恵……じゃなかった、芽久姫。そうだ。田の土起こしも大剣の一振りで終わる」
「それならば麦も一振りで刈れるのではないでありんすか。わちきにも怪力を見せて欲しいでありんす」
「ほう、それは面白い」
毘沙姫は鎌を置くと背中の大剣を抜きました。慌てて田吾作が止めます。
「お待ちくださいませ。刈り入れは土起こしとは違い、力任せに出来るものではございません」
「そうかな。要は刈ればいいのだろう」
毘沙姫はすっかりヤル気になっています。ほくそ笑む恵姫。
『しめしめじゃ。これで毘沙が一人で麦を刈ってくれれば今年の麦刈りは大助かり、何の労も払わずに昼の御馳走をただ食いできるわい』
恵姫の視線は田吾作が木陰に置いた風呂敷包みに釘付けになっていました。その中身は十段はあろうかと思われる重箱弁当、庄屋が農事に参加する時は特に豪勢な料理が詰め込まれるのです。そんな恵姫の悪だくみを知らずに大剣を構える毘沙姫。田吾作は尚も引き留めます。
「毘沙姫様、それならば、まずはあちらのはぐれ畑で試されてみてはいかがでしょう。丁度良い肩慣らしになるかと思います」
麦畑の端にはみ出るような形で、およそ一畝ほどの大きさの畑があります。そこにも黄金色の麦が揺れていました。
「んっ、そうか。ならば、そうしよう。この程度の畑ならば力を使わずとも刈れそうだな」
毘沙姫ははぐれ畑へ歩み寄り、その前に立ちました。五人の熱い視線が注がれる中、水平を保ったまま静かに厳かに持ち上げられていく毘沙姫の大剣ではありました。
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