玄鳥至その二 床伏しの姫

「姫様、磯島でございます。入ってもよろしいでしょうか」


 恵姫が伏している座敷の襖の前で磯島は声を掛けました。普段ならば声を掛けるどころか、呼んでもいないのに平気で座敷に上がり込む磯島です。しかし、恵姫が寝床に伏せるようになってからは、緊急の時以外、座敷に入る前には必ず声を掛けることになっていました。いきなり入ると驚いて体に障ると恵姫から言われたからです。


「ああ、磯島か。入ってよいぞ」


 襖の向こうから弱々しい声が聞こえてきました。恵姫の声です。磯島は「失礼します」と言って中に入りました。

 座敷の真ん中には特別に作らせた夜具が置かれています。普段は敷布団の上で夜着に包まって眠るのですが、今は綿入りの布団を頭から掛けて寝ています。これは恵姫の父が間渡矢城で冬を迎えた時にだけ使われる、城内に一枚しかない特別の掛け布団なのです。


「姫様、ご気分は如何ですか」


 磯島の問い掛けに、恵姫は布団から顔を出して答えました。


「そうじゃな、まだ元気が出ぬようじゃ。わらわの命運もここに尽きたのかもしれぬな」

「な、何を仰っているのです。姫様」

「磯島、長らく世話になったな。わらわが居なくなっても、お福には優しくしてやってくれ」

「そんな不吉な事を口にするのはおやめください。姫様の口からそんな言葉を聞きたくはありません」


 恵姫は力なく笑いました。もう口を開くのも辛いのでしょう、磯島に対する返事はありません。磯島は手に何かを取って恵姫に見せました。


「姫様、持って参りましたよ。これを読めば必ず以前のように元気な姫様に戻れるはずです」


 磯島が恵姫に見せているのは絵草紙。そうです、以前、左義長で灰にしようと目論み、それが失敗すると物入れから無断で取り上げた、あの『赤鯛黒鯛釣合戦』でした。恵姫の顔にほんの少し、喜びの色が浮かびました。布団から出した両手で絵草紙をしっかりと掴むと、恵姫は満足そうに言いました。


「おお、夢にまで見たわらわの絵草紙。再びこれにお目に掛かれる日が来ようとは、わらわは何という果報者なのじゃ。これでもう思い残すことは何もない。磯島、礼を言うぞ」

「ひ、姫様!」


 余りにも弱気な恵姫の言葉に、磯島は返す言葉がありませんでした。何とか勇気付けなくてはいけない、船で何があったのかは知らないが、とにかく過ぎたことは一刻も早く忘れ、今は楽しいことだけで頭を一杯にして欲しい、そう考えた磯島は恵姫の背中に腕を回して半身を起き上がらせました。


「姫様、ご覧ください。間もなく三月、桃の節供が近付いて参りました。あのように既に雛人形も飾られております。楽しく愉快な雛祭りを姫様は毎年心待ちにしておられました。今年は例年になく賑やかな雛祭りにしたいと思っております。ですから姫様もそれまでに元気になられてくださいまし」


 恵姫は自分の正面に飾られている雛人形を眺めました。

 いつもなら、

「こんな内裏雛は嫌じゃ。雛壇に飾るのは男雛と女雛ではなく、黒鯛様と赤鯛様でなくてはわらわは承服できぬ」

 と駄々をこねても、

「雛壇に魚の人形を置く雛飾りなど、どこの世界にありましょう。そんな我儘を言っておられるから、婿養子の一人も取れないのです」

 と言われ、

「ひ、雛人形と婿養子は話が別であろうが」

 と反論しても、

「いいえ、別ではありません。桃の節句を過ぎても雛人形を飾っていると婚期が遅れると申します。きちんと男雛と女雛を飾らねば、姫様の婚期は永遠に来ぬものと思われます」

 などと言い切られ、結局、普通の雛人形が飾られることになるのでした。


 しかし、今年は違います。恵姫の希望通り、雛壇には黒鯛様と赤鯛様が飾られています。それだけで恵姫は思わずよだれを垂らしそうになってしまうのでした。


「じゅる……あ、いや、おお、なんと見事な雛飾りであることよ。わらわへの心尽くしに深く感謝いたすぞ、磯島よ。このような三国一の雛飾りを見ることのできたわらわの生涯には、もはや一片の悔いもない。磯島、わらわ亡き後も達者で暮らすのじゃぞ」

「ひ、姫様!」


 雛飾りを見せれば元気が出ると思ったのに、またも裏目に出てしまいました。ここまで恵姫の思考が後ろ向きになってしまっては、さすがの磯島ももはや打つ手がありません。半身を起こしていた恵姫の体を元の通りに寝かせると、磯島はそっと布団を掛けました。


「少しお眠りになった方がよろしいかもしれませんね」

「うむ。磯島に返してもらった絵草紙でも眺めながら、鯛たちと戯れる夢でも見ようかのう」


 恵姫は横向きになると、絵草紙をパラパラとめくりはじめました。そんな恵姫を母のような眼差しで眺める磯島、その時、

「磯島様、よろしいでしょうか」

 襖の向こうから女中の声が聞こえてきました。磯島が返事をします。


「何用ですか?」

「黒姫様がお見えでございます。恵姫様のお見舞いがしたいと」


 今まで沈んでいた磯島の表情が、黒姫の名を聞いた瞬間、明るさを取り戻しました。


「おお、ようやく来てくれましたか」

 磯島は恵姫を見ました。黒姫の名を聞いても何の反応もありません。相変わらず絵草紙をぱらぱら眺めています。

「姫様、黒姫様が参っております。会われては如何ですか」

「いや、わざわざ会いに参った黒には悪いが、こんな情けない姿のわらわを見られとうはない。帰ってもらえぬかのう」


 素っ気ない恵姫の態度。それでも磯島は食い下がります。


「何を申されます。黒姫様なればこそお会いになった方がよいのです。姫様の数少ないお身内ではありませぬか。この磯島よりもずっと姫様のことを分かっておられるに違いありません。お会いなされませ」


 自分ではもう恵姫を元気づけられない、けれどもいつも陽気な黒姫ならば、恵姫の明るさを取り戻してくれるかもしれない、そう考えた磯島は、昨日わざわざ庄屋の家に出向き、黒姫にお見舞いに来てくれるように頼んでいたのでした。


「うむ、じゃが……」

「お会いなされませ。磯島、たってのお願いでございます」


 恵姫は絵草紙から目を離して磯島を見ました。頭を下げて懇願するその姿からは、哀れなほどの必死さが伝わってきます。


「磯島がそこまで申すなら会わぬでもない。じゃが、二人だけで話をしたいので詰めの女中も含めて人払いをしてくれぬか」

「おお、お会いになられますか。分かりました。お二人でごゆるりとお話しくださいませ」


 磯島はほっとしました。頼んで来てもらった黒姫を、門前払いにすることなどできるはずがなかったからです。


「ああ、それと、せっかく来てくれたのじゃ。黒には特別の茶菓子を出してやってくれ。わらわもご相伴にあずかろうぞ」

「かしこまりました」


 これで恵姫も少しは元気になるに違いない、磯島はそう思いながら座敷を出て行きました。同時に控えの間からも、詰めていた女中が出ていく気配がします。恵姫はほっと息を吐くと、また掛け布団の中へもぐりこみました。

 しばらくして、


「姫様、お茶をお持ちいたしました」

「めぐちゃ~ん、お見舞いに来たよ~」


 茶を運んできた女中と、お見舞いに来た黒姫が一緒に座敷に入ってきました。


「おお、黒か、よく来てくれたな」


 恵姫は布団を頭までかぶっています。その枕元に盆を置くと、

「では、失礼いたします」

 と言って、女中は出て行きました。

 これで座敷には恵姫と黒姫の二人だけです。黒姫は布団に近付くと帯から小槌を取り出しました。その肩には既に白黒鼠の次郎吉が乗っています。


「め、ぐ、ちゃああ~ん」


 黒姫にしては珍しく陰気で重々しい声、しかもその顔は、まるで何かを企んでいる時の恵姫のような、悪い表情になっていました。

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