雀始巣その二 島羽街道峠越え
内宮門前町から島羽城に向かう島羽街道は約三里。伊瀬と志麻の国境にある堂阪峠を除けば、さほど高低差のない歩きやすい街道でした。
先ほど門前町に戻り掛けた恵姫を何とか押しとどめ、また島羽目指して歩き始めた三人でしたが、恵姫の足取りは一向に軽くなりません。
「恵姫様、何をのんびり歩いておられるのです。そんな調子では日暮れまでに島羽城下に着けなくなってしまいますぞ」
磯辺街道では先頭を歩いていた恵姫も、今回は二人の後ろをのろのろ付いて行く有様。よほど伊瀬の門前町に未練があるのでしょう。
「この辺りも良き所でござるな」
雁四郎が周囲を見回しながら言いました。二月の明るい光を浴びて土起こしを待つ田、小ぢんまりとした農家が立ち並ぶ集落。伊瀬の民の生活の息吹が感じられる風景です。
「人はどこにでも住むものじゃ。家を作り、田を作り、子を作り育てる。雀が巣を作り子を育てるのと何ら変わることはないのう」
のろのろと歩いて行く三人の前を雀がちょんちょんと跳ねています。
「見よ、枯れ草など咥えおって。此奴も巣を作っておるのであろうよ」
「雀は農家にとっては有難くもあり、迷惑でもある鳥でございますな。秋には稲穂を啄むので嫌われますが、春先は害虫を食ってくれるので大助かり」
「いや、雀は有難い鳥じゃぞ。秋に丸々と太ったら捕まえて焼き鳥にしてしまえばよいのじゃ。干物と同じく骨まで食える。お福、そなたも食ったことがあるであろう」
お福は激しく首を横に振りました。あんな可愛い雀を食べるなんてとんでもない、きっとそう言いたいに違いありません。
「そうか、食ったことはないのか。では、城に戻ったらさっそく食わせてやる。座敷の縁側にはよく飛んでくるからのう。一匹捕まえて、わらわが焼いて食わせてやろう。美味いぞ」
今度は鋭い眼差しで恵姫を睨んでいます。そんな酷い真似は絶対にさせません、きっとそう言いたいのでしょう。雁四郎が二人の間に割って入ります。
「恵姫様、お福殿をからかうのはそれくらいに」
「すまんすまん、お福の困った顔が可愛くてな、思わずいけずを言いたくなってしまうのじゃ。ははは」
お福をからかっているうちに、恵姫の機嫌は随分良くなったようです。同時に門前町への未練も薄れていったのでしょう。ようやく足取りは軽くなり、二人の先頭に立って歩き始めました。
しばらく行くと道は二つに分かれました。道標が立っています。島羽街道はそのまま直進、右は
「右の道を行くとどこに出るのですか」
「文字通り朝熊山じゃ。この辺りでは最も高い山であるぞ。わらわも布姫に連れられて一度だけ登ったことがある。道端には多くのお地蔵様が立っておられてな、その先に
「ほう、富士の山ですか。それは一度見てみたいものです」
まだ見ぬ物を見、会ったことのない者と会い、聞いたことのない話を聞く……今回の旅を通して、雁四郎の中にある未知なるものへの憧れは以前にも増して大きくなっていました。いつの日かお役目ではない自由な旅をしてみたい、そんな夢を抱き始める雁四郎でした。
朝熊街道との分岐点を過ぎると、道は朝熊川に沿って進んで行きます。田も人家もまばらになり、門前町を出て二里ほどで峠のふもとに着きました。
「ここからは峠越えじゃ。茶屋で休んで行くとしようぞ」
三人は縁台に腰掛けると荷を下ろしました。出された茶を飲み、焼いた麦団子を醤油に付けて頬張ると、疲れが一度に吹き飛ぶような気がします。
「この峠もやはり相当きついのでしょうか」
心配顔の雁四郎です。お福も同様にその顔に不安の色を浮かべています。逢阪峠では黒姫の助けがありましたが、今回は自力で乗り切らねばならないのです。二人の懸念は当然と言えましょう。一方、恵姫はそんな二人をまったく気に掛ける様子もなく、口の中で団子をくちゃくちゃさせながら答えました。
「まあ、きついことはきついが磯辺道の峠ほどではない。ゆっくり登ればお福でも楽に越えられるはずじゃ。ただな……」
「ただ……何ですか?」
「生意気にも峠を越えた後、島羽城下の手前に峠御門があってな、そこに番所が設けられておるのじゃ。理由は分からぬがいつもあそこで時間を食う。我が領地には番所などひとつもないのにのう。島羽の殿様は何を考えておるのじゃ」
『いや、普通の城下ならば番所のひとつくらいあるはずで、むしろ何もない我が城下が珍しいのではないですか』
と、雁四郎は思ったのですが、もちろん口には出しませんでした。
「よし、登るぞ」
恵姫の掛け声とともに堂阪峠越えの開始です。峠の名に恥じない険しい道です。しかし人の往来が多いせいでしょうか、磯辺街道よりも踏み固められて歩きやすい道でした。
「この道も志麻の国の民にとっては生きるに欠かせぬ道。島羽の民はこの道を歩いて伊瀬に魚を運び、帰りは米を背負って戻って来る。道とは民によって作られていくものなのじゃな」
「歩く民がいなくなれば道も消えますな」
「そうじゃ。そして住む民がいなくなれば国も滅ぶ。民あっての道であり国である」
いつになく真面目な恵姫に雁四郎は安心しました。どうやら門前町への未練は完全に吹っ切れたようです。
やがて、思ったほどの労もなく三人は峠に立ちました。
「これで伊瀬の国ともお別れじゃな」
来し方を振り返って恵姫がつぶやきました。お福も雁四郎も歩いて来た道を眺めながら、伊瀬で過ごした八日間を振り返りました。外宮、内宮への参拝、布姫との出会い、斎主宮での謁見、門前町での食い歩き……ほんの数日前の出来事が遠い昔のことのように思われます。次にこの思い出の中に身を置けるのはいつの日になるのだろう、あるいはもう二度と味わえない思い出になるのだろうか、雁四郎はそんな憂愁を胸に抱いて恵姫を見ました。遠くを見詰める恵姫の目はいつになく潤んでいるようです。
『ああ、あの気丈な恵姫様も、伊瀬を去る哀しさには堪えられぬのだな。何か話して元気づけて差し上げよう』
雁四郎がそう思った時、切実な想いの籠った恵姫のつぶやきが聞こえてきました。
「い、今から戻って、もう一椀、手こね寿司を……」
見れば恵姫の口元からははよだれが垂れています。自分の甘ったるい幻想を打ち砕かれた雁四郎は、恵姫の肩を掴み、
「はい、行きますよ、姫様、歩いて歩いて」
と声を掛けるや、恵姫の体を島羽に向け、強引に峠を降り始めました。
「それから恵姫様、今のうちに申し上げておきますが、志麻の国に入ればもう姫札は使えません。これまでのように豪勢なお食事は出来なくなりますので、お覚悟のほど、お願いいたします」
「わ、分かっておるわい、雁四郎。ああ、次に食いたい物を腹いっぱい食えるのはいつの日になるのじゃろう」
こうして無事に島羽街道の難所、堂阪峠を越えた三人は
「仕方ない、並ぶとするか」
恵姫たち三人も列の最後尾に着きました。急ぐ旅ではないのですが、順番待ちというものはいつの時代も楽しいものではありません。それでも大人しく並んでいれば明けない朝はないのと同じで、自分たちの順番は必ず回ってくるものです。
「よし、通れ。次!」
恵姫たちの番が来ました。堂々と番所の
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