菜虫化蝶その二 外宮参拝
翌日、目を覚ました恵姫は、さっそくお福と黒姫が寝ている上の間に行きました。お福の枕元に畳んである着物をごそごそとまさぐる恵姫。
「ん~。あれ、めぐちゃん、もう起きたの?」
物音に気付いて黒姫が目を覚ましたようです。続いてお福も眠そうに目をこすりながら体を起こしました。
「おう、二人とも起きたか。今日も門前町で食い歩きじゃ。ところでお福、そなたの装束、今日はわらわが着る。取り替えっこじゃ。お福はわらわの装束を身に着けよ。よいな」
お福は一瞬驚いた顔をしましたが、すぐに笑顔になって頷きました。黒姫も笑顔ですが、こちらは鼻で笑っています。
「もう、めぐちゃんって単純ですねえ。考えていることがすぐに分かっちゃう」
そうです。姫と見られないのは装束のせい、ならば装束を変えればよい、それが恵姫の本日の作戦でした。
「うむ。これで今日は心行くまで伊瀬の名物を味わえるわい」
壺装束となった恵姫は自信満々です。一方、恵姫の裁着袴と小袖、羽織を身に着け、腰には竹光を帯びたお福ですが、これはこれでなかなか似合っています。恵姫の時とは違って髷を結ったままなので、男装のお姫様感が漂っているのです。
「お福ちゃん、その装束も結構いい感じだよ~」
「ふむ、これはまたお福殿の愛らしさが滲み出ておりますな」
黒姫も雁四郎もお福をベタ褒めです。恵姫はまったく面白くありません。
『まあよい。とにかくこれで今日はわらわが姫扱いされるのじゃ。美味いものをたんと食って、憂さを晴らすとしようぞ』
宿坊での朝食をしっかり取り、身支度を整えると四人は再び門前町に繰り出しました。さすがにまだ何かを食べる気分にはなれません。せっかくなので伊瀬神宮を参拝することにしました。
「神宮に参拝するのなら、外宮と内宮両方参らねばな。片参りでは神様も気を悪くするじゃろう」
という恵姫の意見に従って、まずは外宮に向かうことになりました。御師町から外宮まで約半里、歩いても四半刻ほどです。ゆるゆると参宮街道を進んで行く四人。雁四郎が興奮気味に話し掛けます。
「拙者にとっては初めての神宮参りとなります。少し緊張いたしますな」
「お伊瀬さまは特別だからね~。何度も行っているあたしたちでも、やっぱり行くたびに心が新しくなる感じがするよ~」
黒姫の言葉には恵姫も同感でした。他の神社仏閣とは違う独特な雰囲気が神宮にはあるのです。
「お福も初めてであろう。よく心に留めておくのじゃぞ」
お福はこっくりと頷きました。
やがて四人は外宮に着きました。北御門の鳥居をくぐって参道を進みます。
「この外宮は内宮鎮座から数百年後に出来たのじゃが、何故それほどの時が掛かったか、知っておるか、雁四郎」
「いえ、存じ上げませぬが」
「ならば教えてつかわそう。ある夜、帝の夢枕に内宮の神が現れ、こう言ったのじゃ。『長い間、ひとりで粗食に甘んじてきたがもう耐えられぬ。わしとて美味い飯を腹いっぱい食べたいのじゃ。そこで相談なのじゃが、料理上手として名を馳せている丹波の国の神を呼んで、近くに祀ってはくれぬかのう』とな。神託を受けた帝は言われるままに、この地に丹波の神を祀り外宮としたのじゃ。それにしても、よく数百年近くも不味い飯を我慢して食っていたものじゃな。神ながら天晴れな奴じゃわい」
「そ、そんな謂れがあったのですね」
「そうじゃ。つまり美味い飯を腹いっぱい食べることは、神にとっても人にとっても非常に大切ということなのじゃよ。よってわらわが毎日美味い物を食べ続けるのも神の教えに従っているだけのことで、何ら悪いことではないのじゃ」
一体いつの間に外宮鎮座の話が、恵姫の大食い正当化の話にすり替わってしまったのかと、まるで狐に鼻を摘ままれたような心持ちがする雁四郎なのでしたが、こんな時は他人に話を振るのが一番の良策であるとばかりに、黒姫に尋ねました。
「えっと、これは本当の話なのですか、黒姫様」
「う~ん、まあ、だいたいは合っているよ。外宮の神様は食べ物や穀物の神様だからね~」
「なんじゃ、雁四郎、わらわの話が信じられぬとでも申すのか」
「い、いえ、そういう訳ではなく、黒姫様はこの話を知っているのかと思いまして」
「知っているに決まっているではないか。鼠や熊と遊んでばかりいるが、黒とてれっきとした姫なのじゃからな」
「遊んでばかりじゃないよ~。牛さんや馬さんと一緒に野良仕事だってしているんだから」
「おお、そうであったな。また今年も田植えは手伝いに行くぞ」
「めぐちゃん、手伝いに来てもお弁当のお握りを食べて、すぐ昼寝しちゃうくせに」
「し、失礼な。少なくとも十株は植えておる」
恵姫と黒姫はいつもの井戸端世間話に突入してしまいました。雁四郎は話が逸れて行ったので一安心です。
そうこうするうちに神様が祀られている御正宮に着きました。さすがにここでは恵姫も黒姫も口を閉じ神妙な顔つきになります。
静かに参拝をする四人。それぞれの想いはさまざまで想いの深さもまちまちですが、それが一番大切な想いであることに変わりはありません。
御正宮で無事参拝を済ませた四人は、多賀宮、土宮、風宮と参り、火除橋を渡って外宮を後にしました。
「ふう~む、やはり心が洗い清められるのう。昨日の不満もすっかり消え失せたわ」
「めぐちゃん、ここにも門前町があるよ。何か食べていく?」
「いや、心が洗い清められると同時に、美味い物への欲も消えたようじゃ。内宮の門前町で食べるとしよう」
『なんという神の力。あの恵姫様の心と腹をこれほどまでに清めてしまうとは。外宮の神様、かたじけのうございます』
と、雁四郎は心の中で感涙にむせび泣いていたのですが、恵姫がここでは食べないと言ったのは、ここで食べると腹が張って内宮の門前町まで歩くのが億劫になるからでした。まだまだ読みが甘い雁四郎であります。
外宮の門前町をぶらぶらと歩く四人。ふと、ひとつの土産物屋が目にとまりました。
「伊瀬の土産か。面白い物があるのう。何か買うか」
「でも、めぐちゃん、ここ姫札使っても半値にしかならないよ~」
「ふん、大丈夫じゃ。路銀は雁四郎が持っておる」
恵姫は勝手に中に入って行きます。三人も続いて中に入りました。様々な土産が置かれています。四人は物珍しそうにあれこれ見て回りました。
「ほう、綺麗な簪ですな」
雁四郎がお福に声を掛けました。手に小桜細工の簪を持って眺めていたお福は、声を掛けられると恥ずかしそうにそれを元に戻そうとしました。
「よければ拙者が買って進ぜよう、お福殿」
お福は首を横に振りましたが、雁四郎はもう簪を手に取っています。目ざとい恵姫は不満たらたらです。
「おい、雁四郎、お福には随分甘いではないか。そんなものに大事な路銀を使っていいのか」
「これは拙者の財布より払います。路銀は使いません」
「ならばわらわにも土産を買うてくれ。そうじゃな、この鯛車がいい。見よ、この紐を引っ張って転がすと、尾びれがひょこひょこ動くのじゃぞ」
「恵姫様は御自分の財布をお持ちでしょう。そこから払ってください。お福殿は銭を持たぬゆえ、拙者が払うのです」
結局、お福は簪、雁四郎は伊瀬木綿の手拭い、恵姫は鯛車、黒姫は無駄遣いしたくないと言って、何も買いませんでした。
「お福殿、拙者が簪を差しましょう。おお、良くお似合いですな」
「うん、お福ちゃんの可愛さが倍増しているよ。めぐちゃんじゃ、こうはいかないものね」
二人に褒められて恥ずかしそうに笑うお福。髷に差さった簪の先では、小桜細工がゆらゆらと揺れていました。
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