霞始靆その三 白黒鼠次郎吉

 こうして中身の無い話が続き、三杯目のお茶を飲むころになると、さすがに恵姫も少々飽きてきました。黒姫の前でごろりと横になりました。


「もう、めぐちゃん、お行儀悪いですよ」

「ここはわらわの座敷ぞ。誰に遠慮気兼ねをしようか。ふあ~、また頭に霞が棚引き始めたわ」


 お客である黒姫の前でも、平然と無作法を決め込む恵姫。黒姫は帯の間から何かを取り出して、横になっている恵姫に近付きました。


「そんなお行儀ではまた磯島様に叱られるぞっ、コツン!」


 恵姫の頭に何かが当たりました。「なんじゃ」と言って見上げると、黒姫の手には小槌が握られています。


「ふっ、その小槌は頭の中の霞を払うためのものではなかろう。軽々しく使わぬことじゃ」


 恵姫は右の手の平を上に向けました。そこに黒姫が小槌を乗せると、目の前に持ってきてしげしげと眺め始めます。

 金蒔絵で仕上げられた小槌の胴には一匹の鼠の絵、持ち手の柄の先には紅の房紐。見るからに縁起の良い小槌は、しかしながら非常に小さいものでした。柄は握るというよりは摘まむと表現せねばならない程に短く細く、全体の重量も軽く、何かを叩き、打ち、殴るといった小槌としての本来の機能を、全く兼ね備えていないことは一目瞭然でした。


「鼠か。黒は鼠が本当に好きじゃのう」

「めぐちゃんだって、食べたくなるくらいに鯛が好きでしょう。あたしは鼠を食べたりしませんよ」

「お互い様か。ふむ、そう言えば奴はまだ元気でやっておるのか」

「元気よ。今日も付いて来ているはず」


 黒姫は恵姫から小槌を受け取ると、障子を開けて縁側に立ちました。指の先に小槌を摘まみ、ゆっくりと頭の上に持ち上げます。と同時に頭髪が扇形に持ち上がり、一本一本の髪の先が白く淡く光り始めました。黒姫は大きく息を吸うと、小槌を振り、言葉を発しました。


「召す!」


 まるで空から降り、地から湧いたかのように、白黒まだらの二十日鼠が一匹、黒姫の肩に現れました。


「ほう、黒の業もまだまだ衰えておらぬようじゃな」


 恵姫の褒め言葉に笑って応えると、黒姫は障子を閉め、鼠を肩に乗せたまま座敷の中に入ってきました。


「その鼠、名は、確か治郎兵衛であったか」

「違います。次郎吉じろきちです。ほら次郎吉、恵姫様にご挨拶なさい」


 次郎吉は黒姫の肩から降りると、相変わらず左腕を枕にして横になっている恵姫の前に二本足で立ちました。


「ほらほらめぐちゃん、次郎吉を手に乗せてあげて」


 そう言われた恵姫は、仕方ないのうという顔で、右手を次郎吉の前に突き出しました。その上にちょこんと飛び乗る次郎吉。


「では、いきますよ、コツン!」


 黒姫が小槌で恵姫の頭を叩きました。叩かれた恵姫も手の平に乗った次郎吉も、何の変化もありません。二人と一匹は何も喋らず身動きもせず、座敷には静寂の時がしばし流れておりました。

 やがて次郎吉は手の平から降りると、黒姫の肩に乗りました。ここでようやく恵姫は起き上がり、脇息きょうそくに肘を掛けて横座りになりました。


「どうでしたか、めぐちゃん」

「ふっ、つまらぬ挨拶じゃ。『拙者、鯛より米を好む者にて候』とか何とか言っておったのう」

「えっ、それだけ?」

「他にも色々あったが忘れたわ。言葉ではなく気持ちで頭に入って来るからのう。つまりは、忘れてもいいような内容ばかりじゃったということじゃな」


 次郎吉が気に入ってもらえなかったようで、少しがっかり気味の黒姫です。手に持った小槌の先の出っ張りを外すと、中から米粒を出して次郎吉に与えました。


「ほら、姫様にちゃんと挨拶出来たご褒美だよ」


 次郎吉は二本足で立つと、米粒を前足で持って、立ったままで齧っています。なかなか可愛らしい仕草です。


「その鼠、最後にわらわに見せてくれたのは随分前ではなかったか。長生きな鼠じゃのう」

「もう五年も生きていますよ。さすがに最近は体が弱ってきているみたいですけどね」


 二十日鼠の寿命はせいぜい一、二年。それに比べれば奇跡的な長寿です。


「さすがは黒の寵愛をうけた鼠じゃな。この果報者めが」


 恵姫は多少の羨望を感じつつ、黒姫の肩に乗った次郎吉を眺めておりました。と、急に何かを思い付いたように、脇息から身を離しました。


「忘れておったわ。黒に会わせたいおなごがおったのじゃ。誰か!」


 恵姫がパンパンと両手を叩くと、しばらくして座敷の障子が開きました。控えの間に詰めている女中です。一人だけです。

 与太郎の出現以来、控えの間には二人の女中が詰めていたのですが、その後十日を過ぎても与太郎は全く姿を現さないので、数日前に元通りの一人詰めに戻っていました。

 襖を開けた女中は、頭を下げると尋ねました。


「何か御用でしょうか、恵姫様」

「お福を呼んでくれぬか」

「かしこまりました」


 再び頭を下げて襖を閉める女中。廊下を遠ざかっていく足音が聞こえます。


「えっ、お福って誰なの? めぐちゃん」

「なに、今説明せずとも会えば分かる。黒に目利きをして欲しくてのう」

「目利き?」


 首を傾げる黒姫に同調して、次郎吉も肩の上で首を傾げています。五年も一緒に居るのですっかり一心同体になってしまっているようでした。


『うむ、わらわも鯛を一匹飼い慣らしてみようかのう。そして毎日その鯛と一緒に海を泳いで小魚を取りまくるのじゃ。夢のような日々であろうな』


 そんな妄想に耽る恵姫でした。


「お呼びでございましょうか」


 襖を開けて座敷に入ってきたのは、お福ではなく磯島でした。恵姫の表情が一気に不機嫌になります。先ほどの絵草紙掠奪の怒りがまだ冷めてはいない様子です。


「なんじゃ、磯島。呼んだのはお福じゃぞ。そなたではない」

「ええ、そうでございますね。それで私もお福を行かせたのですが、しばらくして戻って来たのです。行くように促しても首を振って行こうとしません。それで私が来たのですが、座敷を見て理由が分かりました。鼠です。」

「鼠がどうしたと言うのじゃ」

「お福は大の鼠嫌いでございます。と言うより、おのこもおなごも鼠を嫌うのが普通でございます」

「そうかのう、可愛いと思うが」

「とにかく鼠が居る限り、お福は座敷に入ろうとはせぬでしょう。お福に会いたいのならば、黒姫様、鼠をお仕舞いになってくださいませ」


 磯島にそう言われては仕方がありません。それに磯島の言葉通り、表御殿でも奥御殿でも鼠を好きな者などほとんどいませんでした。むしろ、米や魚を食い荒らす害獣として、駆除の対象になっていたのです。お福が嫌うのも無理からぬことでした。

 黒姫は次郎吉を肩から降ろして左手に乗せると、中庭に面する障子を開けました。


「次郎吉、しばらくお外で遊んでいてね」


 次郎吉は右手から大きく飛び降りると、そのままどこかへ行ってしまいました。


「これで、お福ちゃんも安心ですね」

「ありがとうございます黒姫様。お福、お福、もう大丈夫ですよ」


 座敷の襖がそろそろと開くと、お福が顔を覗かせました。部屋の中をきょろきょろ見回しています。


「もう鼠はいませんよ。お入りなさい。では私はこれで失礼します」


 磯島が出て行くと、代わりにお福が入ってきました。まだ少し怯えているようです。

 お福の委縮は何も鼠一匹だけのせいではありませんでした。どうして鼠が居たのだろう、どうして自分が呼ばれたのだろう、これから何をされるんだろう、しなくちゃいけないんだろう、そんな思いがお福の中を駆け巡り、お福に恐れを抱かせていたのでした。

 お福は改めて恵姫と黒姫を見ました。何かを企んでいる、そんな気がしてなりませんでした。


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