第六話

 アイザの様子が変わった。

 たった一瞬、たった一人の一言で。


「じゃあ、また学園で」

 他人では気づかないかもしれないほどの、かすかな変化。けれどガルの目にはアイザが随分と晴れやかな顔をしているように見えた。

「……ああ、それじゃあ」

 無理をしないように、とか。気をつけて、とか。ガルもいろいろと言うつもりだったのだが、それらの言葉は途端に意味をなさないものに変わり果てた。

 今のアイザには、きっとそんな言葉は必要ない。

「ガル?」

 行かないのか、と首を傾げるアイザに、ガルは苦笑する。

「……いや、なんでもない。アイザが帰ってくるの、待ってるな」

「うん」

 素直に微笑むアイザに、選んだ言葉は間違いでなかったらしいと知る。

 学園もまたアイザにとって帰る場所のひとつなのだと思えば、そこで彼女の帰りを待つというのも悪くない気がした。


「わりとあっさりしてんのな」

 門を越えてから、どこか意外そうにジャンが口を開いた。急ぐ帰り道ではあるが、馬を急がせるほどでもない。まるで散歩のようにゆっくりと馬を歩かせながら、会話を楽しむ余裕もある。

「おまえのことだからもっとギャーギャー騒ぐのかと思ったんだけど」

「なんだよそれ。ガキじゃあるまいし」

 アイザより先に帰るという選択には、とっくに納得している。それなのに別れ際で駄々をこねるほどガルは幼くない。

「いや、嬢ちゃんが攫われた時のおまえそんな感じだったじゃん」

「そこまでひどくない」

「うわ、自覚ねぇぞこいつ」

 二人の引き攣らせた顔に、自覚はしている、とガルは唇を尖らせる。

 誰も彼もが似たようなことばかり言うのだから、嫌でもわかるというものだ。

 きっと、ガルのアイザに対する行動はいささか異常なのだ。たぶん。ガルは全然そんなつもりはないけれど。

 アイザを守りたいという感情に嘘はない。それどころか打算もない。ただただ、アイザを前にするとおもうのだ。

 この人は俺が守らなくちゃ、と。

 それはおそらく、いとおしいとか恋しいとかいう感情の遥か先にある、もっと本能的なもので。

 それに振り回されている、とも近頃は感じるようにもなった。振り回されていることが嫌なわけでもないが、アイザを困らせることになるのは駄目だ。

 ガルは知らなくてはいけないのだと思う。

 自分のこと。

 獣人とはなんなのか、を。

 そうしなければ、この先もアイザの隣に立ち続けていることができなくなるような気がするから。



 ドレスは女性にとっての鎧のようなものなのだという。

 アイザにとっては拷問具にも等しいが、ここ数日の成果もあって、ほんの少しだけ、鎧だと言う女性の気持ちも理解できるような気がした。

 人は第一に見た目で人を判断する。

 うつくしいドレスを着こなす人と、ただの庶民にしか見えない人では対応が違う。特に、この王城では。

 ガルを見送り城に戻ってきたアイザは、侍女に頼んでドレスに着替えた。

 鏡に映る少女は、ドレスを着こなしているとは言い難いかもしれないが、良家の娘には見えるだろう。

「……陛下とお会いしたいんだ。ほんの数分でいいから」

 できるかな、と侍女の一人にそう告げると「かしこまりました」と部屋を出て行く。いつぞやのように予告無く会いに行ってもいいのだろうが、礼儀は尽くさなければならない。まして今、イアランは眠る時間すら削っているのだろうから。

 進むべき方角は見つけた。

 あとは一歩ずつでも、進んで行くだけだ。

 そしてこれは、アイザが進むべき最初の一歩なのだろう。


 アイザが会いたいと申し出てから一時間ほど経った頃、イアランの執務室に呼ばれた。

 侍女の一人を連れて部屋に向かい、外で待たせた上でアイザは足元のルーに目を配る。優秀な精霊はそれだけで鼻を鳴らす。防音の魔法だ。

「話があるそうだね?」

「はい」

 微笑むイアランはまったく疲労を滲ませない。

 穏やかな口調に、穏やかな表情。これはイアランがアイザに見せる『兄』の顔なのだと思う。

 タシアンもイアランも、アイザを庇護しようとしてくれる。おそろしいものから隠し、煩わしいことからは遠ざけ、ただただアイザが生きやすいようにと道を整えてくれている。


 けれど違うのだ。

 アイザは、そんなやさしさが欲しいわけじゃない。


「……見習いとはいえ、わたしは魔法使いです。ルテティアの、魔法使いです」


 ルテティアの、と強調した上でアイザは一度息を吐いた。心臓の音が頭まで響くほど緊張している。

「それゆえ。魔法を愛してくださった亡き女王陛下に。最期に、差し上げたいものがございます」

 あくまで口調は崩さない。

 異父妹としての立場を使って会っているけれど、今のこの場で、アイザはただのルテティアの民だ。目の前にいる青年は、敬愛すべき国王である。

 沈黙が、まるで針で肌を刺してくるように痛い。

 震えそうになって、アイザはぎゅっと唇を引き結ぶ。

「……自分が言っていること、ちゃんとわかっているみたいだね」

「もちろん」

 ようやくイアランが口を開いた。部屋に控えるタシアンは、まるで壁になったかのように一言も発さない。アイザの覚悟を感じ取ったからか、それとも発言する価値すらないと思ったのか。

 アイザが魔法使いとして、公式に何かをする。

 それはアイザが、ルテティアに属する魔法使いであると、内外に知らしめることになるのだろう。

 イアランの戴冠式での魔法は、誰が行ったのか明らかにされていない。魔法を知らぬ民衆には奇跡のように見えただろうし、魔法と気づいた者にしてみても、どこかの気まぐれな魔法使いによる、ただの祝福だった。

 失望されるのは怖い。

 庇護してくれていた手が突然離されることにも、少しだけ怯えている。それが甘えだとわかっているのに、アイザはもうそれらのやさしさを知っているから怖くなる。

 けれどこれは、自分で選んだ道だ。

 アイザは胸を張り、しっかりとイアランを見る。

「陛下。わたしは、魔法伯爵の娘です」

 それは、誰にも否定できないアイザの誇りだ。

 この身に流れる血を、アイザは嘆いたりしない。疎んだりしない。

 魔法伯爵リュース・ルイスの娘であり。

 女王ウィア・ラクテア・ルテティアの娘でもある。

 それがアイザだ。アイザ・ルイスだ。


「……わたしは、父のようになりたい。父のように死ぬまでルテティアの魔法使いでありたい。だからこそ、この国に、もう一度魔法を呼びたい」


 アイザが持つ武器は魔法だけだ。

 ルテティアでアイザが魔法使いとして生きるために、この地を魔法が使える場所にしなければならない。

 なにより。


『だからね、わたし、大きくなったら魔法使いになりたい!』


 アイザの魔法で、夢を見つけたあの女の子のような子どもが、憂いなく魔法使いを目指せる国であって欲しい。

 魔法伯爵であり、死ぬまで魔法使いであった父と、魔法を愛し魔法使いを愛した母を持つアイザには。

 魔法は世界を愛する力なのだと、それを証明し続けることこそが使命なのだと思うのだ。


 アイザはもう震えていなかった。

 ただ真摯にイアランを見つめ、はっきりと声を紡ぐ。青い瞳が、まるで意思を宿した炎のように燃えている。


「わたしはルテティアの、あなたの、魔法使いになりたい。タシアンがあなたの剣だと言うのなら、わたしはあなたの盾になりたい」


 アイザは女王の魔法使いにはなれなかった。

 彼女にとっての魔法使いは、永遠にリュース・ルイス一人で、そしてアイザにとって女王は仕えるべき主ではなかった。

 タシアンがイアランにとって異父兄でありながら、誰よりも信頼される騎士であるというのなら。


 どうか、とアイザは小さく声を零す。


「共に茨の道を歩ませてください」


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