第二話

 アイザの問いかけに、タシアンは青い瞳を見開いて言葉を飲んだ。

「違う。それは、違う」

 何故知っているのか、という問いは浮かんだものの、即座に否定が口に出る。

 はっきりとしたタシアンの否定に、アイザの強張った表情も幾分か緩んだ。

「……とりあえず、店に入るか」

 困ったように目を彷徨わせながら、タシアンが歩き出す。アイザはその背を何も言わずに追いかけた。

 アイザはあまり商業区に出たことがない。食事は基本的に食堂で事足りるし、甘いものなどはニーリーがよくわけてくれるのでわざわざ買いに行く必要がない。文具などがなくなれば買い足しにやってくるくらいだ。

 慣れた様子でタシアンは一軒の店に入る。

「いらっしゃ……あれ、タシアン?」

 店主らしき男性が、タシアンの姿に目を丸くした。

「久しぶりだな、奥空いてるか?」

 タシアンも親しげに笑って店の奥の方を指差した。入り口の近くはいくつかのテーブルが並び、奥は半個室のようになっている。カウンター席にはちらほらとマギヴィルの生徒らしき人もいた。

「ああ、空いてるよ。どうした? 向こうの騎士団はクビになったか?」

「そんなわけあるか」

 軽口を叩きながらタシアンがアイザを連れて奥へ進む。

「マギヴィルにいた頃の知り合いなんだよ、飯も上手いから安心しろ」

「……じゃあ、あの人も卒業生?」

 武術科か魔法科か、どちらを卒業したかわからないが、マギヴィルの卒業生が飲食店を経営しているとは思わなかった。

「商業区で働いている奴らはけっこう卒業生が多いよ」

 タシアンはそう話しながら先に適当に料理を注文していく。好き嫌いのないアイザはすべてタシアンに任せた。こういうところで何を食べていいか、アイザに聞かれても正直困るので助かる。

 テーブルにつくと、タシアンは小さくため息を吐いたところで苦笑した。

「……さっきの質問だが」

 タシアンの向かいに座って、アイザはただ続きの言葉を待った。

「あの頃は父親を亡くしたばかりのおまえに、突然兄だのなんだの言っても困惑するだけだろうと思っていた。……いろいろあったしな」

 いろいろ、という言葉にアイザも苦笑する。

「それに、もともと俺は元王子って意識があまりないんだ。廃嫡されたのはガキの頃だったしな。だから普段からわざわざそう名乗ることもしていない」

 過去のことだ、とタシアンは既に割り切っているらしい。

「だから、おまえの存在が迷惑だってことはない。迷惑だったら後見人だって引き受けたりしないさ」

「……タシアンが……って知ったときのわたしの驚きはどうしてくれる」

「それはすまなかった」

 むすりと不機嫌そうにアイザが睨み付けると、タシアンは素直に謝る。ちょうど料理が運ばれてきて、テーブルの上は賑やかになった。

 焼きたてのパンには薫製肉や野菜が挟んであって、具沢山のスープは少しスパイスが効いていそうだ。皿に盛られた鶏肉にはとろりとしたソースがかけられている。匂いだけで空腹が刺激されそうだ。

「それで? どこで知ったんだ? マギヴィルで俺の噂でも聞いたのか?」

「ううん。ルームメイトから聞いた。でもタシアンの逸話もいくつか聞いたな。すごく強かったって」

「そういう噂はどんどん誇張されていくもんだ」

 たいしたことはしていない、とタシアンは笑う。

(けどたぶん、半分くらいは本当なんじゃないのかな……)

 食事と一緒に運ばれてきたお茶を飲む。タシアンも律儀にお茶を飲んでいた。お酒を飲んでも気にしないのに、とアイザは小さく笑う。

 やさしい人だ、付き合いの短いアイザにも、それはわかる。

「……ミシェルさんにも会った」

 言うべきかどうか、と悩みながらも聞きたいことのひとつであるので素直にアイザが告げると、ちょうど飲み物を口に含んでいたタシアンが盛大に噎せた。

「……大丈夫?」

「だ、大丈夫だ、おまえ、なんで」

 口籠る様子に、動揺の度合いが手に取るようにわかる。

「わたしのルームメイト、教えただろ?」

 クリスについては手紙で既に知らせている。ノルダインの王子だと。イアランは知っていたようだが、タシアンは聞かされていなかったらしい。男と同室なのが嫌ならどうにかする、とすぐに返信が届いたのはアイザも覚えている。

「……ああ、なるほど」

 それだけで説明としては十分だったのだろう。タシアンは納得したように目を伏せた。

(やっぱりもう少し慎重に探るべきだったかな……)

 しかしアイザも回りくどいことは得意ではない。タシアンに来てもらったのは、彼女とのことについて聞きたかったからだ。

「……ミシェルさん、縁談がきているって」

「知っている」

 連絡をとっていないらしいタシアンが、彼女のことを知る術はほとんどないはずだ。けれどタシアンは、はっきりと間髪入れずに答えた。

「……どうして知ってるんだ?」

 縁談の相手がイアランであることは、アイザも先日ミシェルから聞かされたばかりだ。タシアンはイアラン本人から告げられたのだろうか。

「相手は殿下だ」

 苦々しい表情で、タシアンがぽつりと零す。

「まだ正式に決まったわけじゃないけどな」

 目線を落としながら答えるタシアンに、アイザも目線を彷徨わせた。なんとなく、今の彼の顔を見てはいけないような気がした。

「……タシアンはそれでいいのか?」

 何かを口に運ぶ気分にもなれず、お茶の入ったグラスを手繰り寄せて両手で包み込む。

「……俺がとやかく言うことじゃない」

(そりゃ、そうだ。そんなことはわかっている)

 国同士のことなら、アイザはもちろん臣下のタシアンが否を唱えることではない。

 けれど。

(タシアンやミシェルさんが何も言わなきゃ、話はどんどん進んでいく)

 イアランはどうするのだろう。どうするつもりなのだろう。ここにいない彼にそれを問うことはできないし、タシアンに問い詰めたところで答えを得られるわけでもない。

「タシアンはいつもやさしいけど……でもそれは、残酷だよ」

 決して誰も幸せにはしない。それは、アイザにもわかる。

「知っている」

 タシアンは即答した。低くやわらかな、まるで撫でるようにやさしい声音で。

「……知っていて、そうしたんだよ」

 顔を上げたアイザの目に映ったのは、まるで自分で自分の息の根を止めようとするような、痛々しい男の姿だった。

 アイザはもう、その件について何も言えなかった。




 その後ゆっくりと近況を確認しながら食事を終えて店を出ると、空はすっかり藍色に染まり星が瞬いている。

「門限には間に合うな。門まで送る」

「平気だよ」

 そう遠い距離でもない。遠方からやって来たばかりのタシアンにわざわざ送ってもらうほどのことはないとアイザが首を横に振ると、彼は「駄目だ」と一蹴した。

「女の子が一人で歩く時間じゃない」

 心配性だな、と笑いながらタシアンとともに歩く。そういえば、こうして二人で街中を歩くのは初めて出会ったとき以来だ。あのときとはすっかり変わった関係に、少しくすぐったいような気持ちになる。

「明日の昼には出立するつもりだが、大丈夫か?」

「え、あ、うん」

(そうだ、荷造りを終わらせないと)

 部屋にはまだ終わっていない荷物が散乱している。そのままにしてしまっていたから、クリスにあとで怒られるかもしれない。

「あいつにも伝えておいて……なんて顔してんだ」

 あいつ、が指すのはもちろんガルである。補習を免れた彼は予定通りアイザやタシアンと共にルテティアへ帰ることになっている。

「え、いや……あんまり会いたくないなって」

「何された」

 タシアンは眉間に皺を寄せた。

「……なんで皆、ガルが何かやったって前提なのかな」

 ただアイザが顔を合わせたくないというだけで、何もされていないとは考えないのだろうか。

「可能性の問題だろ。何か嫌なことをされたなら代わりに殴ってやるよ」

 まるでいじめっ子から妹を守る兄みたいだ――と考えて、そうだ兄だった、とアイザは内心で笑う。

(嫌な、こと……)

「……嫌だったわけじゃ、ないんだけど」

 では、どうして今彼の顔を見ることができないのだろう。ただただ恥ずかしくなるときもあれば、腹立たしく思うときもある。


『これは、事故じゃないから』


 それならば、なんだったというのか。

「……困ること、かな」

 ぽつりとアイザが小さく零すと、学園の門が見えてきた。


「いやだーかーらー! もうすぐ門限だろ!? 門の外に出られるわけないから! 門番さんを困らせんな!?」


 この時間には珍しく騒々しい声に、アイザは目を丸くした。ヒューの声だ。

(ってことは……)

「アイザが帰ってきてない」

 やはり、ガルの姿を見つけてアイザはため息を吐き出す。ヒューが騒いでいるときはたいていガル絡みのときだ。

「いやアイザだって出かけることくらいあるだろ!?」

「俺は何も聞いてない」

「クリスティーナ嬢が出かけたって言ってたじゃん!?」

 揉めている内容までしっかりと聞き取れる。門番はすっかり呆れているようだし、ヒューは必死にガルを行かせまいと腕を掴んでいた。

「……何やってんだあいつは」

 呆れ果てたタシアンの声に、アイザも頭が痛くなった。

(会いたくないのに向こうはあんなんだし……)

 どうしろというのか。

「おい馬鹿! 時間を考えろ! 飯食ったなら寝ろ!」

 見かねたタシアンが声を上げると、ガルは弾かれたようにこちらを見た。

「タシアン!?」

 ヒューが「え!?」と驚いている。まさか憧れの存在とこんなタイミングで会うとは思ってもいなかっただろう。

 タシアンは通行証を門番に見せるとすたすたとガルに歩み寄る。先ほど待ち合わせたときには門の外にいたので、てっきり通行証はないのだと思っていた。

「え、なんでタシアンがアイザといんの?」

「第一声がそれかこの馬鹿」

 タシアンは睨みつけながらごつん、と容赦なくガルの頭に拳骨を落とす。その光景に瞬きを繰り返しながらヒューが呆けたように呟く。

「え、あのタシアン・クロウ?」

 アイザも学生証である懐中時計を門番に見せて、ヒューの隣に並ぶ。

「……そのタシアン・クロウだよ。迎えに来たんで一緒に食事に行っていたんだ」

 痛い何すんだと喚くガルに、タシアンはまた拳骨を落としていた。

「おまえな、こんなにべったりアイザに張り付いてんのか。馬鹿か、アホか、自重しろ!」

 タシアンの怒鳴り声に、アイザは小さく頷いた。伝言もなく商業区へ行って食事してきただけでこんなにも騒がれるのは、さすがに困る。

「なんでそんなことタシアンに言われなきゃならないんだよ!?」

 拳骨を落とされた頭をさすりながらガルが叫ぶが、タシアンはそれ以上の迫力で言い返した。

「保護者だからだ!」


(……もう、帰っていいかな……)

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