第二章:折れない強さ
第一話
――本気でかかってこいよ。俺があの嬢ちゃんを連れ去ろうとしている悪い人間だったらどうすんだ?
突然胸倉を掴まれ、呆然としているうちに放り投げられた。驚きながらも反撃の意思を見せないガルの耳元でレグが囁いたのは、そんな言葉だった。その金の目が見た先にいたのは、こちらを心配そうに見つめているアイザだった。
「おっまえ……!」
その瞬間、カッと頭に血が上る。目の前が赤くなって、気がつけばレグに掴みかかっていた。そして、次の瞬間には放り投げられて地面に叩きつけられる。ガルには何が起きているかすぐにわからなかった。今まで、誰かと手合せするような場面で自分がどう動いているか、相手がどう動くか、考えるよりも先に感じていた。だから、予想外のことなんて起きなかった。
だがどうだ、結果的に、ガルは地面に伏せている。
獣人だと名乗ったあの男に、手も足も出ず、ただ地面に噛り付いている。傷一つ、つけることも出来ずにただ子どもが小さな拳を振り上げて大人に食いかかっている程度のことしか出来なかった。
――おまえは弱いのだと、容赦なく突きつけられる。
口の中に入った砂がじゃり、と嫌な音を立てた。わずかに血の味がするのは、口の中のどこかを切ったのだろうか。固く手を握り締めると、爪が皮膚に食い込んだ。その痛みすら怒りと悔しさで遠くに感じている。あちこち小さな傷は出来ているだろうに、痛みはまったくない。
「ちくしょう!」
拳を地面に叩きつける。何度も何度も繰り返して手から血が滲んできても、まったく気にならなかった。
「ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょおおおおおおおおお!」
腹の底から湧き上がるこの感情を吐き出すように、地面に向かって叫んだ。
本当に、まったく、相手にもならなかった。あの男に傷一つつけるどころか、意表をつくことすらできなかった。手のひらの上で踊らされていたようなものだ。
もし、本当にあの男がアイザを連れ去るつもりだったなら、ガルには、それを阻止することはできなかっただろう。
夕闇に響く叫びは、泣いているように聞こえた。
アイザは凍りついたように動かない足を、引きずるようにして一歩踏み出す。そうすると惰性で足はゆっくりと動き出した。
胸が痛いくらいに苦しいのは、なぜだろうか。地面に伏せたままのガルの顔は見えない。泣いているのだろうか、とアイザは思う。
ガルの叫び声が耳の奥でまだ響いている。その気持ちをどれだけ想像してみたところで、アイザには欠片ほども理解はできないのだろう。怒りも悔しさも、わかってやることはできない。
ガルが以前に何度もそうしてくれたように、手を差し伸べたいのにアイザの身体は思うように動かない。腕は重く、持ち上げることすらできなかった。慰めの言葉なんて、簡単に思いつくはずもなかった。
「……ガル、医務室へ行こう。手当てしないと」
迷いに迷った末にかけた言葉もあまりにも陳腐なもので、アイザは泣きたくなった。もっと気の利いた言葉があるだろうに、と唇を噛む。
「大丈夫」
ガルはゆるゆると起き上がり、地面を見つめたまま短く答えた。短く吐き出された低い声に、アイザの振り絞った勇気も萎みそうになる。
「でも……」
試験目前で大事な身体に不調を残すわけにはいかない。魔法科とは違って武術科では多くの実技試験がある。
「たいして、怪我してないんだ。……手加減されてたから」
手加減されていたのは、ただ見ているしかできなかったアイザにもわかった。だが大きな怪我がひとつもないというのは、やはりレグという青年はそれだけの実力があるということの証明のようだった。ただ手加減するだけでは、あれだけ派手にやられていて怪我なしというわけにはいかなかったはずだ。
「……ガル」
起き上がったものの、ガルは座り込んだまま動かない。いつも強い光を帯びている彼の金の目は弱々しく地を見つめたままだ。
それがアイザには、痛い。
「――アイザ! ガル!」
それからしばらくすると、息を切らしてヒューとケインが戻ってきた。結局ガルは、それまでずっと動かないままだった。
「ごめん、先生たち忙しそうで全然捕まらなくてさ……って、さっきの男は?」
「うん……帰った、のかな……」
試験準備のため、慌ただしい教師たちは誰一人捕まらなかったらしい。二人は姿を消したレグに首を傾げていた。
「はぁ? なんだったんだ結局」
ヒューの不思議そうな顔に、アイザも苦笑するしかない。レグの目的は分からずじまいだ。
すっかり静かになったガルにヒューとケインは顔を見合わせて、特に声をかけることもなかった。帰るか、とヒューが小さく告げるとガルもゆるゆると立ち上がる。
四人無言のままに寮に戻ると、ガルは何も言わずに部屋へ引き篭もってしまった。夕食の時間になっても、姿を見せない。いつもの彼なら食事を抜くなんて考えられないのに。
「……大丈夫かな」
ヒューとケインと食事をしながら、アイザはぽつりと呟いた。ガルのことが気がかりで、あまり食欲が湧かず目の前の食事の量がいっこうに減らない。
「大丈夫だって。正直さ、武術科じゃたいていの奴らが一度は通る道なんだよ」
ヒューが励ますように口を開く。からりとしたその口調に、アイザは顔を上げた。
「マギヴィルの武術科に入るくらいだからさ、誰でもそこそこ腕に自信はあるんだよ。だけど、誰にも負けずに卒業するなんてありえないから」
伝説のタシアン・クロウでもない限りね、と冗談めかしてヒューは笑う。ヒューの隣で苦笑するケインも、おそらく体験したことなのかもしれない。
「負けたくないなら強くなるしかない。けどどんなに強くなっても、さらに強い奴はいる。ここで歯を食いしばって乗り越えられないような奴は、マギヴィルを辞めるしかないよ」
ヒューの言うことは現実的で、だからこそ厳しい。
「でも、ガルは違うから、大丈夫だよ」
にっこりと笑うケインに、アイザも曖昧に微笑み返した。
(……そうだよな、二人の言うとおりなんだよな)
誰にも負けないなんて、きっとどんな実力者でも不可能だ。いずれガルがぶつかる壁だったんだろう。
不思議と腹が減らない。
部屋の中はすっかり暗くなっているので、とっくに夕食の時間になったのだろうということはガルにもわかった。けれど腹の内がもやもやむかむかとしていて、いつものような空腹感はさっぱりなかった。
『無知は無力だ。おまえみたいなのが獣人だと思われると恥ずかしいから、もう少し頭使って強くなれ』
『……じゃないと、おまえは大事なものひとつ守れないぞ』
守れない。
それでは駄目だ。
ガルにとってアイザ以上に大切なものなんてない。その大切なものが守れないなんて、あってはならないことだ。
どうして? 数日前にクリスに突きつけられた問いが浮かんでは消える。そのたびにガルは、なぜそんなことを考える必要があるのか不思議だった。
だって、アイザが大切だから。
大切だから、守りたい。そのことに明確な理由なんて必要なのだろうか。
『……本当になにも知らないんだな』
暗がりの中で、ガルはぼんやりと自分の手を見下ろした。手のひらには何ヶ所か擦り傷ができている。暗闇でも、ガルには関係なかった。寮では周りに合わせて夜になれば灯りをつけるようにしていたが、本来彼にはあまり必要のないものである。今はむしろ、暗いくらいのほうが落ち着いた。
「……俺、何を知らないんだろ」
相対していたときは頭に血が上っていたために記憶も曖昧だが、レグの言葉は妙に気になるものが多かった。
知らない、と。無知である、と。
「……俺は、何を知らなきゃいけないんだろ」
強くなりたい。
強くならなければ、ダメだ。
大切なものを守れるように。どんな危機からも、守れるように。
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