第二話



 タシアン・クロウ。

 ミシェルは彼が何者であるか知っていた。いや、むしろ知らない者のほうが少ない。彼が隣国ルテティアの王子であり、廃嫡された身であるということは、知らぬ者の耳にもすぐ届くほどに当時のマギヴィル学園では有名だった。

 彼は十四歳でマギヴィル学園の武術科に入り、ごくごく一般の生徒として過ごしていた。いや、ごくごく一般の生徒として――というにはいささかその実力は抜きんでていたために、別の意味でも有名だった。入学する前のミシェルさえ彼の名を知っていたくらいだ。


 ミシェルがタシアンと出会ったのは、彼が十八歳のとき。ミシェルは、まだ十四歳だった。ノルダイン王家のしきたりに従い、これから数年間を過ごす場所としてミシェルはマギヴィル学園を選んだ。学園都市といえるほどの、その学園の規模はノルダインの王族としても誇らしい。これほどまでに素晴らしい学園は他にないだろうとミシェルは胸を張って言える。

「……タシアン・クロウ」

 ミシェルは自分の寮部屋に到着して、扉にあるプレートの名前を見て目を丸くした。

 まさか。まさかあのタシアン・クロウだろうか。何度か目をこすってみたけれど、確かにプレートには『タシアン・クロウ』と書かれている。

「何の用だ」

 背後から突如声をかけられて、ミシェルはうひゃあっと小さな悲鳴をあげて、手に持っていた鞄を落とした。落ちた拍子に鞄にしまっていたものがぼろぼろと転げ落ちる。

「……ああ、新入生か」

 ミシェルの落としたカリキュラムを見て背後の人物――噂のタシアン・クロウは呟いた。ミシェルはこくこくと頷いて、タシアンが拾ったカリキュラムを受け取る。

「ミ、ミシェル・ローレイです。よろしくお願いします」

 寮での部屋割りは学園が決めている。通常ならば同年の者同士で相部屋になるほうが多いのだが、厄介者のミシェルは年長者に押し付けられたらしい。

「ここで立ち話もなんだろ、入れよ。あんたの部屋でもあるだし」

 タシアンが手を伸ばしひょいと扉を開ける。小柄なミシェルと比べると、タシアンは頭二つ分は背が高い。見上げなければ目が合わないくらいだ。

「おまえ魔法科?」

「いいえ? 武術科ですけど」

 私服を着ていたのでどちらかわからなかったのだろう。ミシェルの返答に、タシアンは眉を顰めた。

「本気か? 親は止めなかったのかよ。しんどいぞここの武術科は」

「なっ! こ、これでも体力には自信ありますから!」

 どうだか、とタシアンは笑っていた。魔力のないミシェルがマギヴィルに通うには武術科に行くしかなかったのだ。




 タシアンは随分とお人好しで世話焼きな性格をしているのだと、ミシェルは数日で分かった。ミシェルがカリキュラムについて頭を悩ませて唸っていると助言してくれたし、自主訓練にも付き合ってくれた。すっかりミシェルはタシアンに懐いていた。

「タシアン!」

 年齢が四つも違えば受ける授業はほとんど違うので、日中の行動はほとんど別だ。学園の廊下でその姿を見つけるとミシェルは嬉しそうに駆け寄った。

「ミシェル」

「珍しいね、この時間の学園にいるの」

 タシアンはもういつ卒業してもおかしくない身だ。卒業条件を満たす単位は取っているし、受ける授業も少ない。 マギヴィルでは知識を満たすために単位数が足りていてもまだ在学して勉強する者も多いが、それはほとんど魔法科の話だ。武術科では早くから騎士団などからの勧誘もあるし、卒業できるようになればすぐ学園を出て就職する者も多い。平民出身の者が多いのもその理由のひとつだろう。

「……まぁ、ちょっとな」

「もしかして、また騎士団から勧誘?」

 タシアンはその腕を高く評価されていて、ノルダインの騎士団だけでなく他国からも声がかかっているらしい――ということは、本人からではなく他の生徒が噂しているのを耳にした。

「そんなところだ」

 苦笑するタシアンを見上げながらミシェルはわざとらしく笑った。

「そりゃ、タシアンくらい強ければ引く手数多だろうねぇ」

「おまえは自分の心配してろ」

 こつん、と額を小突かれてミシェルは「いてっ」と痛くもないのに大袈裟に反応する。そして淡い願望が胸の奥底から浮かんできて、躊躇いがちに口を開いた。

「……タシアンは、ノルダインには残らないの?」

 残ってくれればいいのに。ノルダインの騎士になってくれればいい。そうすれば、傍にいられる。――この試練を終えて女の子に戻ったミシェルでも、傍にいられる。

 許されるのであれば、傍にいたい。傍に、いてほしい。

「残らない。ルテティアに帰る」

 はっきりと告げられて、ミシェルのなかの淡い願いもてのひらに落ちた雪のように、一瞬にして消え失せる。

「……ルテティアに恋人でもいるの?」

「はぁ?」

「だって……そこまではっきり言い切られると国に大事な人でもいるのかなって」

 ミシェルが入学して三ヶ月。タシアンとの付き合いも長いものではないが、同部屋ということもあって交流の密度は高い。彼は頑固だけれど、譲歩を知らないわけではない。そんな彼が頑なにルテティアへ戻るというには、それ相応の理由があるのだろう。

「そんなのはいねぇよ」

 ――そんなの。そんなの、なのか。

 ちくりと痛んだ胸にミシェルは目を落とし、そうなんだ、と小さく答えた。

「そんなものなくても、ルテティアには帰る。……帰らなくちゃならない」

 女王の血に連なる者として。タシアンの青い目は言外にそう告げているようだった。

「……タシアンがいなくなったら、さみしくなるな」

 ミシェルは目を伏せたまま、小さく小さく呟いた。これくらいは、言わせて欲しかった。ルームメイトとしてなら遠くない未来にやってくる別れを惜しんでも許されるはずだ。

「……まぁ、おまえみたいな迂闊な奴をほっとくのは心配だけどな。レーリやセリカの言うことをちゃんと聞けよ」

 大きな手で頭を撫でられて、嬉しいけれど不満も募る。タシアンより年下なのはどう足掻いても変えようのない事実だとしても、セリカやレーリとは一つしか違わないのだ。ぷく、と頬を膨らませてミシェルはタシアンを下から睨んだ。

「何それ。子ども扱い?」

 そんなミシェルをタシアンは苦笑まじりに見下ろして、最後にくしゃりと撫でたのでミシェルの金の髪はすっかりぼさぼさになった。

「子どもっつーか……おまえ、女のくせに隙だらけだからな」

「おん……え?」

 ミシェルの表情がカチコチに凍りついた。――おんな。女?

 ミシェルはもちろん、自分が性別を偽っていることは教えていない。知っているのは護衛であるセリカと、護衛候補であり幼馴染のカーティスだけだ。もちろん同室であるのでボロは出さないようにと気をつけていた。気をつけていた、はずなのだが……。

「……き、づいて、たの?」

 ミシェルが恐々と問う姿にタシアンはしまった、という顔をしていた。その顔が、随分前からミシェルの秘密に気づいていたと物語っている。

「……訳ありなんだろうと思って、言わないでいた」

「……そう」

 訳ありも訳ありだ。どうしよう、とミシェルは俯いた。向かい合わせの自分とタシアンの足を見て、随分と大きさが違う。それがまた自分とタシアンの性別の違いをまざまざと見せつけているようだった。

「……言いたくなきゃ言わなくていいし、知らないほうが都合がいいなら忘れる」

「いや、まぁ――うん。ルームメイトに隠し事ってのが……もともと無謀だったんだけどね」

 ミシェルはもともと隠し事が得意ではない。セリカからはあんたは全部顔に出るんだから気をつけなさい、と常々言われていた。

「あのねタシアン」

 言ってもいいだろうか。

 王女なんだと。あなたと同じように、王の血が流れる者なんだと。だから、あなたの苦悩も、少しは理解できるんだ、と。


「……私、ノルダインの王女なの」


 ぱちん、と何かが破裂するような音がした。

「――ミシェル。そういう大事なことはこんなとこで話したらダメでしょう?」

 紺色の魔法科の制服が翻る。白銀の髪がさらりと揺れて、ミシェルの視界の端に入り込んできた。おずおずと声のするほうへ顔を向ければ、真剣な表情でセリカがそこに立っていた。その隣にはレーリもいる。

「……あ」

 ミシェルの秘密が大勢に知れ渡れば、それは即ち王族としての試練の脱落を意味する。そうなればミシェルはノルダインの王族として生きることはできなくなる。

 己の身を守るために情報を制限し、かつ操作する。必要があれば協力者を増やし、だがそれが信頼に足る者かどうか己で判断しなければならない。そのための試練だ。

「今のはかなりグレーゾーンだからね。……けど、もう大丈夫よ。この周辺の音は漏れない」

「……今の、レーリも……」

 セリカに聞こえていたということは、もちろんその隣にいたレーリにも聞こえていたはずだ。だが彼はいつもの変わらぬ涼しい表情を浮かべている。

「聞こえてましたし、知ってましたよ」

「え……え?」

 レーリはもしや、知っていた、と言っただろうか。タシアンに続いてまさかレーリにまで気づかれていたというのか、とミシェルは何度も瞬きを繰り返した。

「だからあんたは隠し事できないんだから気をつけなさいって言っているじゃない」

 はぁ、とセリカが眉間に皺を寄せて重々しくため息を吐き出す。

「タシアンもレーリも、言いふらしたりすることはないでしょうけど――万が一そんなことしたらどうなるか分かってんでしょうね?」

 セリカはつかつかとミシェルの隣までやってきて、じろりと二人の男を睨みつけた。そうすると姉がいじめられている弟をかばっているように見える。

「……面倒ごとだろうから今まで黙ってたんだろうが」

「人の秘密を言いふらして楽しむような趣味はありませんよ」

 タシアンとレーリの心外だと言いたげな顔にミシェルはほっと胸をなでおろした。あからさまに安堵するミシェルの頭をぺちん、とセリカが叩きながら「お馬鹿」と怒った。

「よかったーこれで一安心って顔してる。言っておくけどさっきのかなりやばかったんだからね? あんた自分の立場分かってんの!? そんな能天気なあんたを護衛の身にもなってくれる!?」

 ぷりぷりと怒るセリカに謝りながら、ミシェルはこうなったことがまるで運命みたいに思っていた。タシアンもレーリも十分信頼できる。王族であることを明かしたから、たとえ卒業してからもタシアンとつながりを持てる。だって彼もルテティアの王子なんだから――そう思っていた。

 それが、別れの前触れだった。



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