第二話

「――ねぇ、わたくしの可愛い魔法使い」


 幾度かそう呼ばれるうちに、アイザは女王から名で呼ばれたことがないということに気づいた。意識的に呼ぼうとしてないのか、それとも――。答えを聞く勇気はなかった。

「どうか、しましたか」

 執務の合間、一息つこうというときに、女王はよく外を見ていた。アイザは朝起きてすぐに侍女たちにドレスを着せつけられ、やることもないのに女王の執務室に押し込められた。

「虹が見たいわ」

「……虹?」

 女王の小さな呟きを確かめるようにアイザは繰り返した。

「昔ね、リュースが見せてくれたのよ。とても綺麗な虹だったの。他の魔法使いにやらせてみても全然ダメだったのだけど、貴女はやっぱり違うわ。数日前の虹は貴女の仕業なんでしょう?」

 数日前、というのが王都に入るときのあの虹であるのなら、答えは是だ。つまり女王のいう虹とは、自然のものではなく魔法で生み出したものを言っているのだろう。だからアイザに言っているのだ、虹が見たいから魔法を使って虹を生み出せ、と。

 アイザはしばし考えたあとで、口を開いた。

「それならば陛下。今日は虹は出せません」

「あら、どうして?」

 きっぱりと言い切るアイザに、女王は少女のように瞳を丸くした。

「虹の七色に似合うのは、晴れた青空ですから。今日のような曇り空では虹は顔を出してくれませんよ」

 今日はあいにく、分厚い雲が空を覆っている。もう間もなく夕暮時だ、夜までに雲が晴れることはないだろう。

「まぁ、そうね。でもそれなら、あの雲を払ってしまえばよいのではなくて?」

「わたしは、まだひよっこの魔法使いですから……。それに、それだけの魔法ともなれば、それこそ父くらいの魔法使いでなければ難しいと思います」

「そう……それでは無理ね」

 リュースほどの、という風に言うと女王はあっさりと無理だと納得した。彼女のなかで、リュース・ルイスほどの魔法使いはいないということなのだろう。

「はい、残念ですが」

 女王は思っていたよりもずっと素直にアイザの言葉を聞いた。女官たちの噂話に耳を澄ませていると、以前は突然癇癪を起こすことが毎日のようにあったのだという。だがアイザが城にいるこの二日、そんな様子は欠片もなかった。

 焦がれるように窓の向こうを見つめる女王に、アイザは恋をする少女のようだと思う。アイザは恋なんて知らないけれど、街の同じ年頃の少女たちがはしゃぎながら好きな人がどうのと話しているときの表情に似ていた。

(――女王陛下は、今も父さんに恋をしてるんだ)

 だからだろうか、アイザは女王を母と呼ぶことはできなかった。女王がアイザの名を呼ばないように。


「女王陛下!」


 突然声を張り上げて騎士がひとり、執務室に駆け込んでくる。

「なんです、騒々しい」

 騒がしいことを好まない女王は、眉を顰め騎士を睨みつけた。しかしその表情に臆することなく騎士は声を上げる。

「宰相閣下が、戻られました……!」

 その報告に、女王の瞳には険しさが宿った。

「……そう」

 女王はぽつりと呟くと、窓を開け放ちバルコニーに出た。アイザはなんとなく、そのあとを追いかける。ちょうど、そこからは正門が見下ろすことができた。そこには馬車が一台、その他に騎乗の騎士が幾人もいた。

(――藍色の、騎士服)

 アイザは見下ろしながら息を呑んだ。あの騎士服は、国境騎士団で間違いない。

 国境騎士団が敵か、味方か、結局のところアイザには判断できない。

 けれど――

(悪いひとでは、なかった)

 国境騎士団の団長と呼ばれた、あの青年は、少なくともアイザには好ましいひとだった。アイザがアイザ・ルイスとわかっても敵意など感じなかった。味方に、なってくれるだろうか。この城からアイザが逃げるために、手を貸してくれないだろうか。裏路地で迷ったアイザに手を差し伸べてくれたあのときのように。

 アイザがぐ、と拳を握り一縷の希望のように国境騎士団を見下ろしていると、女王は「わたくしの魔法使い」とアイザを呼んだ。

「よくご覧なさい、あれがわたくしの、わたくしたちの邪魔をするものよ」

 冷えた女王の声は、先ほどの少女のような面影を消し去る。ひやりとした風が、アイザの体温を奪っていった。

「……邪魔……?」

「邪魔なものは焼き払い、薙ぎ払ってしまえばいい。ねぇ、わたくしの可愛い魔法使い。貴女にはそれが出来るんだもの」

 ――ね? と首を傾げる女王に、アイザは得体の知れない恐怖を覚える。底知れない青い瞳は獲物を逃さないと言わんばかりの力をもって、アイザを見つめていた。





 宰相閣下は堂々と正面突破で王城へやってきた。もちろん表向きは外交先からの帰国だ。なにひとつやましいことなどないし、それは王城のものたちも同じはずだ。

「いいか、俺たちは王太子を探し出す。おまえはひとりでアイザ・ルイスを見つけろ」

「わかった」

 タシアンは国境騎士団の騎士服を着たガルを見下ろしながら、わかりやすく端的に目的を告げる。ガルは存外素直に頷いた。

「……ひとりだけなのかと文句は言わないんだな」

 この王城の中からたったひとりを見つけ出して連れ出すなんて、常人であればひとりでやってのけるなど難しいと考えるだろう。しかしガルはけろりとして答えた。

「門の向こう側に連れて行ってくれるならそれで充分だよ。それに、ごちゃごちゃしてると動きにくい」

「……だろうな」

 ガルのような野生児は、考えるよりも先に身体が動く。そういったときに連携の取れない人間がいても邪魔になるだけだろうとは、タシアンの予想していた。

「それより、王太子はちゃんと見つかんの? 城にいないんじゃねぇの?」

「今の女王の影響下にあるのは城の中だけだ。国内の貴族だって手を貸しはしないだろう」

「ふぅん?」

 正門では突然の宰相閣下の帰国と、宰相が伴っていた国境騎士団に動揺はあれど分りやすい妨害はなかった。ただしばし確認作業と称して立ち往生となる。これこそが彼らのできる唯一の妨害なのかもしれない。少しでも時間を稼ごうという思惑なのだろう。

 ガルはもちろん、国境騎士団の人間は馬車には乗っていない。ふと、視線を感じてガルは顔を上げた。

 遠く、王城のバルコニーのひとつに人影があった。ここからは豆粒程度にしか見えないほどの距離だ。

「……アイザだ」

 ぽつりと呟いたガルにつられるように、タシアンもガルの視線の先を見上げた。

「……どこだよ」

「あそこ。もうひとりいる」

 ガルが指差した先には、確かに人の姿がある。顔まではっきりと見えるわけではないが、わかる人間には誰かわかる程度の大きさだ。だから、タシアンにもわかった。

「……女王」

 きらめく金の髪と、遠くからも高貴な生まれであるとわかる佇まい。わからないはずがなかった。

「タシアン?」

 ガルがタシアンを見ると、タシアンは遠くの女王の影を睨みつけるように見つめたまま、口を開いた。

「いいか。探し回るのであれば、暗闇に紛れろ。今夜ならきっと雲で月も隠れる。万が一見つかったりしたときは国境騎士団の見習いで道に迷ったといえば……まぁどうにかなるかもしれない」

 それが通用するのも数回だけだろうが、とタシアンは苦笑した。見つからないに越したことはない。

「……わかった」

 しっかりと頷いたあとで、ガルは再びバルコニーへ目を向けた。表情までは見えないが、はっきりとアイザだとわかる。

 ――アイザ、とガルの唇が音を紡がずに名を呼んだ。

『なんかあったら呼べよ』

 今まさに、呼んでくれればいい。呼ぶ声がこの耳に届いたのなら、すぐに駆けつけるから。手を伸ばすから。

 けれど彼女は、頑ななまでに助けを呼ばない。ガルの名でなくてもいい、誰でもいい、助けてくれと叫んでほしいのに。


「これは、宰相閣下。随分と賑やかなお戻りですね?」


 ガルの視界の端にアイリスの紋章が見えた。そのなかでも一際立派な騎士服のひとりが、宰相の前に立つ。

「女王陛下の王城に、よくもそのような野蛮な人間たちを入れられたものだ」

 野蛮な人間、という言葉に国境騎士団の若い連中はすぐに殺気立った。それをタシアンが手振りだけで抑える。

「……道中、野盗に襲われたものでね。幸いにも国境騎士団の彼らが護衛してくれたのだ。今夜一晩、労をねぎらうのは当然ではないかね」

 そもそも国境騎士団と王立騎士団は、ルテティアを護るための騎士であるはずだ。そこに優劣はない。

 ――それに、と宰相は笑った。

「野蛮なのは、いったいどちらのことか」

「……なんだと?」

 騎士の目つきが険しくなった。しかし宰相は怯みもせずに目を細めて続ける。

「王太子はどこに居られる?」

「王太子殿下は体調を崩され療養されている」

 はじめから用意していたかのように騎士は淀みなくするりと答えた。その返答に、宰相は嘲笑する。

「おかしな話だ。このルテティアで、この王城以上に優れた医師のいる場所などあるまい。どこで療養されるというのか。慣れた居室ではなく、いったいどんなところで?」

 宰相が問うと、騎士はぐっと奥歯を噛んだ。長くこの国の宰相を務めてきた相手を言葉で丸め込もうという考えが浅はかとしか言いようがない。それも、もう二十年近く女王の補佐として働いてきたような男だ。

「時間稼ぎももう充分だろう。――そろそろ通してもらおうか」

 微笑みを浮かべた宰相の後ろには、険しい表情の国境騎士団の団員たちが控えている。その様子に気圧されるように一歩引いた、それが答えだった。


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