第五章:宰相閣下と王太子
第一話
精霊が嫌いだ。彼の傍に、当然のように侍る精霊たちが。城や王都で見かけるのが珍しくなった精霊たちも、彼の傍にはいつもいた。
王都からリュースが去った。
彼の傍に精霊はいるのだろうか。
ウィアがどれだけ望んでも、リュースは傍にいないのに? いてくれないのに?
「精霊なんてすべて消えてしまえばいい」
呪いを吐き出すようにウィアが呟いた。その一言で、何かを掴めそうだった。胸の内に震えるその力を、外に吐き出せす術がわかるような気がした。きっと吐き出してしまえば、少しは胸がすっきりするだろう。
王城からも、ヤムスの森は見える。ウィアの目には昼夜を問わずきらきらと輝く森だった。あの森には、ルテティアから消え始めた精霊が、まだたくさんいる。
「あんな森、燃えてしまえばいい」
そうすれば精霊は消える。リュースの傍について回る、あの忌まわしい精霊が。この国から消え去る。
ウィアの言葉に思いがこもる。思いがこめられた言葉は、力を宿す。
――ボゥッと、ヤムスの森に火がついた。
ウィアのわずかな魔力で生まれた炎は、制御されることを知らず次々と木々を飲み込んで、瞬く間に燃え広がった。青々と葉の茂る森が赤く染まっていく。
ヤムスの森が燃え始めて二日ほど経って、リュースが真っ青な顔で王城へ――ウィアのもとへやってきた。
「女王陛下! 何をなさっているんです! 早くあの山火事を止めなければ――」
駆け込んできたリュースは、突然の災害を前に驚きながらも冷静さを欠いていなかった。一向に動かない女王を動かさなければ、と自分への誓いを破りウィアに会いに来るくらいほどに、彼は国の為に動く人間だった。
「どうして? あんな森燃えてしまえばいいのよ」
「……ウィア?」
幼げにウィアが首を傾げる。リュースはすぐにその変異に気づいた。そして、窓の向こうのヤムスの森を見つめ――あの森を焼く炎が自然発生でないことにも、気づいてしまった。
「……なんて、ことを……!」
ウィアはふふ、と笑みを零した。森を焼いたのは正しかったのだ。だってリュースは来てくれた。会いに、来てくれた。
「――ああ、わたくしのいとしい魔法使い」
白い指先が、リュースの頬を撫でた。ウィアの青い瞳は昏く沈んだ水底のようにリュースを見上げる。
「邪魔なものはすべて焼き払い薙ぎ払って。濁流に飲み込ませてそのまま地の奥底へと沈めてしまって?」
艶やかに乞う唇は血のように赤く、恐ろしい願いを子どものように口にする。その昏い目から、リュースは目を離すことができなかった。
「そうすれば、ほら、世界はわたくしとあなたのもの」
――壊れていた。
壊れて、しまった。
幼い頃に楽しげに笑っていた少女の面影など欠片もなく、ウィアは仄暗く微笑みを浮かべるだけだ。
森を焼く焔は弱まる気配を見せず、いずれは王都にも届くのではと思われた。
「もはや水を浴びせる程度で消えることもないでしょう。……私が焔によって相殺します」
リュースが重い表情で、宰相に告げた。魔法の焔によって相殺する。もはや早急にあの焔を鎮めるには、その方法しかないのだろう。
「あれは、自然発生ではないのか」
自分の命を縮めてまでその方法を申し出たリュースに、宰相は自分のなかにあった疑問を口にした。その問いに、リュースは静かに目を伏せた。
「女王陛下の、無自覚の魔法とでも言えばよいのでしょうか。本来あの方に魔法を使えるだけの魔力はありません、しかし――」
リュースが懺悔するように目を閉じる。
「私の魔力が、わずかながらに陛下の身体に宿っていたようです。あの焔からは私の魔力に似たものを感じる。おそらく私の子を宿していたときのものが残ったのか、それとも……」
言葉を濁したリュースに、宰相もその先を問うことはなかった。
閣下、とリュースが小さく呟いた。彼らしくない、怯えるようなか細い声だった。リュース・ルイスという男は無口で無愛想で、けれど己の判断には迷いを見せない男だった。
「陛下の退位は、可能ですか」
宰相には予測できた問いであった。同時に、宰相自身も考えていた問題でもある。だからこそ答えはすぐ出た。
「……すぐには無理だ。王子はまだ幼すぎる。ただでさえ若い女王と侮られているのだ。ここで成人もしていない王ともなれば国はすぐに他国に食いつぶされる」
まだ少女ともいえる女王が即位したときも、あちこちへ牽制してどうにか戦争を起こすことはなかった。しかし周辺国のなかには今にもルテティアを飲み込もうと舌なめずりしているような国がある。
「ですが――」
「王子が成人され、即位のときがくるまでは私の補佐でどうにかしよう。女王陛下の心が穏やかであるように」
もう二度と、過ちが繰り返されないように。今の彼らにできることは、それだけだった。
隣国ノルダインとは同盟関係にあり、長く友好な関係が続いている。しかしルテティアに隣する国はノルダイン一国ではない。
「……お願いいたします」
深く頭を下げたリュースに、宰相は困惑の表情を浮かべた。
「だがそう願うなら、あなたは王都に戻るべきではないのか。陛下はあなたを必要としているのだろう」
今も昔も、女王が、ウィアという女性が必要としているのはリュースだけだ。夫は夫という役割でしかなく、また自ら生んだ王子すらそうであった。
女王には、ウィアという女性には、心を預ける相手がいない。
「いいえ」
リュースは、はっきりと答え、顔を上げた。その目には後悔と哀しみが滲んでいる。
「……いいえ。私は、あの方の毒にしかなりません。……なれませんでした」
翌朝、ヤムスの森を焼いた焔は消えた。獣人の里は焼け落ち、それは森の三割を灰にしたおそろしい災厄としてルテティアの歴史に残る。
リュースは森を焼く焔を消すための焔を放った。それは同じように森を焼き、焔を飲み込み、消えた。それを見届けてリュースは倒れた。精霊の力を使わぬ、己の魔力を削った行為の代償だった。
「……宰相閣下、貴方に頼みがあるのです」
目を覚ましたリュースは、訪ねてきた宰相に告げた。
宰相は横たわるリュースを見下ろして、ただ一度、しっかりと頷いた。
「ルテティアから精霊は消える。私は魔力を削り、おそらく――私の娘が成人するまでは生きられないでしょう」
私の娘、がさすものがつまりは女王の娘であることも、宰相は言葉にせずともわかっていた。死産とされた、この国の第一王女。
「そのときは、どうか娘をお願いします。どうか――……」
リュースの薄灰の瞳が祈るように細められた。
「どうか、あの子が、ただの娘として、生きていけるように」
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アイザが王城へ連れていかれ、そして夜が明けた。ガルは五番通りの踊る仔馬亭から三番通りにあるタシアンたちのいる宿屋まで急ぎ、まだ昼前の王都の中を駆けていた。
タニアたちにはひとまずアイザは無事だ、とだけ伝えている。無事であることは間違っていない。タニアはじとりとガルを見つめたあとでとりあえずはガルの言葉を信じてくれた。
ガルは宿屋に到着するとタシアンたちの部屋へ急いだ。店主がちらりとガルを見たが特に何も言わなかったので、タシアンが先んじてガルのことを伝えていたのかもしれない。
「たのもー!」
ガルはタシアンたちの部屋の扉を勝手に開けて部屋に入る。タシアンから怒声でも飛んでくるかと思ったが、部屋の中は緊迫した空気に包まれていた。
「……なんかあった?」
張り詰めた空気がぴりぴりと肌を刺激する。ガルはまっすぐにタシアンを見て問うた。この場で、他でもない団長である彼に問うことがもっとも確かだった。
「……宰相閣下が野盗に襲われて、消息不明になっている」
隣国ノルダインから王都へ戻るために、宰相は帰路についているはずだった。国境騎士団のなかからその護衛にあたっている者もいる。
「な――!」
「野盗という名の、女王側からの刺客と考えるのが自然でしょうね」
レーリが冷静に、考えたくない現実を突きつけてくる。そうでなければ、こんなに都合よく野盗が現れるわけがない。ぐ、とタシアンが言葉を飲み込み、レーリの言葉が真実に近しいということを教えている。
「どうすんだよ……! 宰相がいなきゃ王太子もアイザも助けに行けないんだろ!」
相手は何しろ女王だ。ただの庶民のガルはもとより、タシアンにだって太刀打ちできない。だからこそ宰相の帰国を待っていたのだし、王太子を救出しなければならないのだ。
「騒ぐなわかってる! こっちが動かせる人員は多くねぇんだよ!」
国境騎士団の人員不足は今に始まったことではなく、対する王立騎士団や女王の手駒となる人間の多さにはとても敵わない。
「情報の精査も必要ですからね」
「そんな、悠長なこと――」
逸る気持ちで、ガルは唇を噛んだ。わかっている、アイザがあちらに連れ去られてからまだ半日程度しか経っていない。偽の情報に踊らされる時間はない。そのためには、いち早く宰相の安否を確かめねばならないし、万が一宰相が間に合わないのであれば、次の手が必要になる。
タシアンたちはアイザだけを助けるのではない。そして、アイザを助けるためには宰相と王太子の力がいる。――だから、ガルはここにいる。
「消息を絶ったのはルテティア国内だったな。ならば……」
ならばまだ手はある。見つけ出し、王都へ連れてくることも不可能ではない。タシアンがそう結論を出して腰を上げた、そのときだった。
「まだ朝とも呼べる時間から、随分と騒がしいなタシアン団長」
重厚な声が部屋のなかに割って入る。扉を開けた壮年の男性が、穏やかで威厳ある瞳で室内を見回した。
「宰相閣下……!」
驚くタシアンの言葉で、ガルはその男性が誰なのかを知る。
「野盗に襲われたと――」
いつもは冷静なレーリも、さすがに動揺を隠せないらしい。声に驚きが滲んでいる。
「それは囮のほうだな。そちらの無事は確認できている。タシアン団長、報告を」
「――は」
宰相が部屋に入り、レーリがあけた椅子に座った。それだけで宿屋の一室であるはずなのに、城の一部屋のような空気が生まれる。
呆然と見ているしかできなかったガルと、宰相の目があった。宰相は笑みを浮かべて、足を組む。
「さて、反撃といこうか」
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