十章15:路傍は、只守るべき者に満ち
ブリジットの自宅は、繁華街とスラム街の境目に位置している。ベルカは対魔族の最前線らしく、実力主義の社会だ。どんな貧民だろうが棄民だろうが、実力さえあれば報われるように出来ている。それは誰かが意図したというよりも、絶え間ない魔族からの脅威に対抗する為、自ずと醸成された空気とも言えよう。なるほど銃後たる後方ともなれば、名ばかり貴族の汚職腐敗は見て取れるにせよ、こと
「いや〜先輩、さっきはお恥ずかしい所をお見せしちゃって……あはは」
頬を染めながら笑うブリジットは、頭を掻いて誤魔化そうとする。ちなみにだが。彼女は僕の事を「先輩」と呼ぶ事に決めたらしい。なんでも僕のほうが年上だからという身も蓋も無い理由ではあるのだが、下手に実名や陛下と呼ばれるよりは良かろうと、僕はそれに同意を示した。
「気にしなくていいさ。魔力を与えられれば、大概はああなる……特にリジィの場合は色々と抑え込んでいた反動なんだから。――とにかく、よく食べてよく眠る。女の子が健康的なのはいい事さ」
なにせ食欲も睡眠欲も余人の数倍というブリジットだ。比例するように性欲が強かったとしても仕方のない事だろう。逆にあれだけ食べて性に
「ええっ……?! 先輩、あたしが大食いでもドン引かないんですッ!?」
意外そうに目を丸くするブリジットに「どうして引くんだ?」と僕は返す。いやいや食費を鑑みれば恐ろしい所ではあるけれど、今更ドカ食いの一つや二つで心折れる僕ではない。
「う、嬉しいなあ……今まで男の人って、ああいうの苦手だって思ってたから……」
ぽっと頬を染めるブリジットは「やっぱり、食べて食べて、それから運動しなきゃ強くなれませんよね!」と握りこぶしを作って見せる。
「……いや、おいしそうにご飯を食べる女の子を、嫌いな男っていないと思うよ。それにリジィは元気だし、一緒にいたらきっと楽しい」
まあそんなに長い時間を共にした訳じゃないけど、ブリジットが裏表の無い良い子だってのは僕にだって分かる。彼女を
「陛下……じゃないや、先輩がいい人で良かったです……あたし、ずっと怖い人だと思ってて……」
一瞬だけしゅんとするブリジットは「でも前の
「一応は立場もあるしなあ。こんな顔じゃ舐められるの分かってたから、頑張ってああいうキャラを作ってたって訳さ。隠しててゴメン」
「いえいえッ! なんていうかこんな格好いい――、じゃないや、優しいお兄さんだったなんてッ!! 先輩のコト、早速お母さんに紹介させて頂きますねッ!!!」
なるほどどうやら、少なくとも僕の見た目は悪印象ではないらしい。ユーティラの前情報に内心で感謝しつつ、しかして末筆の不穏当さにぴくりと身体が震える。
「え、お母さん?」
「はいッ! うちのお母さん、料理もすっごく上手で、昔は美人だったんですよッ!!! きっと先輩の事も、気に入ってくれると思いますッ!!!」
昔はというのが空恐ろしい所だが、ブリジットの曰く、彼女の家は十二人の兄妹を擁する大所帯なのだそうだ。況やそれだけの多産ともなれば、帰結として恰幅がよくなるのも致し方なしと言った所だろう。
「いやあ、大変でしたよ。うち、どんどん兄妹は増えるし、そのくせ貧乏だから勉強を頑張らなくちゃで……でも今は大丈夫ですよ? あたしの騎士の俸給で、皆お腹いっぱい食べれてますからッ!」
本人は何の苦労も滲ませずに微笑んではいるが、その実なかなか大変な事だと僕は思う。確かグレースメリアの副団長に就任した事で、彼女の給料はそれなりに上がっている筈だ。何かせめてもの足しになればと、心から希う所ではある。
「えっと……この角を曲がればあたしんちですねッ! ほら、何だかいい匂いがしてきたでしょう? 先輩ッ!」
僕の腕を引いて駆け出すブリジット。雑踏をかき分け進んだその先には、果たしてエメリアの実家だという二階建ての一軒家が姿を現した。台所のあるであろう一階の窓からは、芳しく香る煙が立ち上り、ついつい食欲をそそられてしまう。
「本当だ……お肉の焼ける香ばしい香りが……」
ふんふんと鼻を動かす僕に「なんたって、うち、定食屋ですからね!」とブリジットは破顔する。どうやら余った食材はまるごと家族の胃に収まるから、結果的に問題は無いという事らしい。流石と言うべきか、隙の無い庶民の知恵だ。
「いらっしゃい! いらっしゃーい!」
近づけばさらに聞こえるのは、威勢のいい呼子の声。あれがうちのお母さんですとブリジットが指差す頃には、視線の先の女性から先制パンチを食らっていた所だった。
「あらおかえり! リジー!」
「たっだいまーッ! お母さん!!」
声に釣られ中から顔を出すのは、どうやらブリジットの兄妹と覚しき少年少女。おかえりー! と手を振る様は、この家の家族全員が大声であろう憶測を確信に変えるには十分だ。
「あれっ?! お姉ちゃん! 彼氏? 彼氏?」
するとブリジットが腕を引く僕の事を、目ざとくも誤認した幼子たちが、やいややいやと囃し立てる。これに気がついた母君は、果たして静止を促すのかと思いきや、さらに一層大きな声で驚いてみせた。
「なッ……リジー……あんた……彼氏ができたのかい?」
髪の色が青いという共通項を除けば、同程度の身長ながら体積は二倍あろうかというブリジット・マザー。その母君がわなわなと指を震わせ、さも信じ難いといった風に詰問する。
「ち、違うのお母さん……こ、この人はあたしの先輩で……」
「よくやったよリジー!!!! 遂にお婿さんを掻っ攫って来たんだね!!!!!」
ブリジットの話をまったく最後まで聞く気もなく、彼氏からお婿さんにランクアップさせるブリジット・マザー。こいつは中々に厄介だぞと僕が思う頃には、抗えない大いなる潮流に押し流され、僕の身体は店内にあった。
「いやあ感心感心。まさかあのリジーが男の子を引っ掛けてくるなんてねえ! 未来の旦那さんとあっちゃあお代を頂く訳には行かないね。さ、たんとお食べ!!!」
反論する暇もないままに、どんどんと並ぶ料理の数々。見た目の鮮やかさは無いがボリュームに富んでいて、エスベルカの家庭料理ここにありといった趣を醸し出す。
「え、ええッ!? あたしさっきお昼ごはん食べたばっかりなんだけど?? ていうか先輩、大丈夫ですかこんなッ!??」
と言いながらちゃっかりいただきますの手を合わせているブリジットは、なんならあたしが代わりに食べてあげますからねと鼻息も荒い。まあそれならそれで結構なのだが、せっかく出された料理を口に運ばないのも失礼にあたる。やんわりと断った僕は、同じくいただきますと告げ、軽く三人前はあろうメニューと相対する。
「このお肉、随分柔らかく煮込んでありますね。うん、おいしい」
獣肉のごった煮を頬張る僕を、ブリジット・マザーは「中々男前じゃあないか」などと持ち上げてみせる。おまけに周りの子どもたちまでこれに乗る始末だから、赤面し通しなのは眼前のブリジットだろう。
「この子、大食らいでドジだけど、身体だけは丈夫だからね! きっといい母親になるよ!」
「ちょっとお母さん! 大食いなのはお母さんに似たんだけどあたしッ!」
まあ喧嘩するほど仲がいいとは万国共通だ。差し出がましい事を言わずに微笑む僕の前で、二人は賑やかに会話を交わす。
* *
「ところで、お義母さん」
どうやら少し落ち着いてきた所で、ようやっと僕は口を挟む。
「ん? なんだい? そんなに改まらなくたって、ママとかでいいよ!」
相変わらず切符の良いブリジット・マザーに、僕はちょうど気になっていた事を尋ねる。
「この街……ベルカは、暮らしやすくなりましたか?」
それはエスベルカ皇帝、レイヴリーヒの治世を問う枢要な質問。
「んん……そうだねえ……活気は出てきたかねえ。素性の知れない新陛下はちといけ好かないけど、
僕はああやっぱりそうか、傍から見れば怪しいよなあと幾分か内心で落ち込みつつも、内政そのものの概ねの高評価に胸を撫で下ろす。どうやらエメリアたちグレースメリアの聖騎士団がいい緩衝材となって、市民たちの支持を取り付けてくれているらしい。あんな年端もいかない少女たちが
「それは良かったです……僕も剣を振るった甲斐がある……」
それからいい具合にお皿を平らげた僕は、きちんとお代を置いた上でテーブルを立つ。
「リジィ。今日はおいしい料理をごちそうさま。お義母さんも……また来ます」
そう言った僕が踵を返し、ブリジット・マザーがぺしりと娘の尻を叩くと、と頓狂な声を出してブリジットが飛び上がる。
「なにやってんだい! 未来の旦那が帰るってんだから、お見送りぐらいしないかい!」
カカア天下に見えて意外と亭主を上げてくれるんだなと漠たる思いを僕が巡らせるまでも無く、人通りも落ち着いた表通りには、僕とブリジットだけが向かい合っていた。
「あはは……先輩、なんだか五月蝿くて、すみませんでした」
「いやいや、賑やかで良かったよ。きっとリジィと結婚したら、毎日が楽しいんだろうな」
正直に言ったつもりではあったが、俄に頬を染めたブリジットは「えええええ??!!」と目をぐるぐる回すだけだ。
「ま、冗談だよ。街の人の話も聞けたし、僕の治世が間違ってなかったいい証左になった。感謝してる」
「いやあ……って言いながら、うちのお母さん、平気で陛下の事ディスってましたよ……」
ボブカットの青髪をかき上げ、申し訳なさそうに詫びるブリジット。表情筋の豊かなその顔は、幾ら見ていても飽きないだろう。
「気にしなくていいさ。そういう目的であの格好をしてるんだから。何よりリジィたちグレースメリアが、僕の代わりに皆の支持を取り付けてくれてる。問題ないよ」
「エメリアさんやユーティは人気爆発ですけど……あたしはなぁ……でもでも、先輩に力を貰っちゃいましたからね! これでまたドーンと逆転ですよ!」
まったくポジティブな事この上ないなと内心で笑い、僕はブリジットの壮健に安堵する。この子なら、きっとどんな障害でも笑顔で乗り切るに違いない。
「そうだな。期待してるよ。だから今日はゆっくり休んで……やりたい事をやって、明日から一緒に訓練を頑張ろう。ユーティと溝が開いたぶんは、僕の責任で挽回する」
「やったー!! 先輩と一緒に訓練だなんて、嬉しくて胸がドキドキです! 身体もぽかぽか暖かいし……それから、チュッ」
――ここだってジュクジュクしてるし。と、キスの後に自らの下半身を指し、ブリジットは恥ずかしげに微笑む。
「わかったよ。明日、それも含めて武道場でな」
「はい――、先輩」
最後のほうではにかんだように破顔するブリジットと、それから賑やかな外野の声を背に、僕は居城に向け足を運ぶ。
――どうやら、僕には守るべきものがまた増えたらしい。
名も無き、と呼ぶには余りに生き生きとしたベルカの市民。この一人一人が、きっと僕の大事な人たちと何処かで関わっているのだろうと慮れば、ならばそれらを全て守る事こそが、僕に課せられた使命でもあろう。布陣を、もっと強固にして、万全なる布陣を。そう自分に言い聞かせ、僕の身体は城の正門をくぐったのだった。
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