八章03:鍛錬は、少女と全軍のあいだに

 ――聞こえたのは声だった。

 遠い遠い記憶の底で聞こえる、過ぎ去りし日の何か。

 

 それらを僕は何処かで聞いた様にも思えたが、朧げな意識の中、記憶は定かならない。


「……ではこれで、勇者エイセスの時代は終わると?」


「に、してはじゃ……一人の若者に全てを背負わせ……てはおらんかのう」


「オイオイじいさん……オレたちに選択……なんて無いぜ」


わらわは……でもよいぞよ。何事もかくあれかしじゃ……のう……シア」


「――かけがえないものの為に、かけがえある……を。私の……は、初めから決まっています」


「では……シア。貴女に全てを。全ての罪に……齎す、転轍てんてつの……を」


「――はい」


 柔らかな物腰。おっとりした口調。慣れ親しんだ誰かによく似た声を、僕は遠い意識の底でかすかに聞いた。


 ――徐々に離れていく景色に手を伸ばして、そうして空を切った所で僕は目を覚ました。




*          *




「……おはようございます、ララト」

 周囲を見回す事すら許さない乳圧にゅうあつに、漂う甘い芳香。どうやら僕は夢を見ていたのだと頷いて、見知った声の主に向けて返事を返した。


「おはよう……シンシア」

 そこでやっと解放された僕は、やはり見慣れた天井を見上げ溜息をつく。


「うーん……いつから寝てた……? 今……何時?」

 記憶が正しければ、僕は勇者エイセスを収監しシンシアの元へ向かっていた筈だった。途中で足元がふらついた事だけは覚えているが、その後に続いたのはおぼろげな白昼夢だ。


「んー、まだお昼過ぎって所ですかねえ……治療は済ませておきましたよう」

 相変わらずおっとりとしたエメリアの声に、僕ははっとして視線を落とす。平素から身を包む鎧、ヴェンデッタは脱ぎ捨てられ、生まれたままの姿で僕は横たわっている。


「ああ……気を失ってたんだな……ごめん」

 僕の血肉に直接リンクするヴェンデッタの爪痕は、やっぱりそこかしこに残っていて、クレーターの表層の様にぼこぼこになった自身の身体に、僕は自嘲気味な笑みを零した。


「力、使いすぎましたねえ……気を付けてって、お姉さん言ったのに。駄目な子です、ララトは」

 くすくすと笑ったシンシアは、そのまま僕の頭を枕に乗せ、ゆっくりと立ち上がった。一瞬ごほごほと咳き込んだ彼女の口からは、幾分かの吐血が見て取れる。


「……大丈夫?」

 

「ちょっと血を吸いすぎましたねえ……大丈夫ですよう、これは、お姉さんのじゃなくて、ララトの血ですから」

 幾分かふらついたシンシアは、窓辺に手を掛けて外の景色に目をやった。


「エメリアが騎士団の稽古をつけてるみたいですねえ。ララト、行ってあげなくて大丈夫ですかあ?」

 太陽を背に振り向いたシンシアの表情は、いつもの朗らかな表情だった。気のせいかと安堵した僕も、また立ち上がるとヴェンデッタを纏う。


「そっか……苦労かけちゃったな……騎士団に顔を出して……それからルドミラに留守中の事を聞いて……よし、頑張ろう。シンシアも、ありがとう」

 そう言って立ち上がった僕は皇帝レイヴリーヒの装いで、シンシアに一礼すると部屋を出たのだった。


「――いってらっしゃい、ララト」

「――行ってきます。シンシア」


 背後にとてもとても暖かな、母兼姉の声援だけを残して。




*          *




「つ……強すぎる……パパ……この人……」

 やがて円形闘技場アリーナにたどり着いた僕が目にしたのは、将軍たちドゥーチェスの三人。そしてアンジェリカを相手に圧倒するエメリアの姿だった。


「アンジェの力が……全然通じない……」

 ノーデンナヴィクの最高戦力プロフェゾーレ、ゾディアックから託された幼子は、レオハルトに並ぶ力を持つホムンクルスだ。その彼女が今や、青いショートカットの先端を揺らし、焦りと疲労を漏らす。


「陛下……一体これは……」

 その隣で将軍たちドゥーチェス最強の騎士、レオハルトもまた大剣を杖に跪く。ウェーブがかった理知的な白髪からは、ぼたぼたと汗が滴り落ちている。


「おいおい……ベルリオーズ卿と二人がかりならと思ったが……嘘だろ……」

 折角フィオナにメンテナンスして貰った半義骸ヘミドールからも煙が出ていて、アマジーグはかぶりを振る。前者二人が敵わなかった相手に、最早自分が太刀打ち出来る訳も無いだろうと諦めを込めて。


「情けないわね……本気を出さないなら二度と肩を揉ませないわよ? サー・ローゼンタール」

 次にスフィルナの剣先をマクスロクに突き付けたエメリアは、おのが従僕に一際厳しい言葉を放つ。


「ひっ……エメリア様……お許しを……こ、これが私の本気なのです……」

 防護結界をことごとく打ち破られたマクスロクは、へたりと座り込むと哀願あいがんの眼差しをエメリアに送った。




「――ふぅ……他には。他に私と手合わせしようと願うものは?」

 翌月の勇者エイセス戦に備えいきり立っているのか、エメリアは辺りを見回して言う。疲弊しきった四人の他に、ユーティラ以下グレースメリアの面々も居るには居たが、逡巡しゅんじゅんした様に一歩引いて身構えるだけだ。


「――わ、わたくしが……、ま、参ります……」

 しかし震えながらも歩み出たのは、グレースメリア騎士団の副団長。ユーティラ・E・ベルリオーズだった。その身体以上に、父と同じくウェーブがかったボブカットが揺れている。


「へ、陛下の眼の前で……わ、わたくしは……」

 赤いライトメイルに身を包み、緊張を押し隠す様にユーティラは荒く息を吐く。


「――良い心がけだわユーティ。全力で来なさい。お父上との戦闘で、私が疲れている今でなら、一太刀ぐらいは浴びせられるかも知れない」

 団長の証でもある白の、そこに赤いラインの入った法衣をたなびかせ、エメリアはもう一度剣を構える。




「ッ……! わたくしはエスベルカの剣、ユーティラ・E・ベルリオーズッ! ユリシーズ卿、推して参りますッ!!!」


 父と同じ地の剣技で守りの結界を張ったユーティラは、次に右手を掲げると呪文の詠唱に入った。


「地は血に満ち、屍は荊にて括られよ! ソーンハンギング!!!」

 幾重もの茨がユーティラの腕を覆い、爆発的に増殖したかと思うとエメリアに向かい瞬時に伸びる。だがその茨は尽くがエメリアの剣撃によって刻まれる。


「まだッ! 地を散って穿て、襲撃の飛礫グラヴェール!!!」

 しかし茨を囮にしたユーティラは、その刹那にエメリアの懐に潜り込むや、左手を地面に当て二撃目の地の術を放つ。石畳は飛礫つぶてに姿を変えると、連撃でエメリアを襲う。


「小賢しいわねッ! フンッ!」

 その飛礫を剣圧だけで掻き消したエメリアは、上天からの一撃をユーティラに向け振り下ろす。


 ――キン!!!

 あわや瞼を閉じたユーティラの頭上で、エメリアの剣を受けたのはユリ・オヴニル。先刻入団したばかりの、エルジアの百人隊長だった。


「――ここで退いては侍の恥ゆえ、失礼つかまつるッ!」

 折れて散った愛刀を捨て、反撃を加えるべくユリは二刀目に手をかける。


火撃かげきは刹那にして一瞬の泡沫うたかた。痛み無く消えよ。さらば美しく散れ――、雪月花千仞せんじん冬景とうけい


 それは火の勇者バートレットがあの日放った、神速の抜刀術。光の如き速さで迫る一撃が僅かに法衣を掠め、エメリアは眉をひそめる。


「くっ……やるけど、でもッ!!!」

 身を捻りながら一撃をかわしたエメリアは、かかる遠心力を利用してユリの腹部に柄の打撃を加える。血を吐いて飛ぶユリは、辛うじて受け身をとって態勢を立て直した。


「流石にそれがしだけではッ……だがッ!」

 その間隙かんげきを縫うユーティラの茨が、エメリアの足を雁字搦がんじがらめに捕らえている。しまったと表情を崩すエメリアだったが、射程内に敵が居ないと知るや茨を断つべく剣を振り上げる。




「黙し、凍え、して逝ね! 氷結の参、アイスガッシュ!!!」

 そこで太陽を背に呪文を唱えるのは、副団長の片割れ、ブリジット・S・フィッツジェラルド。青いボブカットに、後ろで結わえた一本の三つ編みを揺らす彼女は、ユーティラとは対照的な青のライトメイルに身を包み斬撃を繰り出す。


「なッ……」

 意表を突かれたとばかりに目を見開くエメリアに「すみません団長! でもあたしも、ここで退く訳にはッ!!」とブリジットが叫ぶ。


 ――ドン!!!!

 爆発音と共に氷煙が舞い、辺りは寒々しい白に包まれる。


「……直撃、した筈……」

 ブリジットが様子を伺う様に剣を構える。だが構えた瞬間、冷やりとした切っ先が彼女の喉元に突きつけられていた。


「お見事、ブリジット。あなたを副団長にして正解だったわ」

 ブリジットの背後に立っていたのは、氷刃の直撃を受けた筈のエメリアだった。とっさに身を翻すブリジットだが、その腕は掴まれて地面に叩きつけられてしまう。


「うぐっ!!!」

 びたんと地面を跳ね、転がるブリジットに、僕は割り込む様に滑り込むと、彼女を抱きかかえて立った。




「――陛下?」

 訝しげな表情を浮かべるエメリアに、僕は「もういいだろう。此処ここから先は、私が受けて立つ」と返し、背後のユーティラに、ブリジットを預けた。


「私が断言しよう。お前に並ぶ騎士は、この大陸には最早いないと」

 拍手をしながら歩み寄る僕に、エメリアが後ずさって剣を構える。


「よくぞこの僅かな期間で鍛え上げた。称賛に値する。そしてゆえに――、その馳走ちそうは私が頂こう」


 パチンと鳴らした指に合わせ、僕とエメリアだけを囲む結界が生まれる。勇者エイセス格がどれだけ禁呪を撃った所でビクともしない多重結界。それを見たエメリアは、事態を推し量ったかの様に笑みを浮かべる。


「ありがとうございます、陛下。――エメリア・アウレリウス・ユリシーズ、我が全霊を以て挑ませて頂きます!」

 

 言うや放たれる、それまでとは比べ物にならない剣気が結界内を覆う。既に勇者エイセスの末席に立つバートレットは凌いでいるだろう。偶合ぐうごうにも彼女が取った構えは、先刻のユリと同じ、抜刀術のそれだった。


「先ずはこれを試さないとね……火撃かげきは刹那にして一瞬の泡沫うたかた。痛み無く消えよ。さらば美しく散れ――、雪月花千仞せんじん冬景とうけいッ!」


 ユリ、いやバートレットをも上回る飛燕の神速で、何十倍もの質量が僕に向かって襲い来る。なるほどこれは欲求不満にもなる訳だ。今の大陸で、この一撃をかわせる人間がどれだけいるだろう。


 ――ヒュン!

 だが僕は生憎、そのバートレットが百人雁首がんくびを揃えた所でどうにもならないだけの力を有している。紙一重で剣撃を避けた僕は、まるでダンスでも踊るかの様にエメリアの腰に手を当てた。


「良い一撃だ」

 瞬間しゅんかん頬を染めたエメリアは「おたわむれをッ!」と叫ぶや、距離を取るべく跳躍を図る。しかし今度は肩を握り唇を奪った僕は、彼女の転身そのものを防いでいた。


「んっ――むぐっ!」

 先刻まで誰一人敵うものの居なかったエメリアを、赤子の様にあやすベルカの皇帝。その圧巻に言葉を失った周囲は、ただぽかんと口を開けたまま不可思議な光景に見入るだけだ。


「血の気が昇り過ぎだエメリア……冷静になれ」

 耳元で囁く僕の声に、じたばたとしながらエメリアも視線を返す。


(以後の鍛錬は僕が受ける。このままじゃお前、間違いなく死人を出すぞ)

 その言葉にはっとしたのか、ぽろりと剣を落としエメリアは呟いた。


(ごめんララト……私……)

 エメリアが戦意を失った事で結界を解いた僕は、彼女を抱きかかえたまま歩く。




「へ、陛下……」

 先頭に立っていたユーティラが、申し訳なさそうな表情でこちらを見ている。アンジェはと言うと力を使い果たしたのか、その腕の中ですやすやと寝息を立てている。


「すまなかったユーティ。鍛錬の協力、感謝するぞ」

 周りに立つ他の騎士たちも労った僕は、衛生兵に治療を申し付けると、闘技場を出ようと足を踏み出す。


「いえ……申し訳ありませんでした。わたくしこそ、本当に惨めな姿を……」

 その声は涙声を堪えている様にも思えた。肩を震わせる振動に合わせて、ユーティラのウェーブがかった髪も前後に揺れる。


「案ずるな。お前はお前の務めを果たしている……アンジェのこと、頼んだ」

 片手でぼふとユーティラの、その揺れる肩を叩いた僕は、振り返る事も無くその場を後にした。


 ――或いは、そろそろ他の騎士たちも強化しなければ不味いのかも知れないと心の中で呟きながら。

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