第15話 秘めごと



「あの山脈沿いを見て回ったら城へ帰還だ」

 エスクードの言葉を聞き受けたかのように、フレチャが身を若干傾けて、空を滑る。

 青い稜線を描いた山々の連なりへと近づいていく。水色の空を背景に青かった山が眼下に迫ると、緑の樹木がうっそうと生い茂っていた。山の斜面をエスクードは目を細めるようにして睨む。

「……この山を越えたら、別の国なんだ」

 エスクードは無断で国境を超える輩を警戒しているのかもしれない。私も何かしら役に立てないかと、辺りを見回す。

 斜面を滑る様に視線を流せば、山の麓に関所のようなものがあり、小さな集落が出来上がっていた。山越えする人たちを相手にした宿屋や食べ物屋、関所に詰める人たちの住居などが集まっているんだろう。

 田畑も見えて、長閑な町の光景がある。囲いのなかには家畜がいて、小さな人影が道を行ったり来たりしている。子供が親のお手伝いをしているのかもしれない。関所へ連なる道を商人らしい人たちの一行が向かっていた。これから山越えをするのだろう。

「異常はないみたいだな――城へ帰ろうか、フレチャ」

 エスクードの声にフレチャが「キュー」と鳴く。

 まるで「了解、隊長」と言っているみたいで、私はくすくすと笑った。言葉なんて通じていないだろうに、わかり合っているエスクードとフレチャがとてもいいコンビに見える。

「アリス?」

 戸惑ったようなエスクードの顔に出会って、私は何でもないと首を振る。

 私も二人の――エスクードとフレチャの仲間に入りたいと言ったら、彼は笑うだろうか。

 もっと色々なことをエスクードと理解し合えたら、きっと楽しいだろうなと思う。それにはやっぱり、この国の言葉を覚えるのが先かな。

 耳で聞く分には大分理解できるようになっているから、発声さえ覚えれば、そんなに難しくないような気がするんだけど……自信はない。

 それに問題は私が喋れない、声が出せないということになっていることだ。

 そして、それが実は嘘だと告白すれば、この国の言語を少しなりとも理解しているという秘密も明かさなければならなくなる。

 それは、逡巡するに余りある。だって……今まで、エスクードたちの会話を全く理解していないふりをしていたんだもの。

 私が理解していないことを前提で言っていたあれやこれやを――ある意味、盗み聞きしていたと白状するようなものだ。

 うーん、それはやっぱりマズイよね?

 最初は不可抗力だったけれど、少しずつ彼らの言葉の意味を理解してからも私はずっと黙っていた。騙していたと言っていいだろう。

 この秘密を告白するには、かなりの度胸がいる。下手したら、嫌われるかもしれない。

 ……嫌われるかな。

 私はエスクードの横顔をチラリと盗み見る。

 彼は視線を地上に向けて、パトロール任務をこなしていた。真面目で精悍な横顔は、私のズルを許してくれるだろうか。

 事情を話せたら――私がこの国の住人ではない、別世界の人間だということを話したら、信じてくれるだろうか。

 何だか、今さらだという気がする。

 筆談でコミュニケーションがとれるようになって、もう久しい。それなのに、何で今になってと思われるだろう。

 エスクードよりもずっと年上だということも。

 ――実は私、異世界から来ました。地球という星の日本という国で生まれ育った、もう直ぐ三十路のOLなんです、とか言うの?

 ……マズイな、童顔云々以前に、信じて貰える自信がない。一年前の私はそんなことを真顔で言う人がいたら、妄想癖があるんだなと、頬を引きつらせたことだろう。自分が信じやしないことを、人に信じて貰おうなど、むしが良すぎる。

 子供だなと思う。早いうちから物わかりのいい人間にならざるを得なくって、自分は周りに比べて老成している気がした。

 達観し、諦めて、物わかりのいいふりをして、大人になったつもりでいたけれど。本当は寂しさを持て余して、それに気づかないふりをしていた子供だ。誰かにそれを見透かされるのが怖くて、私は他人と距離を取っていたのかもしれない。

 上手く立ち回って来たつもりだけど、全然だ。今もこちらで、こんなことに悩んでいる。

 ちっとも、大人じゃないよ、私。

 どうしていいのかわからなくて、思わずため息をこぼすと、エスクードが身じろぎして私の顔を覗き込んできた。

「どうした?」

 心配そうな瞳の色を前にすると、私は打ち明けられない秘密に、やはり笑って誤魔化すしかなかった。

 一年前、こちらに来たときは別に言葉が通じなくてもいいと思っていた。意思の疎通が叶わなくても、衣食住は保証されていたから、それほど不自由を感じなかった。

 不自由といえば、今だってさほど不自由なわけじゃない。一応、必要最低限の会話は成立しているのだ。

 ただ、もっと色々なことをエスクードと話せたらいいのにと思うようになっているから、ジェスチャーや筆談では物足りなくなっている。

 欲張りになっている自分に気づけば、私がどれだけこの場所に、エスクードの傍にいることを当たり前に受け止めているのかと愕然とする。

 今まで私はこんなに他人に近づいたことはなかった。元彼とだって、彼が話しかけてくることに私は応えたけれど。自分から何かを話しかけることなんて、なかった気がする。

 秘密を打ち明けることを考える時点で、私はエスクードに歩み寄ろうとしている。

 今までの自分では考えられないことだ。

 孤独に寂しがっていた自分に気付いたときとは違う意味で、自分が知らない自分に出会った気がした。

 でも、こっちの自分は寂しがり屋の自分とは違う意味で、新鮮だった。

 誰かに歩み寄ろうとするのは、ある意味、寂しいからなのかもしれない。けれど、その寂しさを自覚している自分は、前向きだと思えた。

 残念ながら、一歩を踏み出そうにも、秘密が大きすぎて踏み出せないのだけれど。

 ため息をこぼしたくなるけれど、そうしたらエスクードが心配するとわかっていたから、私は顔を上げて眼下に広がる世界を視界に収めた瞬間、視界の端に違和感を覚えた。

 何? 何だが、目にしちゃいけないようなものを見たような……。

 自分が目にしたものを確かめるように、流れ過ぎて行った後方に目を凝らす。抱きついたエスクードの肩越しに、黒煙がたなびくのを見て、私は目を見張った。

 慌てて、エスクードの上着を掴んで引っ張る。前方を睨んでいたエスクードが私に目を向ける。その視線を私は後方へと誘導した。

「――火事かっ? フレチャ、旋回してくれっ!」

 エスクードの命を受けて、フレチャが身体を傾けて空を半回転した。今まで飛んできた航路を逆に辿ると、森に囲まれた集落が見えてきた。その集落を取り囲んでいる森の一部が赤く燃えて、煙が泡を吐くように立ち上っている。

 頬に当たる空気が急に冷えた気がした瞬間、その景色がグンと近くなる。フレチャの速度が増したのだと思う。風圧は魔法で緩和されているのだろう。

 真下に燃え盛る炎を目にした瞬間、フレチャの翼がバサリと羽ばたいて、その場で留まり滞空する。

「フレチャ、アリスを頼むぞっ!」

 エスクードの声が耳元で聞こえたかと思った次の瞬間には、彼の身体はフレチャの背から消えていた。何十メートルもの高さなんて、まったく臆せずにエスクードは地上へと跳んだ。落下の衝撃を魔法で緩和できるのかもしれないけれど、見ているこっちの肝が冷える。

 私が思わず身を乗り出しエスクードの安否を確かめようとすれば、フレチャの背中から転げ落ちそうになった。ドラゴンはそれを素早く察知して、姿勢を平行に動かした。

 フレチャの首にしがみ付きながら下を見れば、ドラゴンの背から飛び降りたエスクードは森を貫くように伸びた道を燃え盛る火元へと走っていく。

「エスクードっ!」

 私は悲鳴のようにその名を口にした。けれど、恐怖に強張った喉の奥で声が詰まって、形にはならない。

 彼が駆け抜けようとするその道は、集落の住人が逃げまどい混乱をきたしていた。

 エスクードの張り上げた声が風に乗って、焦げくさい臭いと共にこちらに届く。

「慌てるな、風下に逃げるんじゃない。火が追いついてくるぞっ! 逃げるのなら風上へ行けっ!」

 混乱しているのか、エスクードが誘導しようとする風上へ逃げる人はいない。いいえ、風上に火の手が見えるので怖くてそちらに行けないのだ。

 道が火の手を分けているので、じわじわと勢いを増しながらも下って来る火の手を避ければ、風上に逃げることができる。風上の森の向こうには湖があって、開けた湖岸が見えた。あそこまで逃げれば、安全だ。

 だけど、このまま火を放置していたら、集落の家に飛び火して風下のこちらは完全に道を塞がれてしまうのが、上空にいる私の目には明らかだった。

 火の勢いを殺すか――消化するか――早急に、風上へと逃げなければ、誰一人として助からない。

 エスクードが死んでしまうっ!

 その事実に私の目の前が暗くなる。両親の事故を知ったときの衝撃に似たものが、私の心臓をわし掴みにする。喉を詰まらせる。

 ――嫌っ!

 私は迫りくる恐怖に悲鳴を上げた。それが自分の耳に届く頃、そんなことをしていても無駄なのだと思った。

 悲鳴を上げて、パニックに陥っている場合じゃない。

 目の前の現実が、逃避できない事実ならば――。

 私は唇を噛んで、姿勢を正した。そして通じることを願いながら、口を開いて声を発した。

「――フレチャっ! 風上に飛んでっ!」


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