無限のハコ

なおなお

第1話 深淵の深みより覗く影

水面に浮かぶ波紋、それは一定のリズムで刻まれていて、その中心にあるのは小さな船、その上には一人の男が静かに立っていた。彼の名は野水海莉のみずかいり、今はとある大学の研究室の助手であるが、ゆくゆくは教授となり、研究に専念する日々を送りたいと願っていた。


そんな彼の出で立ちは、まるでどこかの映画に出てきそうな探検家然の格好であり、それを見る限り彼の教授のイメージはかなり歪んでいるようであった。その影響からだろう、たびたびフィールドワークと称して遊び歩いている彼に対して、教授になるのはまだ先の話だろうと思われるのも無理からぬ話であった。


この日も彼はフィールドワークという名目で、小さな船に乗り太平洋の沖合にある海の上に来ていた。この下には日本海溝という海の中でもひときわ深い溝があり、世界で最も研究が進んでいないと言われている深海のうちの一つである。彼が何故、深海を研究するようになったかというと、かつて、その目で目撃した「深海の主」に再び相見えるためであった。


その情熱の始まりは、まだ研究者として日が浅いある日のこと、恩師の一人である大学教授の手伝いとして、フィールドワークに参加した。彼もまた、深海という未知の領域に魅せられた一人であり、海洋研究の第一人者として数えられる稀有な存在であった。当時、彼はそこまで深海に魅せられておらず、なんとなく将来は大学教授で研究一筋という大まかな願望しか持っていなかった。


しかし彼らはその日、とんでもないものを目にすることになった。


とてつもなく巨大な、全長10mを超える巨体、そして表面は鱗の様子一つない滑らかな皮膚、全身の1/4はあるような巨大な口、体からは数本の触手のようなものが生えており、一言で表現すればグロテスクとしか言いようのない姿ではあったが、まるで異界の神のような畏敬の念を抱かざるを得ない姿は深海用のカメラ越しであっても十分に感じ取ることができた。


その教授は、その姿をもっと詳細に捉えようと、カメラを近づけるも、それを不遜に思ったのだろう、突如として映像は途切れてしまったので、慌てて引き上げるとカメラは先端から丸ごとなくなっていた。教授たちは、逃した獲物は大きいとばかりに、その存在のことを「深海の主」と名付け、再び相見えることを誓い合った。


そして、この日も日本海溝に向けて深海用カメラを降ろしていき、カメラは深く、深く、さらに深みである海溝の底に至るまで、海の中を沈んでいった。やがて、カメラは海溝の底に到達し、周囲の地面を映し出し始めると、その映像に目当ての存在が映っていないことを確認する。とりあえず無事に海溝の底にカメラを降ろすことができたことに安堵した彼は、一息いれることにした。


彼は、今にして思えば巨大な魚だったのかもしれないと思いつつも、こうして調査を進めるのは、その後も「深海の主」を追い続け、その結果として遂には精神病院に収容されるまでになってしまった教授の悲願を果たすということも目的の一つであった。その教授は「深海の主」だけを追い求め続けていたが、彼は深海にはまだまだ未知の要素が沢山あると考えていて、実際にその光景を何度も目の当たりにしていた。


時にはアンモナイトの頭をした四つ足の魚のようなものであったり、目玉がいたるところに配置されているアメーバのような不定形の存在といった、地上では見ることのできない、グロテスクでありながら芸術的とも言える存在を目にすることもあった。

そういった神の気まぐれ、あるいは狂気の産物としか思えないような存在を目の当たりにするたびに、彼は「深海の主」を追い求めつつも、そういった未知の存在にも魅せられていくようになった。


もちろん、彼はこういった研究成果を学会に幾度となく発表したが、学会では全く取り上げられることはなかった。もちろん、研究者のうちの何人かは最初は興味を示してくれたりもしたが、1ヶ月、2ヶ月と経つうちに、その研究者も彼の研究成果に難癖をつけるようになっていた。


ひどい時は撮影した動画や写真なども捏造であるという評価を下された場合もあり、その度に意気消沈することは、もはや日常茶飯事であった。「捏造ではない」と主張することも考えたが、確たる証拠と呼べるものもない上に、捏造であるという前提で語っている彼らに真っ向から対抗して勝てる見込みは限りなくゼロに近かった。


それだけならまだしも、研究成果の捏造というスキャンダル、特に未知の研究に関しては、マスコミも喜んで食いつくであろうことは想像に難くない。


そんな愚を犯してまで、目先の成果に執着し、研究者生命を終わりにする程、彼は研究者としては若くはなかったし、助手という身分であるとはいえ、大学に雇われている身であるため、この段階でそこまで主張するメリットを感じていなかったというのもあった。また実際に、大学に籍を置いている以上、学会での研究発表は義務ということもあり、苦し紛れの研究成果を発表するものも少なくはなかったため、彼の研究成果もその一つとして問題視されることはなかった。


こうした回想を巡らしている間に、温くなっていたコーヒーを飲み干すと、彼は海底の探索を再開した。しかし、この日は偶然なのか、調子が悪いのか、海底に生物をほとんど発見することができなかった。

彼は「そういう日もあるさ」と投げやりな感想を抱きつつ、海底の探索を進めていったが、探索を1時間、2時間と進めるにつれて、違和感を感じ始めていた。


確かに海溝とはいえ、実際にはそれなりの広さがあり、生物が見つからないこともあるだろう、しかし、2時間も探索を進めているにも関わらず、生物と呼べるような存在を1体たりとも見つけることができない、となると話は変わってくる。そんな時、知り合いの生態学の研究者の話が脳裏をよぎった。


「動物たちは自分の生命に危機が訪れたと判断すると、身を隠したり、逃げたりする」


それを思い返しながら、生物の姿を全く見かけない今の状況は、ここ最近で大きな変化が起こり絶滅した場合、もしくは生命の危機を感じ取って逃げてしまった場合の2つしかなかった。とはいえ前者は、他の状態も踏まえると、ここ1、2ヶ月で大きな変化は起こったとは考えにくく、また、仮にそうだったとしても、ここまで綺麗さっぱりいなくなっているというのは説明がつかなかった。であれば、考えられるのは後者の生命の危機を感じ取ったと考える方が素直である。しかも、すべての生物に生命の危機を感じ取らせるような存在など、それほど多くはなかったが、そこまで考えて「深海の主」の存在に思い至る。


確かにあの巨大な口にかかれば、どんな深海の生物であっても一呑みだろうし、彼が畏敬の念を抱いているのと同様に、深海の生物たちは、それに対して恐怖の念を抱いているであろうことは想像に難くなかった。ここまでの内容を頭の中で整理すると、今度こそ「深海の主」と相見えるまたとない機会と思い、嫌が応にも期待が高まっていった。


その期待に後押しされるように、3時間、4時間と海底の探索を続けていき、探索の範囲も見落としのないように少しずつ広げていった。そして5時間、6時間と探索を続けるも何も見つからず、半ば諦めかけていたところに、それはカメラの前に姿を現した。


全長10mどころか20mに届きそうなほどの巨体、鱗一つない滑らかな皮膚、巨大な口、体からは数本の触手のようなものが生えているというその姿、それこそが、かつて目にした「深海の主」の姿に間違い無かった。彼は突然の邂逅に胸を躍らせつつも、慎重にカメラを近づけていった。特に巨大な口はカメラごと食べられてしまう可能性もあったため、なるべく後ろに回りこむようにカメラを操作していき、徐々に距離を詰めていく。やがて後ろから、その巨体に触れた刹那、激しい水流と共に海底の砂が舞い上がる。その舞い上がった砂により、しばらくの間、カメラは砂以外の何物も写すことができなかった。


しかし、舞い上がった砂がすべて地面に落ちた時、彼は息を飲んだ。


まず「深海の主」を10m、あるいは20mの巨体と言っていたが、それ自体が間違っていたことだったとわかった、実際のそれは50mにも届くほどの巨大なアンコウの姿であった。そのあまりに巨大な姿は本来ならば細い触角を触手と見間違うほどの太さになっていることからも容易に想像できるほどに巨大な存在、深海に棲む生物として、これを脅威に感じないはずがないのは自明の理である。しかし、そんな驚異の姿を確認した彼はため息をついた。というのも、確かに巨大ではあるものの所詮はアンコウであり、自分が期待したのは未知の存在であり、アンコウなどではなかったからだ。


この真実を目の当たりにしたとき、彼は例の教授も同じように過去に「深海の主」の真の姿を見たのではないかということに思い至った。教授の情熱は彼の比ではなく、まさに生命を懸けていたと言っても過言ではないものであったし、それを未知の存在として期待するような論文を何度も発表していたことも知っていた。そんな彼が、正体は超巨大とはいえ、ただのアンコウでした、と知った時の絶望感は想像に難くなかったし、彼が正気を失い精神病院に収容されることになったのも憐れみこそあれ、ありえない話でないということは十分に認識していた。


彼もこの真実には多少の驚きと落胆があったが、彼にとっては教授の悲願を果たすことだけが、「深海の主」を追い求めていた理由であったため、その正体と教授の失意から正気を失うに至った経緯までを踏まえると、この日、彼は誰にも発表することは叶わないが十分な成果を得たと確信していた。


彼は教授にしばし思いを馳せると、船室に向かった。そこには二つのグラスとワインボトル、そして写真立てには在りし日の教授の姿が映っていた。本来であれば、「深海の主」に再会したことを祝して上げようと用意していた祝杯であったが、彼は別の意味を込めてワインのボトルを開け、グラスに注ぐ。グラスの一つは写真立ての前に、もう一つは彼が手に持つと、静かに乾杯してワインを飲み干した。


そして、しばらく余韻に浸ったのち、彼は今日この日、研究者として独り立ちしたことの報告と、これからも深海研究を続けていく誓いを立てるのであった。

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