第5話 月に誘われて

東の空から煌々こうこうとした月が昇っていく、それは僅かに欠けることも無い満月であった。月は次第に夜の空を昇っていき、普段であれば夜の闇に覆われていく地面を仄白く照らしていた。


その月明かりに照らされる世界は、まるで月から与えられる光の恵みの感謝をしているかのように、街や森、そして公園などの至るところにキラキラとした輝きを振りまいていた。


そんな月からの輝く恵みに照らされる夜の公園。街から少し離れている、この場所に、こんな時間に訪れる人間などは滅多にいない。しかし、この日は一人の青年が憂鬱な面持ちで昇りゆく満月を見つめていた。

彼がここにいる、というのは別に公園に用事があったためではなかった。単純に人のいない場所を求めて彷徨い歩いた結果、この公園にたどり着いてしまったのである。


この公園にいると、憂鬱な気持ちが月の輝きの残滓のように積もっていくのを感じていた。それは、ここが憂鬱な気持ちの始まりであることは無関係ではあるまい。


「今日は・・・。満月か・・・。」


彼は、積もり積もった憂鬱な気持ちを吐き出すようにして言葉を紡いだ。

そして、ふと視線を落とすと、眼下には街の灯りが煌々としていた。それは、まるで彼が失ってしまった家庭の温かさを見せつけているかのようにも思えて、また憂鬱な気持ちになる。


−−いつから、月が憂鬱なものになってしまったんだろう。


以前の彼は月を見るのがとても好きであった。始まりもまた満月のよるであった。彼は物心ついて間も無い頃、両親の仕事の都合でたまたま帰りが遅くなったことから、満月に照らされた夜道を両親に連れられて歩いていた。

その時に見上げた空に浮かぶ真円の輝きは、彼の幼心を魅了するには十分なものであった。その純白の輝きは、宝石に例えるならダイヤモンドの輝きのように、彼の目には映っていた。


それ以来、彼は月の輝きに魅せられて、晴れた満月の夜になると、こっそり家を抜け出しては、この高台にある公園に来て、月を見上げているのであった。また雨の日は、公園にこそ来ることはなかったものの、部屋の窓から曇り空を眺めては雲の向こうにあるはずの月に想いを馳せるのであった。


そんな彼の憧れを打ち砕いた事件は、彼が小学校4年生の時に訪れた。


当時、彼の通う学校では、夜になると狂犬が現れるという噂が広まっていた。実際に、彼のクラスにいた女生徒の一人が被害にあったらしく、幸い命に別条は無かったものの、噂の渦中の人間ということで、学校の中は彼女の噂で持ちきりであった。

その彼女が、事件のあった数日後、両親の事情とやらで田舎に引っ越すことになり、彼のクラスでは彼女の送別会を行うことになった。

送別会、とは言っても、小学校のことであるから慎まやかなものであったが、軽いお菓子やジュースを持ち込んで宴会のようなことをしていた。

彼もまた、彼女と話す機会があったが、その時に彼が自分が月が好きで夜中に公園に行って眺めていることを話すと、彼女の表情が若干険しくなった。


「狂犬には本当に注意して。特に、近くに大人の人がいるからって気を抜いちゃダメだからね。」


そう、強目の口調で彼女は言った。この言葉は強く印象には残っていたが、何かの冗談だと思い、さほど気に留めてはいなかった。

彼女が転校してから、しばらくは狂犬の噂もあったため、学校から夜中の外出を禁止されていた。そのため、彼は満月を公園で見ることを控えていた。もちろん、その間も学校の先生や警察官が狂犬探しに明け暮れていたが、一ヶ月、二ヶ月と経過しても、狂犬を見つけたという報告は無かった。


人の噂も七十五日とはよく言ったもので、あれほど騒がれていた狂犬の噂も二ヶ月もすると、ほとんど会話の話題になることは無くなっていた。警察は未だに捜索をしているようであったが、学校はパトロールを止めてしまい、夜間の外出を黙認するようになっていた。

彼も、彼女の言葉は頭の隅に残ってはいたものの、もはや狂犬は過去のものとなっていた。


そうして、彼は満月の夜になると、公園で月を眺めるようになっていた。


この日も彼は一人、公園で満月を眺めていた。普段は人通りも無い場所ではあったが、この日は偶然にもパトロールの警察官が見回りに来て、彼の姿を見つけると、彼の元に歩み寄ってきた。


警察官は彼のわきに立つと話しかけてきた。


「キミ、こんな所で何しているんだ?」

「月を見ているだけですよ。」

「・・・やれやれ、そんな月のどこが良いんだかね・・・。キミね、俺たちが何でパトロールしているか知ってるでしょ?狂犬の噂は聞いたことがない?」

若干、夜中に外にいるのを咎めるような口調で聞いてきたため、彼はややムッとしながら答えた。

「狂犬なんて言うけど、本当はそんなのいないんでしょ?もう何ヶ月も探していて見つかっていないし・・・。僕を脅そうったって、そうはいかないからね。」

「・・・キミね。今まで捕まっていなかったからと言って、居ないとは限らないんだよ。・・・そう、もしかしたら今まさに、君の隣にいるのかもしれないんだから・・・。」

その言葉を聞いた次の瞬間、彼は全てを知ることになった。


何故、彼女があのような言葉を残したのか。

何故、四ヶ月もの間、狂犬が見つからなかったのか。

何故、狂犬は夜中にしか現れなかったのか。

何故、自分は大丈夫だと安心していたのか。


全てを知った時には、全てが手遅れだった。

彼の肩には、先ほどまで警察官だったと思われる狂犬、いや狼が噛み付いていたのだから。その光景を見ながら、あまりの痛みに彼の意識は深い闇に落ちていった。


彼が目を覚ますと、そこは病院のベッドの上であった。後から聞いた話によれば、公園で高熱を出して倒れていたそうである。肩口には獣のような噛み跡があったことから狂犬に噛まれた可能性が高いと思われていたが、狂犬病の検査の結果は陰性であった。

別の警察官に、噛まれた時の状況を聞かれたこともあり、警察官が狼になって噛まれたという話もしたが、当然ながら冗談か、高熱による幻覚だろうということで、まともに取り合ってもらえなかった。

幸いにも、噛み跡による傷は浅く、熱が引く頃には傷口はほとんど残ってはいなかった。


その事件のあと、再び学校と警察はパトロールを強化する方向でまとまったらしく、夜間の外出を取り締まるようになった。

しかし、その警察官が狂犬そのものであることを知っていた彼は、今回も徒労に終わるだろうことを確信していた。


これで全てが終わったと思っていた彼は、いつものように日常生活を送り始めていたが、彼の悲劇はこれで終わりではなかった。数日後、再び満月の夜となっていたが、この日は夜間の外出が禁止されていたため、自分の部屋の窓から月を眺めるだけであった。


月を眺めるのは、今日に限った話ではなかったが、この日はいつもと違っていた。月の輝きは普段より妖しく見えて妙に魅惑的であったし、月を眺めている彼自身も得体の知れない妙な高揚感を感じていた。

その感覚を不思議に思いながらも月を眺めていると、徐々に、その高揚感は彼の心を蝕んでいき、ついには彼の意識を塗りつぶしてしまった。


彼が次に意識を取り戻したのは、男女の悲鳴を聞いた時であった。冷静に聞いていれば、それは彼の両親のものであることは明白であったが、高揚感に包まれていた彼には、それが誰かを判断する余裕はなかった。

その直後、彼の口の中に、今まで味わったことの無い甘美な味が広がっていた。それはまるで濃厚なジュースのようであり、また、噛み応えのあるグミのような弾力を持っていた。まさに、身も心も満たされるような至高の味であった。

その幸福感に包まれながら、彼の意識は再び夢の中に戻っていった。


彼が再び目を覚ますと、彼の体にはベトベトした妙に生臭い液体に塗れていることに気づいた。それが何であるかを知るのに、それほど時間はかからなかった。というのも、彼の目の前には彼の両親の死体が転がっていたからである。そう、彼の体に大量に付着しているのは、両親の血液であった。


その光景に動揺しながら、洗面所に駆け込み、慌てて手を洗い口をすすいだ。そして、震える手を押さえながら警察に連絡した。程なくして、警察官が二人ほど到着したが、遺体を調べた結果、獣の爪で引き裂かれていたり、牙で噛みちぎられていたことから、噂の狂犬によるものであると判断された。

警察官は戸締りをしっかりするように伝えると、狂犬を探しに行ってしまった。


もちろん、彼だけは両親を殺したのが他ならぬ自分自身であることを知っていた。月を見て感じた高揚感も、口の中に感じた至高の味も、両親に刻まれた爪や牙の痕も、本当は何が起きたのか気づいていた。


−−何故、彼女が田舎に引っ越すことになったのか。


両親の都合ということであったが、今になって初めて、彼は彼女が引っ越した理由を理解した。そう、彼女も彼と同じ、狂犬に襲われたことによって、になってしまっていたのだった。


それから数年経った今でも、狂犬のニュースは時折、街の人たちの噂になっていた。噂のこともあり、今や夜中に出歩く人間など、パトロールとして駆り出されている警察官を除いては自分くらいなものであった。

狂犬の存在が確信に満ちたものである中、未だに狂犬が捕まえられていないという事実は警察の威信に関わるものであるらしく、パトロールの体制は年々強化されていた。それでもなお、狂犬を捕まえられていない所轄の所長は、警視庁のお偉方から吊るし上げでも食らっているのだろう、と思う。


もっとも、 犯人であるを匿っていた警察は自業自得だと、彼は考えていた。しかし、そう思ったところで、彼が狂犬になってしまったという事実は変えようがなかった。

しかし、もしも彼が捕まったとしたら、世間は大騒ぎになるだろう。なにせ、本当に隣にが潜んでいるのかもしれないのだから。


「今日は満月か・・・。」

東の空から満月が昇り始める。それを見ながら、彼は憂鬱な気持ちと一緒に言葉を吐き出した。

そんな彼の憂鬱は確かに心の中に積もり続けてはいたが、同時に彼は異様な高揚感に包まれ始めていた。そして、この高揚感が彼の心を憂鬱ごと塗りつぶした時、彼は人ではない何かとなるのである。

変容した彼の眼下には、先ほどまでと変わらない街の灯りが煌めいていたが、今の彼には獲物を報せる探照灯にしか感じられなかった。


こうして、は獲物を求めて夜の街に駆け出していった。

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無限のハコ なおなお @naonaox1126

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