08 最後の下準備
『ワンド・ペイジ』と『ベイビー・アピール』にまつわる撮影地獄も無事に終了し、十日ばかりの日が過ぎて、十一月の第二月曜日――《カノン A.G》十一月大会の、六日前である。
至極当然のように、瓜子たちはその日もトレーニングに打ち込んでいた。
故障や疲労を避けるための調整期間であり、稽古のメニューはぐっと軽減されている反面、試合に向けて意気と集中力を高めている時期である。よって、稽古場に満ちる熱気に変わるところはなかった。
現在もなお、佐伯とリンは週三ペースでプレスマン道場に通ってくれている。手空きの時間はキック部門のメンバーと交流を深めて、そちらでも稽古を積んでいるのだ。特にサイトーとリンのスパーなどは階級も近い上にどちらも上位ランカーであるので、なかなかの見ものであった。
そして月曜日は、他の出稽古のメンバーも勢ぞろいする日取りである。プレスマン道場の所属メンバーも五名に増えたところであるし、こういった日には男子選手よりも幅をきかせるような状態に成り果てていた。
「くどいようだが、もういっぺん言っておくぞ。あのピエロがどんな戦略を立ててくるかは、まったくの未知数だ。あいつが格闘技に専念するって宣言して、もう何ヶ月も経ってるんだからな。それだけの時間がありゃあ、色々なことを身につけられるだろう。もっとMMAらしいスタイルを磨いてくるかもしれんし、なんなら寝技や組み技を磨いてくるかもしれん。相手がどれだけ予想外なことを仕掛けてきても、冷静に対処すること。それが肝要だ」
インターバルには、立松がそのように熱っぽく語らってくれた。男子選手の十月大会も無事に終了して、ここ最近はほとんど瓜子たちにつきっきりで面倒を見てくれているのだ。
瓜子とユーリを除くメンバーは、それぞれスパーリングに勤しんでいる。調整期間にある瓜子たちは、そちらよりも長くインターバルが取られているのだ。しかしそういった時間を無駄にしないのが、立松の熱情と愛情であった。
「それに、もしもあっちが寝技や組み技を磨いてきたとしても、現時点での猪狩を上回れる道理はない。仮にタックルで上を取られても、お前だったら絶対に挽回できる。とにかく、冷静でいることだ。これまでの試合を見る限り、あいつは意想外の動きで相手を惑わせるのが真骨頂だからな。一回戦目は五分二ラウンドしかないんだから、絶対にペースを握らせるな。大阪大会のときみたいに呑気にかまえてたら、時間切れで判定負けだぞ」
「押忍。肝に銘じます」
「決勝戦は、一色選手か宗田選手か……まあ九分九厘、一色選手だろうが、もしも宗田選手が勝ち上がってきたら、これはもうとことん組み技を嫌っての打撃勝負だ。柔道あがりの選手は軸がしっかりしてるんで、あるていどの稽古を積めば強力な打撃技を体得できるもんだがな。何年もキックの稽古を積んできたお前が打ち負ける道理はない。これまでに積んできたものを信じて、相手をマットに沈めてやれ。ただ一点、フェンスまで詰められないように気をつけろ。柔道なんてのは道着があってなんぼの競技だが、それでも足技に関しては一番厄介だからな。フェンス際で膠着したら、どんな足技が飛んでくるかわからんぞ。とにかく足を掛けられて倒されることを、最大限に用心するんだ」
「押忍」
「それで、一色選手に関しては……これはまあ、佐伯さんたちのおかげで、対策もばっちりだな。だから用心するべきは、これまでに見せてこなかった手口だ。あっちだってもう何ヶ月もMMAの稽古を積んできてるはずなんだから、どんな新しいスタイルを身につけてるかもわからん。それでもピエロと同様で、寝技や組み技ならお前のほうが上だ。あっちが組み合いの素振りを見せても、惑わされるな。テイクダウンをくらっても、上を取り返しゃあいい。びびらずに、打撃技で打ち崩せ。ただし、こっちはしっかりテイクダウンを狙っていくんだぞ。グラップラーの後藤田選手でもテイクダウンは取れなかったが、あれはスタンドで不利な状態だったからだ。打撃技でしっかりプレッシャーをかけられれば、絶対にテイクダウンのチャンスはある。相手を惑わすためにも、テイクダウンは積極的に狙っていけ」
「押忍」
「で、お次は桃園さんだが……《フィスト》の試合を見る限り、ナナ坊は正統派のファイトスタイルだ。ただし、《レッド・キング》では男子選手にも勝ってるから、地力は相当なもんだろう。インファイトの乱打戦も相手の攻撃をすかすステップワークも臨機応変に使いこなす、真の意味でのオールラウンダーだな。それにウェイトも、オルガ選手と同じぐらい戻してくるはずだ。パワーとスピードはほぼ互角で、打撃の技術はあちらさんが上、寝技の技術はこっちが上ってところかな。スタミナもないわけじゃないから、二ラウンドしかない試合でガス欠を期待することはできない。……で、あちらさんは不同視の弱点を突いてくるはずだ」
「はぁい。立松先生とジョン先生の授けてくださった作戦のもとに、頑張りまぁす」
「ああ。そいつが有効に働いて、ようやくまっさらの勝負だからな。ナナ坊はクセがないぶん、穴が見つからない。ある意味では、来栖選手や御堂さんよりも完成されたオールラウンダーだろう。それでもあれこれ鑑みると、桃園さんがKO負けや一本負けをくらう図はなかなか想像できないんだが……怖いのは、時間切れの判定負けだ。相手に小器用に動かれたら、何もできないまま時間切れになっちまうかもしれん。だから桃園さんも、積極的に動いてペースをつかむ。桃園さんの化け物じみた力に関しては、あちらも承知の上だろうが……ナナ坊はけっきょく、それをほとんど体感していないからな。せいぜい、寝技のスパーで痛い目を見たぐらいか。だからあっちが立ち技を主軸に組み立ててくることを見越して、こっちはそれを上回る。スタンドで優位を取って、ペースを握るんだ」
「はぁい。死力を尽くす所存ですぅ。……えへへ。立松先生に化け物とか言われちゃうと、なんだか気恥ずかしいですねぇ」
「……去年までの俺だったら、桃園さんのそういう態度に真底腹が立ってただろうなぁ」
「うみゃー! 軽口はつつしみますので、何卒お慈悲を……!」
「だから、去年までの俺だったらって言ってるだろ。で、決勝戦で当たるのはベリーニャ選手か秋代選手か……俺は九分九厘ベリーニャ選手と思ってるが、これが秋代選手の望み通りの組み合わせなら、どこかに勝機があるって踏んでることになる。まず考えられるのは、時間切れの判定勝ちだな」
「ふみゅふみゅ。ベル様の神業タックルを十分間もしのげる算段があるのでしょうかぁ?」
「ああ。俺が秋代選手なら、ずっとフェンスを背に取るだろうな。ベリーニャ選手の一番の恐ろしさは、桃園さんも指摘した通り、タックルだ。ありゃあとにかくタイミングが絶妙で、どんな人間でもなかなかこらえられるもんじゃない。軽妙なステップワークのボクシングで相手を翻弄し、ここぞというタイミングでテイクダウンを奪い、あとはお得意の寝技でフィニッシュ――打撃技、組み技、寝技が一級品っていう意味では立派なオールラウンダーなんだが、攻撃のパターンはごく限られてる。ただその精度が尋常じゃないから、これまでどの選手もくつがすことができなかったわけだな」
「にゅふふ。ベル様が賞賛されるのは、自分が賞賛されるよりも嬉しいユーリちゃんなのです」
「……軽口はどうするんだっけ?」
「むにゃー! 何卒お慈悲を……」
「だからな、俺だったらフェンスを背に取る。一番こわいのは、マットの中央で上を取られることだからな。タックルをくらってもすぐ後ろがフェンスなら、なんとかこらえられる場面もあるだろう。それで壁レスまで持ち込めれば、決して不利にはならない……ってのが、秋代選手の目論見なんじゃねえかな。秋代選手にベリーニャ選手より上回ってる点があるとすりゃあ、そいつはパワーとレスリング力だからよ」
「なるほど」と、瓜子も口を出させていただく。
「でも、そんな消極的な戦法で勝てますかね?」
「勝てねえな。いいようにパンチをくらって、時間切れになるだけだろう。まあ、壁レスで優位に立って、逆にテイクダウンを取れる自信があるのか……それでもって、下からのスイープやサブミッションを全部しのいで、自分が圧倒できる自信があるのか……たった一年やそこらの海外修行で、そうまで力量が上がるとは思えねえんだがなあ」
タクミ選手の再来により、関係者一同は彼女の過去の試合を総ざらいすることになったのだ。少なくとも、《アトミック・ガールズ》や《NEXT》における試合は、立松もジョンも瓜子たちも一試合残らずチェックしていた。それで得られた結論は――「なかなかいい選手」というものであった。
少なくとも、魅々香選手や沖選手に劣る実力ではない。腐っても、レスリングの五輪強化選手なのである。打撃技のセンスも悪くはなかったし、立派にトップファイターの域であろう。しかし――魅々香選手や沖選手を大きく上回る何かを感じることは皆無であった。
「小笠原さんとの試合では、サウスポースタイルやカーフキックを見せてたな。ヴァーモス・ジムってのはストライキングが強いから、そっちでしっかり稽古を積んできたんだろう。ただ……たった一年間で、そうまで飛躍的に実力がのびるとは思えねえんだよなあ。あちらさんは一年前の時点で、ほとんどのびしろを使いきってるように見えちまうからよ」
立松は、そんな風に言っていた。
「しかしまあ、油断だけはしないでおこう。万が一、秋代選手が決勝戦に上がってきたら――」
「ふにゅう。ベル様が敗れる姿というのは、ユーリにもまったく想像がつかないのですが……」
「黙って聞け。サウスポーってのは桃園さんにとっても苦手な分野だし、カーフキックの恐ろしさも実感できてないだろう。桃園さんは打たれ強いが、足を殺されたら大ピンチだ。相手のカーフキックは、一発だってまともにくらっちゃなんねえぞ。まあ、そのために今も稽古を積んでもらってるわけだがな」
「MMAでは、カーフキックが特別視されてますよね。正直言って、自分はちょっと意外なぐらいでした」
「そりゃまあキックや空手なら、ちょいと前足を上げるだけで防げる蹴りだからな。組み技ありのMMAでは前足重心が基本だから、防ぎにくいってだけのこった。……小笠原さんだって、コンディションが万全ならあんなまともにくらったりはしなかったろう。だから桃園さんも、まずはアップライトのムエタイスタイルで迎え撃つ。うまくカットできりゃあ、足を壊すのは打った側だからな」
「はいはぁい。お稽古の成果をお見せいたしましょう。……でもでも、勝ち上がってくるのはベル様であると信じてやまないユーリちゃんなのですが……」
ユーリがもじもじしながら言うと、今度は立松も広い心で受け止めてくれた。
「なんべんも言ってる通り、俺だって九分九厘ベリーニャ選手が勝つと思ってるよ。だけどベリーニャ選手は、意外にファイトスタイルが一本槍だ。何かのはずみで一手崩されたら、案外もろい可能性もある。たとえ女子最強選手でも、絶対に負けないって保証はないんだよ」
「はあ……去りし日には、赤星弥生子殿にも惜敗を喫したというお話でしたものねぇ……」
「弥生子ちゃん? って、そいつは何年も昔の話だろ。俺はもうレムさんにひっついて卯月の面倒を見てた頃だから、その試合を見ちゃいないんだが――」
と、そこで立松は遠くの何かを見通すように目をすがめた。
「……そうそう、その日はたしか、《JUF》と《レッド・キング》の興行がかぶってたんだ。今にして思えば、ネズミ野郎は弥生子ちゃんに嫌がらせをするために、わざと興行の日取りをかぶせたのかもしれねえな」
「とことん見下げ果てたゲス野郎っすね。……でも、そんな昔のお話をよく覚えてましたね」
「ああ。弥生子ちゃんがジルベルト柔術の新鋭女子選手を迎え撃つのかって印象に残ってたし……それにその日は、《JUF》最後の興行だったんだよ。だから余計に、忘れられない日になったんだろうな」
「え? そうだったんすか? ……確かにまあ、年代的には一致しそうですけど。弥生子さんとベリーニャ選手がやりあったのは、七年ぐらい前だって聞きましたからね」
「ああ、懐かしいな。卯月のやつは、わけのわからんプロレスラーみたいなやつを相手取ることになったんだ」
それも、瓜子は記憶に留めていた。レスラーマスクとカラフルな全身タイツで正体を隠したルチャ・リブレの選手とやらが、《JUF》の末期には猛威をふるっていたのだ。アギラ・アスール・ジュニアのお株を奪うようなキャラ設定であるが、その選手はMMAの試合でもアクロバティックな空中殺法とやらを駆使して、歴戦のトップファイターをバッタバッタとなぎ倒していたのだった。
「たしか卯月選手も、その試合で負けちゃったんすよね。……あの、失礼を承知でうかがいますけど、あれって……」
「台本ありの八百長だったのかって質問なら、答えはノーだよ。そんなもん、レムさんや卯月が了承するもんかい。あんなひょろひょろの軽量級の選手がキリル選手やゴードン選手を打ち負かすなんて、俺も話題作りの八百長試合を疑ってたがね。あんなわけのわからん動きをする選手は他にいないから、初顔合わせでは誰も対応できなかったってことなんだろうさ」
「そうっすか。あの時代の《JUF》って、自分は好きになれなかったんすよね」
「俺だってそうさ。他の四天王やキリル選手なんかとしのぎを削ってる頃は、そりゃあ楽しかったけどな。最後の一年ちょっとぐらいは……卯月のやつも、悩んでたよ。自分は何のために赤星道場を捨てたんだろうってな」
しんみりとした調子でつぶやいてから、立松は慌てて我を取り戻した。
「ちょいと脱線しちまったな。そんな古い話を持ちだすまでもなく、ベリーニャ選手だって絶対ってわけじゃない。どんな最強の選手でも、最強のまんま引退することなんてそうそうできねえんだ。いつかは牙城を崩されちまうもんなんだよ」
「はあ……そうでしゅねぃ……」
「ただ俺は、桃園さんがベリーニャ選手の無敗記録を打ち破る未来を期待しているよ。そのために、秋代選手なんかには負けてほしくないところだよな」
「はいっ! ユーリも心よりそのように願っておりまする!」
そうしてようやくユーリが瞳を輝かせたところで、灰原選手が「おーい」と声を投げかけてきた。
「こっちは次のサーキットに突入するけど、うり坊たちは入んないのー? いい加減に、カラダが冷えちゃうんじゃない?」
「おっと、こいつはうっかりしてたな。インターバルは、ここまでだ。頼もしい姉さんがたに、もまれてこい」
「押忍。寝技のスパーなら、ユーリさんはもむ側っすけどね」
「にゅはは。でもでも最近、みなさまもめきめき寝技が上達しているようだねぇ」
現在はグラップリング・スパーのさなかであり、佐伯たちはキック部門の選手たちとキックのスパーを楽しんでいた。
瓜子とユーリは立松の見守る中、グラップリング・スパーに参加させていただく。瓜子たちの他に試合の決まった選手はいなかったが、その場にはこれまで以上の熱気と活力が満ちていた。
試合の本番まで、あと六日。
瓜子たちが結果を残せば、ワンダー・プラネットの徳久にたぶらかされた運営陣の目も覚めるだろうか?
あるいは――その前に、千駄ヶ谷が画策している作戦が火を噴くのだろうか?
何にせよ、瓜子たちのやることに変わりはない。
すべての対戦相手を打ち負かして、新たなベルトを奪取して――《アトミック・ガールズ》の力を示してみせるのだ。
たとえ千駄ヶ谷の暗躍でもって徳久が潰されるとしても、黒澤新代表やタクミ選手の讒言をくつがえすには、《アトミック・ガールズ》生え抜きの選手が勝利を収める他なかったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます