02 遅れてきた二人

 朝の散歩を終えた後は、本来の起床時間である七時半を迎えて、まずは砂浜をランニングである。

 そののちに朝食をいただいたならば、食休みを経て、また海水浴だ。


 灰原選手と鞠山選手の猛攻に耐えかねて、瓜子は再び『P☆B』の新作水着を着させられてしまう。

 このたびのビキニは、レイヤードビキニであった。ビキニの下により露出度の高いビキニを重ね履きすることでセクシーさを増大させるという、きわめて厄介なタイプである。

 なおかつ、上に重ねるビキニとて、昨日のタイサイドビキニにも劣らない露出度となる。結果、瓜子は昨日以上の羞恥心を抱え込むことになってしまった。


「だから、どうしてこんな水着ばっかりなんですか? ユーリさんは、自分にどういう恨みがあるんです?」


「だから、ユーリは白黒ツートンの中からもっともかわゆいデザインの水着をチョイスしただけだってばぁ」


 そうしてやいやい騒いでいると、昨日はあまり接触せずに済んだプレスマン道場の男性陣を招き寄せることになってしまった。

 立松などは、何やらしみじみとした面持ちで溜息をついていたものである。


「俺が口を出す筋合いじゃないってのは、百も承知してるが……俺が猪狩の親父さんだったら、まわりの男どもの目を潰して回りたくなるような心地だったろうなぁ」


「そ、そんな感慨を聞かされても、挨拶に困るっすよ!」


「いや、気にせんでくれ。プレスマンは、個人主義がモットーだからな」


「干渉してくれてかまわないっすよ! ていうか、灰原選手たちを止めてほしかったです!」


「なーにを騒いでやがるんだよ」と、サイトーが瓜子の頭を小突いてくる。そちらは両腕のタトゥーを隠蔽するために、長袖のラッシュガードだ。


「そんなにぎゃあぎゃあ騒ぐなら、Tシャツでも何でも好きに着りゃあいいだろうがよ? これ見よがしに、ぺかぺかの肌をさらしやがって」


「だから、灰原選手たちがそれも許してくれないんですってば!」


「知らねえよ。あのネエチャンがたを引き込んだのは、お前さんたちだろ。手前のケツは手前でふきやがれ」


 サイトーはキック部門の所属という肩書きを重んじて、外来の女子選手たちにはほぼノータッチであった。また、こういった自由時間においては、子供たちの面倒を見ることに楽しみを見出している様子である。


 そんなこんなで、本日も海水浴が敢行された。

 今回は小柴選手もこちらに加わり、またビーチボール遊びと遊泳にいそしむ。水着の露出具合さえ度外視すれば、瓜子にとっても楽しいひとときであった。


 そこにちょっとした波乱が巻き起こったのは、自由時間の折り返しぐらいに達した頃合いであった。

 見慣れぬ二名の大男が登場するや、浜遊びをしていたキッズクラスの子供たちが大歓声をほとばしらせたのである。


 どちらも黄褐色の肌をしており、肉厚の身体に原色のアロハシャツとハーフパンツを纏っている。

 そして驚くべきことに、両名はラメ素材のレスラーマスクをかぶっていたのだった。


「ハーイ。みんな、ゲンキだったかな?」


 その内の片方が、手近な子供を高々と抱きかかえた。

 これが不審者なら大変なことだが、保護者の面々もはしゃいでいるようなので、きっと旧知の間柄なのだろう。


「あー、やっと来た! もう、遅いですよー!」


 と、こちらからはマリア選手が大きな声をあげて、ぶんぶんと手を振った。

 それに気づいたもう片方の男性が、明らかに日本語ではない感嘆の声をほとばしらせて、こちらに突進してくる。


 マリア選手はビーチボールを放り捨てて、その人物に跳びついた。

 その人物はマリア選手のしなやかな肢体を抱きすくめて、くるくるとコマのように回転する。けっこうな巨体であるのに、ずいぶん軽妙な身のこなしだ。


 背丈は百八十センチ足らずであるようだが、体重は百キロ近くありそうに感じられる。それでレスラーマスクとアロハシャツとハーフパンツという風体であるのだから、客観的には不審人物そのものであった。


「あっ! あのマスク、マリア選手が入場のときにかぶってるのと同じデザインじゃないかしらん?」


 ユーリの言葉で、瓜子もその事実を確認した。青地に赤い鳥のデザインが為されたそれは、まぎれもなくマリア選手愛用のレスラーマスクであったのだ。


「ということは……マリア選手の熱狂的なファンなのかしらん?」


「いや、違いますよ。マリア選手のお父さんでしょう」


 マリア選手の入場パフォーマンスが覆面レスラーである父親のそれを模しているのだという話は、瓜子も小耳にはさんでいた。

 砂浜に降り立ったマリア選手は、輝くような笑顔でその人物を指し示す。


「こちら、マリアのパパで、アギラ・アスールでーす! 仲良くしてあげてくださーい!」


「どうも。マリアのパパです」


 マリアのパパは、覆面の下でにっこり微笑んだようだった。

 彼は生粋のメキシコ人であるはずだが、さすがに流暢な日本語だ。ただし、スペイン語の作法であるのか、「パパ」は尻上がりの発音であった。


「ど、どうも、初めまして。それじゃあ、あちらの御方は……」


「はい、マリアの兄ですー!」


 その存在も、瓜子は小耳にはさんでいた。歳の離れたマリアの兄は、十年ほど前まで史上初の覆面MMAファイターとして日本の試合に出場していたそうなのだ。

 子供たちの相手をしていたその人物が、軽い足取りでこちらに駆けつけてくる。兄のほうは父親より十センチ以上も背が高く、ボディビルダーのような逆三角形の体格をしていた。


「コンニチハ! マリア、トモダチですか?」


「友達じゃなくって、余所のジムの選手さんたちです! みなさん、こちらがマリアの兄で、アギラ・アスール・ジュニアでーす!」


 どうやらこの場では、素顔も本名も明かされないようだ。

 突如として登場した覆面レスラーたちに、瓜子以外のメンバーもきょとんとしてしまっている。父と兄にはさまれたマリア選手は、にこにこと笑いながら説明してくれた。


「今回はちょっとスケジュールが合わなくて、途中参加になっちゃったんですよー! ジュニアのほうは午後からのトレーニングにも参加しますので、どうぞよろしくお願いしまーす!」


「あんた、兄貴のことをジュニアって呼んでるの?」


 灰原選手がうろんげに尋ねると、マリア選手は元気いっぱいに「はい!」とうなずいた。


「ほら、覆面レスラーって正体を隠さないといけないでしょう? だからマリアたちも兄妹ってことを隠してたから、その呼び方が定着しちゃったんですー!」


「ふうん? 覆面レスラーの正体なんて、みんなバレバレだと思ってたけど」


「日本ではそうみたいですけど、メキシコでは違うんですよー! ただもうジュニアは北米に移住して、プロレスのほうも素顔で出てるから関係ないんですけど、今さら違う呼び方はしっくり来ないんですよねー! あ、それでもジュニアがこうやってマスクをかぶってるのは、合宿に参加してる子供たちを喜ばせるためなんですー!」


 いつも朗らかなマリア選手であるが、このたびは子供にかえったようにはしゃいでいる。兄は北米、父はメキシコに住まっており、これがひさびさの対面となるのだろう。


「ケイコ、ガンバります。ゴゴから、よろしくおネガいします」


 父親と同程度に流暢な日本語で語りつつ、アギラ・アスール・ジュニアはその場の面々を見回してきた。

 そして、覆面から覗くその茶色の瞳がユーリの肢体をとらえるなり、驚愕に見開かれる。


「アナタ……ウツクしいです」


「いえいえぇ。おほめにあずかり恐縮ですぅ」


「ワタシ、プロポーズ、よろしいですか?」


「いえいえぇ。つつしんでお断りいたしますぅ」


「こらっ!」と、マリア選手が平手で兄の分厚い胸板を引っぱたいた。


「駄目ですよー! 合宿稽古の間、ナンパは禁止です!」


「ナンパ、チガいます。ワタシ、シンケンです」


「真剣でも、駄目なものは駄目なんですー! 他のみんなも我慢してるんですから、ジュニアも我慢してください!」


 妹よりも頭ひとつぶん大きな兄は、岩のようにごつごつとした肩をしょんぼり落としてしまった。

 マリア選手は笑いながら、父と兄の太い腕を左右に抱きかかえる。


「それじゃあ、道場のみなさんに挨拶してきましょー! ユーリさんたちは、またのちほどー!」


 そうして奇妙なファミリーは、どこへともなく立ち去っていった。

 すっかり毒気を抜かれてしまった瓜子たちは、ここで休憩を入れることにする。

 ビーチパラソルに戻ってみると、そこではまたサキが六丸に触診を受けていた。


「よー、覆面どもにからまれてたなー。ラテン系は女グセがわりーから油断すんじゃねーぞ」


「偏見に満ちみちたコメントっすね。まあ、ユーリさんはさっそくプロポーズされてましたけど」


「へーえ。兄貴のほうか? 親父のほうか?」


「お父さんが子供たちの前で求婚するわけないじゃないっすか」


「へん。女房がいるのに余所でガキを作った野郎の倫理観なんざ、信用できるもんかよ」


 瓜子がきょとんとしていると、サキは面白くもなさそうに肩をすくめた。


「なんだ、知らなかったのか。あの親父はメキシコに女房子供を抱えながら、日本でガキをこしらえたんだよ。その不実の結晶が、あの赤星道場のやかましいメキシコ女ってわけだなー」


「うわー」とのけぞったのは、灰原選手であった。


「マジ、それ? そういう話は、あんま公にしないほうがいいんじゃない?」


「そんなもん、世間様でも周知の事実だよ。何せ、本人たちがあけっぴろげにしてやがるんだからな。そうじゃなきゃ、あんな風に堂々と一緒にいられねーだろ」


 そう言って、サキは長い前髪で目もとを隠した。


「ま、どれだけガキをこしらえようと、きちんと養育したんなら外野が騒ぐ話でもねーだろ。世の中には、ガキをモノみてーに捨てる人間だって少なくねーんだからな」


 サキは、捨て子であったのだ。

 しかしその事実を知らない灰原選手は、「へーえ」と呑気な声をあげていた。


「マリアっていっつもへらへらしてるから、もっと苦労知らずのお嬢さんかと思ってたよ! あたしだったら、腹違いの兄貴とあんなに仲良くできないだろうなー」


「でも、お兄さんのほうは以前にMMAの試合に出てたんすよね。稽古相手としては、仲良くさせていただきましょう」


 話が重い方向に行かないようにと、瓜子はそのように言ってみせた。

 サキは「ふん」と鼻を鳴らす。


「ついでに言うと、あいつはレスリングでオリンピックにも出てやがるからな。たっぷり塩漬けを楽しめや」


「オ、オリンピック? そんなやつが、覆面レスラーやってたの?」


「プロレスラーの前身がアマレスなんて、ド定番だろ。ま、アマレス、ルチャリブレ、MMA、アメリカンプロレス、なんて転身を果たしたやつは、他にそうそういねーだろうけどな」


 サキの言葉に、ユーリがきらきらと瞳を輝かせた。


「でもでも、オリンピックに出場なんてすごいねぇ。ぜひぜひグラップリングのスパーリングをお願いしたいところですわん」


「あんたねー、プロポーズを蹴った相手とくんずほぐれつするつもり?」


「ふにゅ? それはまあ、いつものことと言えばいつものことですので……」


「うわー、ムカつく! ちょっとでも同情したあたしが馬鹿だった!」


 ユーリはきょとんと目を丸くしてから、気恥ずかしそうに白い肢体をよじらせた。


「いいのですよぉ。殿方をひきつけてしまうのは、ユーリの持って生まれた業ですので、ご同情には及ばないですぅ」


「だから、喋れば喋るだけムカつくってんだよ! このピンク頭!」


 昨晩の件があったので、ユーリが無意識に異性をひきつけてしまうことに、灰原選手は同情していたのだろう。瓜子としても、灰原選手のそんな気遣いはありがたくてたまらなかった。


「でも、桃園さんはオリンピックの強化選手だった秋代選手と対戦する可能性があるんですもんね。実際にオリンピックに出場したお人と稽古を積めるのは、いい経験になるんじゃないですか?」


 根が生真面目な小柴選手が、そのように発言した。

 すると今度は、デッキチェアで眠っていたかに見えた鞠山選手が「ふん」と鼻を鳴らす。


「アギラ・アスール・ジュニアことグティ・アレハンドロ・バルカサール・バレラがオリンピックに出場したのは、もう十五年も前の話なんだわよ。そんなもん、なんの指針にもなりゃしないだわね」


「グ、グティ、なんだって? リングネームより長いじゃん! それ、本名なの?」


「スペイン語圏では、二つずつの名と姓が主流なんだわよ。……そういえば、あいつの数少ないMMA戦歴の中には、大怪獣ジュニアも含まれてたはずだわね?」


 鞠山選手がサングラス越しにねめつけると、サキの左足をまさぐっていた六丸が「はいはい」と気安く応じた。


「弥生子さんは、見事にKO勝利を収めていましたよ。グティさんのスープレックスは強烈ですけど、一度もつかまることはありませんでした」


「十年も前の話を、よくもそこまで記憶してるもんだわね」


「それはもう、弥生子さんの試合はすべて脳裏に焼きついていますから」


 すると、ビーチタオルを羽織った灰原選手が「ねえねえ」と六丸にすり寄った。


「あんたって、いっつもあいつにひっついてるよね! もしかしたら、そういう関係なの?」


「そういう関係と申しますと?」


「またまた、とぼけちゃってー! こんな風に合宿稽古までくっついてきてるのも、あいつが目当てなんでしょー?」


「あはは。そういう話をすると弥生子さんに叱られてしまうので、黙秘権を行使させていただきます」


 そうして最後はずいぶんのどかな話題で、休憩のひとときは締めくくられることになった。

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