ACT.5 合同合宿稽古 #3

01 朝のお散歩

 合同合宿稽古の、二日目――その朝である。

 瓜子が目覚めると、鼻先にユーリの赤ん坊みたいな寝顔が転がされていた。

 そして瓜子の全身が、ユーリの温もりに満たされている。隣の布団で眠っていたはずのユーリが、その恵まれたリーチとコンパスでもって瓜子の五体をからめ取ってしまっていたのだ。


(……なんか、こういうのもひさしぶりだな)


 かつて同じベッドで眠っていた頃は、毎朝このような有り様であった。

 しかし、サキがマンションを出てからは――そして、ユーリの瓜子に対する人肌アレルギーが再発してしまってからは寝室を分けたために、このような事態が生じる機会もなくなったのだった。


(大阪遠征のときだって、こんな風にはならなかったけど……やっぱり昨日はユーリさんにとって、しんどい一日だったってことなのかな)


 昼間は視力の一件でさんざんお説教をされ、夜には中学時代の事件を取り沙汰されることになった。ここ最近は心労の絶えなかったユーリであるが、やはり昨日ほど心を乱される日はなかったことだろう。


(まあ、視力に関しては完全に自業自得だけど……パラス=アテナや出版社の連中には落とし前をつけてもらわないと、どうにも腹が収まらないよな)


 寝起きの頭でそんな風に考えながら、瓜子はなんとか右腕をひっこぬいてみせた。その過程でユーリのやわらかい肢体をぞんぶんに蹂躙してしまったが、幸いなことに目覚める気配はない。

 瓜子はすぴすぴと寝息をたてるユーリのふくよかな唇を右手でふさいでから、「ユーリさん」と小声で呼びかけてみた。


 ユーリはますます赤ん坊めいた所作でむずかってから、やがてゆっくりとまぶたを開く。

 その瞳が瓜子の姿を認めるや、陶然とした輝きを宿し――それからすぐに、惑乱の光を宿す。意識がはっきりするにつれ、悪寒や嘔吐感がこみあげてきたのだろう。


「まだみんな寝てるみたいだから、騒がないでくださいね。手を外しますよ?」


 瓜子が口もとを解放してあげると、ユーリは名残惜しそうに瓜子の身体を怪力で抱きしめてから、猛然たる勢いで薄手の掛布団をはねのけた。

 瓜子も身を起こして寝室を眺め回すと、三名の同室者はやはりいずれも夢の中であった。


 ユーリは冷や汗をぬぐいつつ、ぶるっと身を震わせる。灰原選手の要望でエアコンがかけられているために、悪寒に拍車がかけられるのかもしれない。たとえ夏場であろうとも、ユーリも瓜子も就寝中にエアコンを作動させる風習はなかったのだ。


 時計を確認すると、午前の六時五十分である。

 起床は七時半と定められていたので、わずかばかり早起きしてしまったようだ。あまり二度寝をする気にもなれなかったので、瓜子はユーリとともに寝室を出ることにした。


 廊下に出るなり、もわんとした八月の熱気が五体を包み込んでくる。

 ユーリは人心地ついた様子でひと息つくと、あらためて瓜子に笑いかけてきた。


「おはよう、うり坊ちゃん。ユーリが人間アラームになる危険を回避していただき、恐悦至極なのであります」


「ええ。寝起きの悪そうな灰原選手にはちょうどよかったかもしれないっすけどね」


 静まりかえった旅館の廊下で、瓜子とユーリはひそかに笑い合うことになった。


「さて、どうしましょう。シャワーでも借りますか?」


「んー、だけど今日も、午前中は海水浴でしょ? エアコンのおかげで汗もかいてないし、それほどシャワー気分じゃないかもぉ」


「それじゃあ、朝の散歩としゃれこみますか」


 瓜子とユーリは足を忍ばせて、旅館の玄関を目指した。

 やはり昨日の猛特訓が効いているのか、誰かが起床している気配もない。ただ、厨房からは早くも芳しい香りが漂ってきていた。


 玄関を出ると、すでに世界は八月の太陽にうっすらと照らし出されている。

 海岸までは徒歩三分の距離であるため、空気には潮の香りが含まれている。それが瓜子の旅情をぞんぶんにかきたててくれた。


「せっかくだから、海岸にでも出てみますか」


「うんうん! うり坊ちゃんと朝の海岸をお散歩なんて、夢のようにロマンチックですわん」


 昨晩のトラブルを引きずっている様子もなく、ユーリは天使のような笑顔であった。

 それを喜ばしく思いながら、瓜子は海岸に向かって足を踏み出す。


「ところで、今日こそ海水浴はご勘弁願えないっすかね? 昨日はおつきあいしたんすから、もう十分でしょう?」


「えーっ! うり坊ちゃんがいないと、ユーリは寂しさのズンドコだにゃあ。……海水浴、楽しくなかった?」


 瓜子は一瞬言葉に詰まってから、言い直してみせた。


「はい。海水浴自体は、楽しかったっすよ。それじゃあ、訂正します。もうビキニだけは勘弁してください。どこかで普通の水着を調達してきますから」


「えー? わざわざ水着を買い直すなんて、清貧の暮らしを旨とするうり坊ちゃんの信念にそぐわないのじゃないかしらん?」


「羞恥心をこらえてまで、そんな信念に殉じるつもりはありません。昨日のビキニだって一回は着られたんですから、きっと成仏できるでしょう」


「あ、実はもう一着、うり坊ちゃんのために『P☆B』の新作を準備していたのだよねぇ。どっちもかわゆくて、ユーリには選びきれなかったのです!」


 海岸との間に走り抜ける車道を横断しつつ、瓜子はずっこけそうになってしまった。


「あのですね……もう海に行く予定もないのに、二着も水着を新調してたんすか? ユーリさんこそ、清貧の気持ちを学んでくださいよ」


「うふふふふ。ユーリは貪欲さを売りにしているので、それは難しいところですにゃあ」


「……その代金は自分がお支払いしますから、どこかに供養してやってください。自分は普通の水着を調達してきます」


 瓜子がそのように言いたてると、ユーリは不明瞭な面持ちで「うん……」とうなずいた。


「昨日はうり坊ちゃんにいーっぱいご迷惑をおかけしてしまったから、さしものユーリもワガママ精神を引っ込めたいところなのですけれども……」


「けれども、なんすか?」


「実はもう、そっちの水着も灰原選手に自慢しちゃってたのだよねぇ」


 清涼なる朝の大気の中、瓜子は頭を抱え込むことになってしまった。


「それに、たとえ二着目の水着が存在せずとも、灰原選手の魔手をかいくぐるのは困難なのではないかしらん? そもそも昨日もうり坊ちゃんを追い詰めておったのは、ユーリではなく灰原&鞠山コンビであったはずですぞよ」


「はい、もういいです。あとは自力でどうにかします」


 しかしきっとどうにもならないのだろうなあと、瓜子は深く溜息をつくことになった。

 そうこうする内に、海岸へと到着する。

 さすがにこの時間から海水浴を楽しんでいる人間はいないが、離れた場所ではサーフィンに興じている人々の姿がうかがえた。


 朝の陽光を反射させて、海面のすべてが光り輝いているかのようだ。

 瓜子はおもいきり潮風を吸い込んで、体内の鬱憤を吐き出すことにした。


「やっぱり気持ちいいっすね。こんな朝早くから海岸に出るなんて、人生で初めてかもしれません」


「ああ、ユーリもたぶんそうだにゃあ。……人生の初体験をうり坊ちゃんと共有できるなんて、幸せの極致じゃわい」


 口調は冗談めいているが、ユーリの顔には言葉通りの表情が浮かべられていた。

 そういえば、ユーリと二人きりになるのは昨日の朝以来のことだ。何とはなしに、瓜子も温かい気持ちを得ることができた。


 輝く海面を横目に、しばしユーリと砂浜を歩く。

 しばらく進むと、プレハブ小屋のような建物が見えてきた。おそらく、海の家であろう。


「あ、ちょっとお飲み物を買ってきてもいいかしらん?」


「え? 着替えてもないのに、お金を持ってるんすか?」


「にゅっふっふ。こんなこともあろうかと、小銭をわしづかみにしてきたのじゃよ」


 もちろん海の家は準備中であったが、その閉ざされた入り口の脇に自動販売機が設置されている。瓜子とユーリは海に背を向けて、そちらを目指すことにした。

 そうして自動販売機にまで辿りつき、パジャマ代わりであるショートパンツのポケットをまさぐろうとしたユーリが「うみゅ?」と小首を傾げる。


「うり坊ちゃん。なんか聞こえなかった?」


「いえ、波の音ぐらいしか聞こえませんけど」


「それじゃあ、ユーリの気のせいかしらん。この裏から聞こえてきたような気がするのだけれど」


 と、ユーリはひょこひょこと建物の横合いに回り込んだ。

 瓜子も首を傾げつつ、その後を追いかける。その道中で、瓜子も何かしらの気配を感ずることになった。


(なんだ、これ? 誰か喧嘩でもしてるのか?)


 瓜子とユーリは忍び足で、建物の裏側を覗き込んだ。

 そこで対峙していたのは――赤星弥生子と、六丸である。

 Tシャツにハーフパンツというラフな格好をした両名が、そこで奇妙な組手に取り組んでいたのだった。


 格闘技のスパーのようにファイティングポーズを取るわけでもなく、ただ無造作に手を出し合っている。その手をおたがいにすかしながら、なんとか相手をつかまえようとしているようだ。


 一番近いのは、柔道の組み手争いであろうか。

 だけどやっぱり、それとも似て異なる様相である。どちらかというと、中国拳法のようになめらかで、なおかつ無造作であるのに、動作そのものは息を呑むほど俊敏であった。


 二人の両手がふわふわと宙を行き交って、相手をつかまえようとする。

 相手の腕を弾き返すと、その腕はふわんと弧を描いて、また別の方向からのばされる。そういった動きがまったく途切れないため、まるで舞踏にでも興じているかのようだった。


 だが、上半身は空気も乱さぬほどのなめらかさを保ちながら、足のほうはおたがいにせわしなく立ち位置を変えている。その足が砂浜を蹴散らす気配が、さきほど瓜子のもとまで伝えられてきたのだ。


「もしかして……これはあの、古武術か何かのトレーニングなんじゃないっすか?」


 瓜子がそのように囁きかけると、ユーリは「にゃるほど」と首肯した。


「確かに大江山すみれ殿も、試合ではあんな風にふわふわ動いてたねぇ。おたがいがその技を体得すると、こういう組手になるのかしらん」


 そんな風につぶやいてから、ユーリはわずかに眉を下げた。


「だけどそれなら、覗き見は控えるべきだよねぇ。あれはモンガイフシュツだとかって、大江山すみれ殿が申されていたでせう?」


「そうっすね。でも……」


 瓜子は何だか、二人の動きから目を離せなかった。

 これが武術であるのなら、いったいどのような形で決着がつくのか――それを見届けたいという思いを抱かされてしまったのだ。


「でも、覗き見ってむやみに興奮しちゃうっすよね」


 瓜子は「わー!」と飛び上がることになった。

 瓜子と似たような口調で、瓜子とは異なる人物が声をあげてきたのだ。

 瓜子とユーリの背後には、赤星道場のメディカルトレーナーである是々柄がつくねんと立ち尽くしていた。


「驚かせちゃいました? だったら、お詫びの言葉を申し上げるっすよ」


 朝からぶかぶかのジャージを着込んだ是々柄は、巨大で分厚い黒縁眼鏡の位置を直しながら、そのように言いたてた。

 すると今度は、赤星弥生子の「誰だ?」という声が響きわたる。


「あたしっすよ。プレスマンのお二人もご一緒っすけど」


「なんだ、ぜーさんか。うん? 君たちは……」


 ざくざくと砂を鳴らして、赤星弥生子が近づいてくる。彼女は裸足で、そして全身が水をかぶったように汗で濡れていた。


「桃園さんに、猪狩さん……どうして君たちが、ぜーさんと一緒に?」


「あたしは朝のお散歩を楽しんでただけっすよ。そうしたらこのお二人の姿が見えたんで、声をおかけしただけっす」


 是々柄が説明している間に、六丸も近づいてきた。やはりそちらも、裸足で汗だくだ。


「おやおや。もしかしたら、組手を見られちゃいました?」


「す、すいません。覗き見する気はなかったんすけど……」


「ついつい目を奪われちゃったんすね。あたしにも理解できるっすよ。覗き見だと興奮も倍増っすよね」


「べ、別に興奮はしていないのですけれど!」


 ともあれ、覗き見をしていた事実に変わりはない。瓜子とユーリは精一杯の誠意を込めて、頭を下げることになった。


「いや、君たちにそうまで詫びられる筋合いはないのだが……しかし、困ったな」


 赤星弥生子は眉を曇らせつつ、六丸のほうを振り返った。

 六丸はぼさぼさの黒髪をかき回しながら、「あはは」と笑う。


「別にいいんじゃないですか? 口止めさえしてくれれば、僕は十分ですよ」


「呑気なやつだな。お前にとっては、それほど軽い問題ではあるまい?」


「でも、朝の稽古につきあってほしいって言ったのは弥生子さんじゃないですか」


 赤星弥生子は口をへの字にして、六丸ののほほんとした笑顔をねめつけた。

 それから、瓜子たちに向きなおってくる。


「何にせよ、このような場所で稽古に取り組んでいた我々のほうに責任はある。ただ、どうにか他言無用で願えないだろうか?」


「は、はい。もちろん、人には言いません。その武術は、門外不出ってお話でしたもんね」


 そんな風に答えつつ、瓜子は六丸に向きなおった。


「でも……六丸さんまでその武術を習ってたとは思いませんでした」


「あはは。もともとは、僕が弥生子さんたちに伝授した立場ですからね」


「おい、六丸――」


「いいじゃないですか。口止めするなら全部お話ししたほうが、義務感が補強されると思いますよ」


 そう言って、六丸はいっそう朗らかに笑った。


「これはもともと、僕の家に伝わる武術だったんです。ただ僕は跡目争いとかそういうのが嫌になっちゃって、家を飛び出した身なんですね。それでまあ何やかんやあって、弥生子さんやすみれちゃんにこいつを伝授することになったんですけど……いちおう門外不出の技なんで、家の連中に気づかれると面倒なんです」


「え……だけど弥生子さんや大江山さんは、試合でそれを披露してますよね? そうしたら、隠しようもないんじゃ……?」


「僕が伝授したのは型のひとつだけですし、家の連中は近代格闘技に無関心なんで、たぶん大丈夫です。それよりも、僕は弥生子さんのお役に立ちたかったんで」


 六丸は、あくまで屈託がない。

 その眼差しは、野生の鹿や兎のようにあどけなく見えた。


「僕が出会った頃、弥生子さんは《レッド・キング》の立て直しに無我夢中で、どうにも放っておけなかったんですね。大吾さんは引退して、卯月さんは他の団体に引き抜かれちゃって……赤星道場と《レッド・キング》の行く末を、まだ十六歳だった弥生子さんがひとりで背負い込むことになっちゃったんです。その重荷を少しでも軽くできればなあと思って――」


「もういいだろう。そんな昔話を聞かせても、迷惑なだけだ」


 驚くべきことに、赤星弥生子はわずかに頬を赤らめていた。

 そしてそれを誤魔化すためにか、つっけんどんな物言いになっている。


「とにかくそういうことで、六丸がこの技を余人に伝授していることは秘匿しなければならない。どうか他言無用でお願いできるだろうか?」


「しょ、承知しました。絶対、誰にも言いません」


「はぁい。ユーリもお約束いたしますぅ。六丸さんには、御恩のある身ですのでぇ」


「御恩?」と、六丸は目を丸くした。


「それって、あなたの目のことですか? 僕が暴露しちゃったせいで、あなたはみなさんからお叱りを受けたみたいですけど」


「でもでも、いつかは話さないといけないことでしたので……優柔不断で意志薄弱なユーリに秘密を打ち明けるきっかけを与えてくださったから、六丸さんには感謝しているのですよぉ」


 ユーリがにっこり微笑むと、六丸も「あはは」と無邪気に笑った。


「あなたは、面白い人ですね。えーと、桃園さんでしたっけ」


「いえいえ、六丸さんにはかなわないと思いますぅ」


 あまり面識がない異性であるのに、ユーリのほうもずいぶん無邪気に振る舞っているように思えた。やはりそれは、六丸が子供のように無邪気で、あまり性別を感じさせないためなのだろうか。


(ていうか……こんなに若いのに、なんか仙人みたいなお人だよな)


 そうして瓜子とユーリはささやかな秘密を胸に抱きながら、早朝の散歩を終えることになったのだった。

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