04 グラップル・マスターとプリティモンスター
『第三試合を開始いたします! ……青コーナーより、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の入場です!』
沙羅選手と魅々香選手の試合で熱くなった試合会場に、これまで以上の歓声が響き渡る。
そんな中、ユーリが花道に現れた。
本日のユーリはメタリックなピンクとシルバーのガウンを羽織っていたので、普段以上にきらびやかな姿となっている。スポットの光が乱反射して、見ているこちらの目が痛くなるほどだ。
二ヶ月前の復帰戦よりも、観客席の熱狂度は高まっているように感じられる。「ユーリ!」のコールはもはや怒号じみており、控え室の壁をびりびり震わせるほどであった。
そんな中、ユーリは幸福そうに笑いながら、くるくるとターンを切っている。
毎日ほとんど二十四時間べったり一緒に過ごしているというのに、瓜子はいまだにユーリの輝きに見慣れることができない。あるいはそれは、ユーリが齢を重ねるごとに魅力を増していっているという証なのかもしれなかった。
『リ☆ボーン』のインストゥルメンタルバージョンが鳴り響く中、ユーリはジョンの固定したトップロープを跳び越えて、リングインする。
メタリックなカラーのガウンがふわりとたなびいて、まるで光り輝く天使か何かがリングに舞い降りたかのような様相であった。
『赤コーナーより、沖一美選手の入場です!』
沖選手への敬意からか、ユーリの名を呼ぶコーリはいったん消失する。
ちょっと陰鬱なヘヴィメタル調の入場曲とともに、沖選手が花道に現れた。
こちらは試合衣装の上からジム名のプリントが入ったTシャツを纏っただけの、質実きわまりない姿だ。
天覇館には武道家めいた雰囲気の選手が多かったが、彼女の場合は虚飾を廃したストイックなアスリートと称するべきであろうか。彼女のそういった特性は、試合内容にも大きく反映されているのだった。
『本日の第三試合、ミドル級王座挑戦者決定トーナメント、第一回戦第二試合、五十六キロ以下契約、五分二ラウンドを開始いたします!』
リングアナウンサーが、朗々たる声音で宣言する。
『青コーナー。百六十七センチ。五十五・八キログラム。フリー。無差別級王座決定トーナメント準優勝……ユーリ・ピーチ=ストーム!』
ユーリが、ガウンを脱ぎ捨てた。
その下から現れたのも、やはりメタリックなピンクとシルバーの試合衣装である。ハーフトップもショートスパッツもスポットの光にきらめいて、もともと華やかなユーリをいっそう鮮烈に彩っていた。
『赤コーナー。百六十二センチ。五十六キログラム。フィスト・ジム小金井所属。《フィスト》フライ級王者……沖、一美!』
とっくにTシャツを脱いでいた沖選手は、腕を上げるでもなく、ただ一礼していた。
ユーリより五センチほど背は低く、そのぶん体格はがっしりとしている。彼女もまた、五キロぐらいはリカバリーしているのだろう。魅々香選手ほど特徴的な体形はしておらず、ただ、腕も足も首も胴体も逞しい。頭は黒髪のショートヘアで、顔立ちにもこれといった個性は感じられなかった。試合衣装もまた、ごく一般的な競技用タンクトップとハーフスパッツだ。
彼女こそ、格闘技業界では「ジミツヨ」などと評されていた。
地味で強い。そのひと言に尽きる選手なのである。
得意とするのは柔術をルーツにする寝技で、『グラップル・マスター』という異名も拝命している。
ただし、ミドル級においては日本人ナンバーワン選手と呼ばれているのだから、立ち技も組み技も決して不出来なわけではない。さすがにKOパワーまでは備えていないが、スタンド状態でもおおよそは互角以上の勝負ができるために、最後には得意のグラウンド状態に引きずりこんで、勝利を手にすることができるのだ。
勝率は、おそらくミドル級の日本人選手でナンバーワンであろう。
というか、彼女はそれゆえにナンバーワン選手と評されているのだ。
ただし、一本勝ちよりも判定勝ちのほうが圧倒的に多い。「ジミツヨ」などと言われているゆえんである。グラウンド状態におけるポジションキープのスキルが高く、「得意技は塩漬け」などと揶揄されるほどであった。
(この沖選手の堅実さを打ち砕くことができるなら、魅々香選手が同じような戦法できても太刀打ちできるはずだよな)
控え室でモニターを注視しながら、瓜子はそのように考えていた。
しかしまた、この試合で勝たなければ魅々香選手と対戦する機会も得られないのだ。まずは、この難敵を倒すことに集中するべきであるはずだった。
レフェリーから定例のルール説明を受けて、尋常にグローブタッチを交わしたのち、両者はそれぞれのコーナーに引き下がる。
そして、試合開始のゴングが鳴らされた。
ユーリはアップライトのスタイルで、沖選手はスタンダードなクラウチングのスタイルだ。
沖選手は、過去の試合映像よりも細かくステップを刻んでいるように感じられる。おそらくは、直近のマリア選手との試合を嫌というほど研究してきたのだろう。天敵たるマリア選手との対戦は、ユーリの抱えるさまざまなウイークポイントを表出させてしまっているはずであった。
(とにかく、ユーリさんはムラがあるからな……レーダーチャートでも作ったら、無茶苦茶な形になるんじゃなかろうか)
そういう意味では、実に対極的な両名の闘いであると言えるだろう。
MMAの模範のように堅実な沖選手と、長所と短所が複雑に入り組んだユーリ。どちらの土俵で勝負が進められるかという、それがキーポイントになるはずだった。
沖選手は、遠い距離からジャブを振っている。
ユーリはゆらゆらと右拳を揺らしつつ、カウンターを狙っている。
と――ユーリが大きく踏み込んで、いきなり右のミドルを繰り出した。
間合いが遠かったため、沖選手はバックステップでそれを回避する。
するとユーリは、さらに前進していった。
きっと、セコンドの指示だろう。迷いのない、スムーズな足運びであった。
沖選手はアウトサイドに回り込み、ユーリの接近を回避する。
そして、浅い左ジャブをユーリの右腕にヒットさせた。
やはりスピードは、沖選手のほうがまさっているようだ。残念ながら同階級において、ユーリは屈指の鈍重さを誇ってしまっているのだった。
ただそれは、そこまで動きがスローモーなわけではない。距離を計測する感覚の鈍さと判断力の遅さから生じる鈍重さであるのだ。
よって、こうと決めたときのアクションについては、決してミドル級においてもそこまで劣るわけではない。
それを証明するように、ユーリがワンツーと左ミドルのコンビネーションを繰り出した。
美しいフォームから繰り出されるその攻撃を、沖選手は大きくバックステップして回避する。
ユーリはさらにワンツーを出してから、片足タックルまで繋げた。
フェイントではなく、本当に足を取りにいっている。それもまた、沖選手は大股のバックステップで回避した。
ずいぶん距離があったのだから、沖選手であれば上から潰して、有利なポジションを確保できたことだろう。しかし、彼女はそうしなかった。結果、ユーリは悠然と身を起こして、さらに沖選手へと詰め寄っていく。
「ふん。ずいぶん弱腰じゃねえか。一発たりとも打撃はもらいたくねえって逃げっぷりだな」
壁にもたれたサイトーが、不敵な声音でそう言った。
「ま、あのネエチャンの化け物じみた破壊力は、この一年ちょいで知れ渡っただろうからな。ロシアの大女をダウンさせたローキックや、何人も病院送りにした膝蹴りなんざ、誰だってもらいたかねえだろ」
ではこれも、沖選手の堅実さが生み出した展開なのだろうか。
それがどちらの有利となり不利となるのか、瓜子には判然としなかった。
その間にも、ユーリは多彩なコンビネーションを繰り出している。
しかし、沖選手が大きく距離を取るために、その攻撃は一発も当たらない。そして、沖選手もまったく手が出せなくなってしまっていた。
そんな時間が二分も続くと、ついに客席からブーイングが巻き起こる。
さきほどの試合の影響もあって、観客たちは我慢を切らしているのかもしれなかった。
魅々香選手はそんな心ないブーイングに心を揺らすことなく、自分のやるべきことを全うした。沖選手とて、それは同じことだろう。
瓜子の流儀には合致しなかったが、やはり勝つことこそが肝要であるのだ。また、瓜子にしてみても、イリア選手との試合ではなかなか手を出せず、ブーイングを浴びる結果になっていた。
(ユーリさんだってブーイングなんて気にする性格じゃないだろうし、そもそもこれは沖選手に対するブーイングだろうからな)
なおかつ、攻め続けているのはユーリであるのだ。このまま判定にもつれこんだって、勝利するのはユーリであるはずだった。
沖選手もさすがにまずいと思ったのか、再びジャブを振り始める。
それを無視して、ユーリが新たなコンビネーションを繰り出すと――最後に出された左ミドルの足を引く挙動に合わせて、沖選手が胴タックルを仕掛けてきた。
さらに軸足を引っかけられて、ユーリはテイクダウンを許してしまう。
とっさに相手の左足を両足でからめ取ったので、なんとかハーフガードのポジションだ。
そしてユーリはすぐさま腰を切って、空いた隙間から相手の胴体をはさみ込んだ。
いきなりガードポジションに戻されてしまった沖選手は、獲物を逃がさんとばかりに上体へとのしかかろうとする。
その腰を両手で押しながら、ユーリは水揚げされたエビのように躍動し続けた。
沖選手は懸命にそれを追いかけて、パウンドを振るうひまもない。上や左右に逃げようと跳ね回るユーリを抑えつけるべく、全精力を注いでいる様子だ。
その過程で、ユーリが相手の股座に足先を差し込んだ。
フックガードの体勢である。
沖選手の腰が浮きかけたが、すぐさま『グラップル・マスター』としての本領を発揮して、重心を安定させる。
するとユーリは右足だけマットに下ろして、再び腰を切り始めた。
「もっとくるくる動こうよぅ」と、駄々をこねているかのようである。
しかしそれは、沖選手のスタイルではない。まずはポジションキープに徹して、相手の動きが止まったらパウンドを振るい、最後に万全の状態でサブミッションを狙うのが、沖選手の勝ちパターンであった。
だが、ユーリの動きは止まらない。
まったく反撃はできていないのだが、とにかく動き続けているのだ。
ユーリにあそこまで動かれたら、瓜子などは三十秒ももたずにひっくり返されているはずであった。
(マリア選手だって、ここまでポジションキープはできなかったからな。さすがはミドル級で随一のグラップラーってことか)
そして、会場からは再びブーイングの声が巻き起こっていた。
時計はすでに、四分を過ぎている。もう二分近くも同じ状態が続いているのだ。
だが、ユーリがやたらと動き回っているせいか、レフェリーもなかなかブレイクを命じることができないようだった。
そうしてけっきょく、同じ状態のままタイムアップである。
客席には、失望の声とブーイングの声が交錯していた。
「ふん。一ラウンド決着のジンクスも、すっかり見る影はねえようだな」
サイトーは、そんな風につぶやいている。そういえば、ユーリは来栖選手と対戦するまで、ずっと一ラウンド目で勝負を決めていたのだった。
しかし、ラウンド数などは関係ない。このラウンドはずっと上を取られてしまったので、ポイントは相手についてしまっただろう。この状況を打破しない限り、ユーリは勝利をつかめないのだ。
「なかなかしんどい試合になっちまったな。……まあ、そいつは敵さんも同じことか」
立松の言葉通り、赤コーナーで休む沖選手はずいぶん息が荒くなっていた。背中を丸めて両膝に腕を置き、肩を激しく上下させている。あれだけ暴れ回るユーリを必死に抑え込んでいたために、相応のスタミナが削られたのだろう。
いっぽうユーリは、元気いっぱいにセコンド陣と言葉を交わしている。その表情は柔和そのもので、いまにも微笑でもこぼしそうなほどだった。
(自分がユーリさんの対戦相手だったら……さぞかし、げんなりするだろうなあ)
そんな風に考えると、瓜子のほうが笑みをこぼしてしまった。
「お、余裕だな」と、サイトーに頭を小突かれる。
「ま、ジョンやサキがこのまま終わりにはさせねえだろ。お手並み拝見といこうかい」
そうして、第二ラウンドが開始された。
ゴングが鳴るなり、ユーリ速やかに前進してワンツーを放つ。
そして――沖選手がジャブを返す間も与えず、相手の上体に組みついた。
沖選手の腰が引けていると見て、セコンド陣がそのように指示を出したのだろう。両腕を相手の脇に差し込んだ、双差しの体勢である。
ユーリはそのまま上体をのけぞらせて、マリア選手ばりのスープレックスを繰り出そうとした。
が――沖選手に右足を引っかけられて、べしゃんと背中から倒れてしまう。
「おめーが下になってどうんすんだ!」というサキの怒声が聞こえてきそうな、見事なまでの自爆である。
ユーリはなんとかハーフガードのポジションを死守していたが、客席からは早くもブーイングが生まれてしまっている。これはもう、両者に注がれるブーイングであろう。
観客たちが危惧した通り、さきほどのラウンドと同じ光景が繰り返されることになった。
ユーリはひたすら暴れ続けて、沖選手はひたすらポジションキープに徹する。補強練習さながらの地味な攻防である。
「しかしこれは、言うほど馬鹿にしたもんでもないぞ。桃園さんはやみくもに暴れてるんじゃなく、その場でその場で最善の動きを繰り出してるんだからな。これだけ的確に動ける桃園さんも、そいつを的確に跳ね返すことのできる相手選手も、大したもんだよ」
「はあ……これがグラップリングの試合だったら、名勝負ってことになるんでしょうかね」
「ん、まあな。だけど、お客に凄さが伝わらないって意味じゃあ一緒かもな」
などと言いながら、立松はずいぶんと瞳を輝かせていた。
「だけど本当に、大したもんだよ。ブランクが明けてから、桃園さんはますます寝技の腕が上がったみたいだな。……たぶん、卯月とのスパーも栄養になってるんだろう」
ならばきっと、合宿稽古の成果も出ているのだろう。
しかし、ユーリがずっと下になっているという事実に変わりはない。このままラウンドが終わったら、確実に判定負けを喫してしまうのだ。
時計は、すでに二分半経過を示している。
同じ状態のまま、半分の時間が過ぎてしまったのだ。
ブーイングの声はいよいよ熱を帯びていき、レフェリーも迷うように両者の攻防を見守っている。いっそユーリが動きを止めれば、その場でブレイクがかけられそうな雰囲気であるのだが、ユーリは一秒として休むことなく、ひたすら暴れ続けていたのだった。
と――ガードポジションを取っていたユーリの両足が、ふわりと上方に持ち上げられる。
その足が、沖選手の右腕ごと頭にからみついて、三角絞めを狙おうとしていた。
沖選手はさすがの反応速度で、ユーリの両足から右腕と頭を引き抜いてみせる。
そしてそのまま、沖選手は力なく後ずさってしまった。ついに、グラウンド状態でユーリを制圧し続けることを諦めたのだ。
ユーリは「あれ?」という表情で、しかたなさそうに立ち上がる。
とたんに、歓声が爆発した。第二ラウンドが三分経過して、ようやくスタンド状態に戻ったのである。
沖選手は、バケツの水をかぶったかのように汗だくであった。
ファイティングポーズを取りながら、大きく口を開けて荒い息をついている。ユーリを三分間抑え込むために、全精力を使い果たしてしまったかのような状態だ。
(チャンスですよ、ユーリさん!)
もしも瓜子がセコンドであったなら、肉声で叫んでいたところであろう。
しかしユーリは慌てず騒がず、アップライトではなくクラウチングのスタイルで沖選手に近づいていった。
汗だくなのはユーリも一緒だが、そのステップによどみはない。
いっぽう沖選手は、立っているだけでやっとの状態だ。
そんな沖選手に、ユーリは容赦なく左ローを繰り出した。
重さではなくスピードを重視したインローであるのに、沖選手はその一発でぐらついてしまう。
さらにユーリが接近しようとすると、沖選手は身体を背けて逃げようとした。
するとユーリは、身体を屈めてそれに追いすがる。
ユーリの腕が沖選手の腰に回されて、そのまま強引にマットへと引きずり倒した。
ユーリが体重をあびせかけると、沖選手は頭を抱えて背中を向けてしまう。
それと同時に、立松が「駄目だなこりゃ」とつぶやいた。
ユーリは両足で相手の胴体をクラッチして、相手の咽喉もとに右腕を差し入れる。
沖選手の身体はあっけなくのばされて、ユーリはチョークスリーパーの形を完成させた。
二秒とこらえることもなく、沖選手はマットをタップした。
ゴングが乱打され、歓声が爆発する。
『二ラウンド、三分三十一秒、チョークスリーパーによるタップアウトで、ユーリ選手の勝利です!』
あまりに、呆気ない幕切れであった。
レフェリーに右腕を掲げられたユーリも、ちょっときょとんとしてしまっている。
そんな中、サイトーが「へへっ」と笑い声をこぼした。
「なあ、猪狩。このネエチャンは去年の春以降、ずっと一ラウンドで相手を仕留めてきたあげく、その全員を病院送りに追い込んだって話だったよなあ?」
「あ、はい。そうっすね」
「それはそれで、化け物じみた記録なんだろうけどよ。なんだかオレは、今の試合っぷりのほうがよっぽど地力を感じさせられたな」
確かに、そうなのかもしれない。
誰よりも堅実な沖選手が、ずっと攻勢であったにも拘わらず、ガス欠で粘り負けしてしまったのだ。王者のジジ選手や魅々香選手やマリア選手でも、このような形で沖選手の心をへし折ることはできないように思えてならなかった。
ともあれ――ユーリは、勝てたのだ。
決勝戦では、魅々香選手と雌雄を決することになる。ピンク色の頭をしたプリティモンスターは、ついに王座挑戦にリーチをかけてみせたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます