03 豪腕のオールラウンダーとシュートレスラー

 それからプレマッチの二試合目と本選の一試合目を終えたのち、ついにミドル級王座挑戦者決定戦の第一回戦である。

 ユーリはすでに入場口で待機しており、モニター上では沙羅選手の名がコールされている。瓜子は立松とサイトーに左右をはさまれながら、その様子を見守っていた。


「実際のところ、タコ坊主とプロレス女だったら、どっちが上をいってるんだろうな。ここ最近の勢いで言えば、やっぱプロレス女なんだろうけどよ」


 サイトーが、ほどほどの興味を覗かせながら、そのように言っていた。道場のサブトレーナーとしてセコンド役を受け持ってくれるものの、サイトーはあくまでキックの選手であるのだ。


「そうっすね。実績だけで言えば、魅々香選手のほうが上をいってるんでしょうけど……魅々香選手は、十ヶ月ぶりの実戦っすからね」


 魅々香選手は去年の七月、ユーリの膝蹴りによって眼窩低骨折という重傷を負い、これが復帰戦であったのだ。ミドル級でナンバーツーの実力者であっても、それだけのブランクは厳しいはずだった。


 ただし彼女は、沖選手と同世代のベテラン選手でもある。デビュー当時から輝かしい戦績を誇っていた沖選手とは異なり、最初の三年ほどは勝ったり負けたりを繰り返しつつ、着実に実力をのばして、ついに現在のポジションにまでのぼりつめたのだ。それはある意味、彼女が生中ならぬ不屈の闘志を持っているという証左であるはずだった。


(で、ユーリさんは、沙羅選手にも魅々香選手にも勝ってるわけなんだけど……どうもいまいち、参考にならないんだよな)


 沙羅選手との試合において、ユーリは試合中に左膝を負傷して、事前の対応策をすべてかなぐり捨てつつ、執念で勝利をもぎ取ることになった。

 いっぽう魅々香選手との試合においては、さんざん相手に攻め込まれつつ、カウンターの膝蹴り一発で逆転勝ちを果たしていた。


 なおかつ、その頃のユーリはまだまだ発展途上であったため、どちらもポテンシャルのすべてを発揮できていたわけではない。また、沙羅選手も魅々香選手もその後のトレーニングで、さらなる力をつけているはずだった。


(とにかく、ユーリさんの分までしっかり見届けておこう)


 モニター上では魅々香選手も入場して、沙羅選手と向かい合っていた。

 沙羅選手は、とてもしなやかで引き締まった体格をした、女子格闘技界のホープである。髪の右半分を金色に染めており、健康的な小麦色の肌をした、見目の整ったアイドルレスラーだ。しかしまた、ユーリとは異なり硬派なイメージを貫いているので、眼光も鋭く気迫がみなぎっている。


 いっぽう魅々香選手は女子選手でありながらスキンヘッドで、おまけに眉毛までないものだから、一種独特の風貌をしている。ぎょろりと大きい落ちくぼんだ目と、軟骨が潰れて歪んだ鼻筋、げっそりとこけた頬に、大きな口――まったく表情を動かさないためか、どこか爬虫類めいていた。

 そして、上半身がきわめて発達している。肩幅が広い上に腕が長くて、広背筋などは男子選手のように発達しているのだ。沙羅選手がナチュラルウェイトで上限の五十六キロに収まっているのに対して、彼女は五キロ以上もリカバリーしているのではないかと思われた。


(パワーの魅々香選手に、スピードの沙羅選手……ってほど単純な構図じゃないんだろうけど。とにかく、見届けよう)


 両者が、それぞれのコーナーに戻っていく。MMAの知識がない後輩選手をたったひとりのセコンドにしている沙羅選手に対して、魅々香選手のほうは来栖選手を筆頭とする三名のセコンドがついていた。来栖選手を除く二名はどちらも男性であり、その片方はいかにも貫禄のある壮年の人物であった。


 ゴングが鳴らされて、試合が開始される。

 沙羅選手はサウスポーだがごく一般的なMMAの立ち姿であり、魅々香選手はそれよりも大きく脇を開いて、深く腰を落としている。一見レスリング風のスタイルであったが、そこから繰り出される左右のフックは要注意であった。


 大歓声の中、まずは尋常に試合が進められていく。

 ジャブで距離を測りつつ、ときおりローで相手を牽制する。どちらも外連味のない試合運びであった。


(二人そろって、名うてのオールラウンダーだからな。まずはどっちが、リズムをつかむか……)


 瓜子がそのように考えたとき、魅々香選手がぶうんと右フックを繰り出した。

 沙羅選手はバックステップでかわしたが、魅々香選手も前進している。その両腕が、沙羅選手の足にのばされていた。

 右フックをフェイントにした、両足タックルだ。MMAでは定番の連携技であったが、これは絶妙のタイミングで、さすがの沙羅選手もテイクダウンを取られることになった。


(このへんは、やっぱりキャリアの差かな)


 沙羅選手も組み技が得意であるため、ユーリなどは決して序盤から組み合うなと教え込まれていた。そんな沙羅選手からあっさりテイクダウンを奪えるというのは、さすがの実力である。


 体勢は、沙羅選手の両足が魅々香選手の右足をはさみこんだ、ハーフガードのポジションになっている。魅々香選手は沙羅選手の上体にのしかかりつつ、まずはポジションキープを優先しようというかまえであった。


 沙羅選手は腰を切って、なんとか脱出のタイミングを計っているようだが、魅々香選手の動きが少ないために隙も生まれない。打撃技は豪快であるが、寝技においては堅実な魅々香選手であるのだ。

 沙羅選手の動きを封じつつ、ときおり細かいパウンドを打っていく。ユーリもさんざん悩まされた、魅々香選手の塩漬けだ。観客席から多少のブーイングが届けられたが、魅々香選手は意に介した様子もなく、ひたすら相手を制圧し続けた。


 しばらくして、レフェリーからブレイクを命じられる。

 あまりに動きがなかったため、膠着状態と見なされたのだ。


 スタンド状態に戻るなり、沙羅選手は猛攻を仕掛けていく。

 トーナメントの一回戦目は出場選手の負担を鑑みて、五分二ラウンドなのである。時間切れで判定もドローとなった場合はもう一ラウンドが追加されるが、何にせよラウンドごとの優勢ポイントがいっそう大事になってくる。ここで一気に巻き返そうという気迫のこもったラッシュであった。


 が、魅々香選手は足を使ってその猛攻をやりすごす。スピードは沙羅選手のほうがまさっているはずなのに、さして苦にしていない様子だ。沙羅選手の攻撃は、すべて的確にかわされるかガードされてしまっていた。


(魅々香選手は、こうまで足を使う選手じゃなかったはずだ。沙羅選手対策で、ステップワークを磨いてきたんだろうか)


 そうして沙羅選手の攻撃が大振りになってくると、その隙間をぬって魅々香選手の左ジャブが繰り出される。沙羅選手の攻撃が当たらない距離からでも、その左拳は沙羅選手の顔面に届いた。腕が長くて肩幅が広い分、魅々香選手のほうがリーチでまさっているのだ。


 沙羅選手がさらに距離を詰めようとすると、すかさず自分も大きく踏み込んで、相手の身体に組みついてしまう。

 それで倒されることはなくとも、パワーは魅々香選手のほうが上だ。四ツに組まれてロープまで押し込まれると、沙羅選手はそれを振りほどくこともできず、魅々香選手もまた、無理に展開を動かそうとはしなかった。

 そうして膠着状態となったならば、再びレフェリーによってブレイクが命じられる。沙羅選手は明らかにストレスを抱いており、ブーイングの声はいよいよ高まっていった。


 予想外に、地味な展開である。

 魅々香選手が、そのように仕向けているのだ。

 彼女は『豪腕のオールラウンダー』と称されているのに、いまだに得意の右フックをフェイントでしか使っていない。ステップワークで距離を取り、距離が詰まれば組みついて押し込むだけという、堅実に過ぎる闘いっぷりであった。


 その組みつきが三度目に及んだとき、沙羅選手はロープに押し込まれたところで、両腕を無防備に広げてみせた。

 観客たちも、それに煽られた様子でブーイングを巻き起こす。そのさまを見て、立松は「駄目だな」と言い捨てた。


「膠着状態で負けてる側が煽ったって、そんなもんは負け犬の遠吠えだ。その状況が我慢ならないなら、技術で打ち破ってみろって話だよ」


「はあ……沙羅選手は、負けてるんすかね?」


 立松に、呆れられた目で見られてしまった。

 瓜子は慌てて、前言撤回してみせる。


「はい、そうっすよね。最初にテイクダウンを取られてるし、単発のジャブでも魅々香選手のほうがヒットは多いんすから、ポイント上は沙羅選手が負けてます」


「ポイント上はって、試合はポイントがすべてだろうがよ? KOや一本で勝負を決めない限り、ポイントで勝敗は決められるんだ。試合に負けて勝負に勝ったなんて、そんな御託は通用しねえんだよ」


「押忍。肝に命じます」


 瓜子とて、いつかはこういう堅実な相手とぶつかるかもしれないのだ。自分が沙羅選手の立場に立たされたとき、どのようにしてこの状況を打破するべきか、それを思案するべきであった。


(もしも魅々香選手が勝ち上がってきたら、ユーリさんもそれを思案しなきゃいけなくなるわけだしな)


 そうして一ラウンド目は、大きな変転を迎えることなく終了してしまった。

 沙羅選手は客席に向かって大きく肩をすくめながら、魅々香選手は完全なる無表情で、それぞれのコーナーに戻っていく。

 コーナーに戻った後も、沙羅選手はセコンドの後輩から荒っぽくドリンクボトルを奪い取っており、ストレスのほどをあらわにしていた。

 魅々香選手は泰然と椅子に座り、セコンドたちの声を聞いている。チーフセコンドは壮年の男性であったが、エプロンサイドからひたすら魅々香選手に耳打ちしているのは、来栖選手であった。


「しかしな、プロレス女もオールラウンダーとか呼ばれてんだろ? それをこうまで完全に封じ込めるってのは、かなりの実力ってことになるんじゃないのかね」


 サイトーは、そのように言っていた。

 瓜子も、それは同感である。瓜子は魅々香選手の堅実さを物足りなく思っていたのではなく、むしろ驚異的だと感じていたのだった。


(少なくとも、あたしやユーリさんにこんな真似はできないもんな。ベテラン選手の底力を見せつけられた気分だ)


 二ラウンド目も、序盤はさして代わり映えがしなかった。

 沙羅選手が積極的に打撃技を仕掛けて、魅々香選手がそれを受け流しつつ、ジャブを軽く当てていく。距離が詰まれば組みついて押し込むという動作にも変化はない。


 ただ一点、魅々香選手がタックルのフェイントを多発していた。

 さきほどの塩漬けが悪い記憶として残されているのか、沙羅選手は過敏に反応してしまっている。魅々香選手が足もとに手をのばすたびに、大きくバックステップするか、カウンターの膝蹴りを狙う格好で、膝蹴りの際にはカウンターでジャブを当てられてしまっていた。


 それでも試合全体の印象に、大きく変わるところはない。ブーイングの声も、高まるいっぽうだ。この組み合わせならば豪快なKOか、あるいはグラウンド状態でのタップアウトが見られるものと期待していたのだろう。それは、瓜子も同様の気持ちであった。


「ただ、今回はテイクダウンも取られてないし、沙羅選手の手数も増えてる。おおかたブロックされちまってるが、相手もジャブしか当ててねえんだ。だったら沙羅選手が前に出てるぶん、攻勢ポイントをつけるジャッジもいるかもしれねえな」


 立松の言う通り、魅々香選手は消極的に過ぎる。これで魅々香選手が判定勝ちを収めたならば、これまで以上のブーイングが吹き荒れることだろう。


「何かひとつでも見せ場を作れれば、沙羅選手がポイントを取れるだろう。ここからが正念場だな」


 そんな立松の言葉が聞こえたかのように、残り半分の二分半で、沙羅選手の攻撃がさらに激しさを増していった。

 相手のタックルや組みつきは十分に警戒しつつ、ミドルやハイも狙っていく。さらに、自らもタックルのフェイントを織り交ぜて、魅々香選手をじりじりと追い込んでいった。


 スピードでまさるというストロングポイントが、ようやく表出してきたようだ。沙羅選手が攻撃の回転数を上げると、魅々香選手も回避は難しくなり、腕や足でブロックする比率が増えてきた。また、魅々香選手がジャブを放つ隙も埋まっていき、沙羅選手が一方的に攻め込んでいるという構図になっていく。


 客席からはブーイングの声が消えて、沙羅選手を後押しする歓声が巻き起こった。

 沙羅選手はいっそうの力を得て、さらなる猛攻を仕掛けていく。肩口を狙ったミドルハイは魅々香選手を初めてぐらつかせて、客席の盛り上がりは最高潮に達した。


「いい感じだな。……ただし、これでポイントを取っても判定は1対1のドローで、延長ラウンドだ。KOまで追い込めないなら、スタミナとの相談も必要だろう」


 再び立松の声が聞こえたかのように、沙羅選手がバックステップで距離を取った。

 いや、おそらくセコンドが残り時間を告げたのだろう。モニターの隅に表示されたタイマーは、すでに残り一分を示していた。


 すると――魅々香選手が、前に出た。

 いきなり豪快な右フックを放ち、沙羅選手をのけぞらせる。さらにタックルのフェイントまで入れたので、沙羅選手はバランスを崩しつつさらに下がることになった。


 それを追いかけて、魅々香選手が拳を振るう。

『豪腕のオールラウンダー』の、本領発揮である。ロープ際まで追い込まれた沙羅選手は、やおら相手の身体を両手で突き放すや、自らも拳を振るい始めた。


 いきなりの乱打戦に、観客席のボルテージは最高潮となる。

 残り時間は、三十秒だ。

 両者の拳が、相手の顔や腕や腹を叩く。あまりに距離が近いため、ミドルやハイを繰り出せるようなスペースはない。その分は、おたがいにローや膝蹴りを叩き込んでいた。


 残り時間は、十五秒。

 そこで――沙羅選手の動きが、がくんと落ちた。もとより彼女は、一ラウンド目の中盤から猛攻を仕掛けていたのだ。ようやく身を休めようとしたところで乱打戦を仕掛けられて、さすがにスタミナが尽きてしまったのだろう。


 しかし、魅々香選手の動きは止まらない。

 いや、むしろその回転率は、ここでピークを迎えていた。


 重そうなアウトローが、沙羅選手の身体を傾かせる。

 そこに、鋭い左のショートフックが重ねられた。


 右頬を撃ち抜かれた沙羅選手は、力なく倒れ伏す。

 レフェリーは、厳然たる調子でダウンを宣告した。


 大歓声の中、沙羅選手はカウントシックスで立ち上がる。

 一瞬遅れて、試合終了を告げるゴングが乱打された。


 勝負は判定に持ち込まれたが、結果は明らかである。

 ジャッジは三名とも、2対0で魅々香選手の勝利を告げていた。


 レフェリーに右腕を掲げられた魅々香選手は、スキンヘッドを汗でてらてらと輝かせつつ、やはり爬虫類じみた無表情だ。

 いっぽう沙羅選手は、タオルをかぶって固くまぶたを閉ざしていた。


 大歓声と拍手の中、両者はそれぞれの花道を戻っていき――ほどなくして、沙羅選手は控え室に戻ってきた。

 やはりタオルをかぶったままで、表情を隠してしまっている。彼女は一匹狼であるために、声をかけようとする選手や関係者もいない。

 そんな中、瓜子がひと声かけておこうとパイプ椅子から立ち上がりかけると、先に頭をぽんと叩かれてしまった。


「ちょいと時間をもらうわ。……うり坊は頑張ってな」


 瓜子は「押忍」とだけ答えて、パイプ椅子に座りなおした。

 敗北の苦しさは、瓜子だって十分にわきまえている。そして、それを乗り越えた者だけが、次なる勝利に向かって邁進できるのだ。

 沙羅選手の戦績は、これで七勝三敗――サキと同い年である沙羅選手のファイター人生は、まだまだこれからであるはずだった。

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