三章 魂呼び 2

「たまげた。ほんに魂を呼び出すとは」


 言葉のわりにのんびりと驚き、樹木星医は安心して眠ってしまったらしいかさねの身体をよいしょ、と背負う。童子のごとき体躯の樹木星医であるので、小柄なかさねであっても背負うのは大変そうに見えたが、本人は存外身軽に草地の斜面を下り始めた。かさねの頭に留まった金色の蝶に目を向けた樹木星医は、「イチでまちがいはないようだね」と尋ねる。


「どのあたりまで覚えている?」

(天帝が俺に降りる直前まで。あれはどうなったんだ?)


 緑嶺の山道を下りながら、樹木星医がこれまでのあらましを説明する。


「あんたの身体は、今は天帝が使っている。おそらく天都に戻ったんじゃないかな。樹木老神の神域を焼こうとして、しこたま反撃を食らったからね」


 黙したままのイチを見て、「あんたも難儀なさだめだね」と樹木星医は軽く息をついた。


「災厄どころか、壱烏皇子の役目そのものを身代わることになるなんて」

(……ずっと気になっていたことがあるんだ)


 天帝が降りる直前、脳裏によぎった記憶をイチは思い出す。

 五年前、北の鹿骨カボネで壱烏が死んだときのことだ。


(あいつは流行り病で急に死んだ。命数が尽きたように。あれも、『入れ替わった』結果だろう?)

「そうだね、そうも解釈できる。あんたと壱烏の天命を――十年前のあの日、天帝が入れ替えた。イチを助けてほしい、という壱烏の祈りに戯れに応じてね。だから、『イチ』は本来あそこで死ぬ命数だったともいえる。翻って言えば、今のあんたは『壱烏』がたどるべきだった道のうえを歩いている。それとて平穏な道のりではないが……、悔いているのかい?」


 自分の代わりに片割れを死なせてしまったことを。

 だって、あのときイチは何度も、何度も、壱烏を苦しめる病も、壱烏に近づく死も、自分が身代わってやれればよいのに、と神に祈った。そのために生まれて、生きてきた。身代わることがイチだった。イチという存在意義そのものだった。


(いや)


 翅をふるわせて、イチは呟いた。


(そういう風にはもう考えない)


 壱烏の命、人生。

 かつてイチが何よりも大事にしていたものたちは、すべて手のうえからこぼれ落ちていった。イチに残されたのは、壱烏の祈りだ。イチを生かそうとしてくれた彼の片割れの、灯のような祈り。それはこぼれ落ちていったものたちとはちがって、イチの胸の奥のほうにきちんと今も灯っている。

 おや、とでも言いたげな顔で樹木星医はイチを見た。

 なんだよ、と不服げな声をイチは出す。


「いや、ひとの子はくるくる変わるから面白いね。樹とはやはりちがう」


 寝息を立てるかさねを背負い直して、樹木星医は咽喉を鳴らした。



 *



 ツン、とした香りがどこからかして、かさねは鼻を動かす。

 清涼な、心を洗うような草の香りだ。それに野菜を煮込む甘い香り……。ぐぅ、とおなかが大きく音を立てたので、かさねはそのせいで目を覚ました。おぼろげな視界は、右半分が陰っている。


「起きたかい、お嬢さん」


 鼻が触れ合うほど近くで、樹木星医がこちらを見つめていた。思わず、ひっと飛びすさろうとしてよろけ、かさねは寝台に突っ伏した。右肩から腕にかけてが思うように動かなかったのだ。


「ああ、悪かった。驚かせてしまったか」

「いや、それはかまわぬが……」


 霞がかかった記憶をたどりつつ室内を見回し、かさねは急に不安になる。


「よもやかさねの夢? すべて!?」

「幸いにもそうじゃない。探しものはあんたが潰しているよ」

「潰れ……っイチ!?」


 尻の下で金色の蝶がひらべったく潰れているのを見つけて、かさねは悲鳴を上げる。この世あらざるものである蝶は、しばらく草の編み布にうずもれていたが、そのうちふわりと翅をひろげてかさねの肩に留まった。


「その姿だとひらひら舞って危うげだねえ。少し変えてやろう」


 そう言うと、樹木星医は鳥の巣頭にひそんでいた青い蝶――ウネが置いていったものだ――を取り出した。それをイチのほうに放して、樹の杖をトンと鳴らす。

 現れたのは、黒い雛烏である。少しばかり大きくなったが、やはりかさねの両手におさまるくらいの。無言でイチを見つめ、かさねは思わず口を手で覆った。


「愛らしい……。無愛想男がなんと愛らしい姿になって……!」


 ふわふわの首元を撫で回すと、うるさい、とでも言いたげにイチは嘴でかさねの指をつついた。かわいい。たいへんかわいい。かさねを俵担ぎしていた男の所業とは思えない。ふふんと機嫌よく手に乗せた小鳥に頬擦りしていると、こいつを俺から離せ、と樹木星医のほうにイチは訴えた。


「仲がよさそうでなによりだよ。そのままずっと烏でいるかい?」

「冗談じゃない」

「烏ってひとほど寿命があるそうだよ」

「冗談じゃないっつっただろ」


 かさねの手から逃れて、イチはかさねの頭にのった。ここなら不用意に撫ぜられたり触られたりしないと考えたらしい。そのとき、またかさねのおなかがぐぅと鳴ったので、「まずは食事にしようか」と樹木星医が笑った。

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