二章 はざまの乙女
二章 はざまの乙女 1
おちていく。おちていく。
果てのない常闇と無音の世界をどこまでも落ちていく。
この感覚には覚えがあった。かつて道を外れたときや黄泉に落ちたときと同じ。底なし沼に落ちていくような、奇妙な浮遊感。そこで意識がぶつんと途切れ、再び目を開けたとき、かさねはどこまでも果てしなく広がる白い地平のうえにひとり立っていた。
あたりには何もない。
獣の気配もなければ、草木の息吹、風の音、空や大地すらも。
おおい、と声を上げると、おおい、おおい、とかさねの声が何度もこだまする。地上にいたときは動かなかった右腕の感覚が戻っていることに気付き、ここは普段かさねが生きている世界とはちがう場所なのだと直感する。
「そうじゃ、かさねは確か星和に貫かれて……」
腹から突き出た太い枝の感触は、今も生々しく残っている。今は衣の裂け目すら見当たらない腹のあたりを撫ぜ、かさねはあたりを見回した。星和の話ではひよりと会えるとのことだったが……。
白い地平に映ったかさねの鏡像が、くすりと小さな笑みを漏らす。瞬きをすると、相手はやわらかな微笑みを湛えてこちらを見つめていた。かさねではない、これは。
「ひよりどのか!?」
(ええ、驚かせてごめんなさい。もうひとりの『わたし』)
かさねがかがみこむと、ひよりはそっとこちらに手を差し伸べた。けれど、見ええぬ何かにはばまれたように、こちら側にひよりの手が届くことはない。そのことに悲しそうに微笑み、ひよりは手を下ろした。
(すでに消失した身であるわたしと、地上で生きるあなた。ふつうではまみえることは叶わないから、少し星和に手伝ってもらいました)
「ここはどこじゃ?」
(異界の狭間。どこにも属さない空白……時の裂け目と呼ばれている場所です。あなたが女神に転じつつあったからこそ、降りてくることができた)
語りかけるひよりの声は千年前と変わらず、穏やかでやさしい。その言葉の使い方や抑揚に聞き覚えがあることに気付いて、かさねはなんともいえない顔をした。
(どうしたのですか?)
「……いや。天帝のあのやたらにきれいな言葉遣いやら物腰やらはひよりどのに似ているのだなと思うて」
(ふふ。あの神はひとをかたどるとき、わたしを真似ますからね)
おそらくそれは天帝にとってひよりがはじめて出会った「人間」ゆえだろう。同時にうつくしいのにどこか虚ろな微笑の意味に思い当たる。あの神はかさねの前でふるまうとき、ひよりの表情や仕草を真似ているにすぎないのだ。だからすべてが虚ろで、心が伴わない。
否、神にひとの心を求めるほうがおかしいのだ。
もとが化生で、人間であるひよりに育てられた星和や、ひよりのなれの果てである大地女神、人身に転身を繰り返す漂流旅神のほうが特殊だ。彼らは神でありながらひとの心を解するが、悠久を生きる神々はふつう、命ひとつひとつを取り上げて、ささいな感情の機微や移ろいに対し、心を動かすことなどない。あの朧ですら、かさねの悲しみを真に理解することはなかった。
「ひよりどのに教えてほしいことがある」
意を決して口を開くと、ひよりは小さくうなずいて先をうながす。
「天帝がめざめ、イチが身体を盗られてしまった。星和が言うには、イチの魂はかの神が降り立つ直前に別の神が身体から剥がして、どこぞやに放ったという。この天地から、イチの魂を見つけ出す手立てはないだろうか」
ある程度状況は知っているのだろう、ひよりは静かに相槌を打つ。赤い目は、老女のような静穏を湛えて、こちらを見つめていた。
「なるほど。星和がわたしとあなたを引き合わせた理由がわかりました」
「そなたは大地女神と魂を同じくするもの。魂のことは、黄泉を総べる女神の領分だと星和は言っておったのだが」
「ええ。魂とは本来、死したひとの身から解き放たれたあと、大地をさすらい、時をかけて漂白され……わたしの総べる黄泉へと向かいます。そしてまた長い時をかけて粒子のひとつとなり、連なりあって、別のものをかたどり、大地へと生まれでる」
「つまり、おちおちしてると、イチが漂白されたり生まれなおしてしまう!?」
「かさねさまが考えられるよりも、だいぶ長い時がかかりますよ。ひとが己の業や願いを手放すのにはね」
己の身を重ねたのか、ひよりは苦笑した。
「されど、手立てならあります」
きっぱりと言い切ったひよりに、「まことか!?」とかさねは思わず身を乗り出す。はずみに白い地平に波紋が広がり、ひよりの鏡像が揺らめいた。
「大地をさすらう魂の還りつく先、すべての魂を総べるもの、それが大地女神。そして、この大地には今、都合ふたりの女神が存在している」
「ふたりの……?」
「わたしのなれの果てである大地女神と、その力を継ぎ始めたあなた。ふるき女神と、新しき女神。あなたはまだほとんどひとと変わらぬようですが……」
届かぬとわかっていながら、ひよりはかさねに手を伸ばす。
半身をいとおしむように。
「イチを取り戻したいですか?」
「ああ」
「どうしても?」
「どうしてもじゃ」
「――ならば、呼びなさい、彼を。その笛で」
かさねの首にかかった常盤色の口琴を示して、ひよりが言う。
知らずかさねは口琴を握り締めていた。
口琴はそれ自体に力があるのではなく、持ち主の力をふくらませて伝えるものであると天帝は言っていた。イチがさまざまな力を引き出せたのは、その身に天帝の力が流れ込んでいたからだと。
「口琴は持ちぬしの意志にこたえる。かならず、あなたを助けてくれるでしょう」
わだつみの宮で神器を呼ぼうとしていたときのイチの姿がかさねの脳裏によぎった。あのとき、世界を構成する金色の粒子がほどけて輪郭が変容していくような違和があった。魂を呼ぶとは、たぶんあのときのようなことを言うのだと思った。
「イチはかさねの呼びかけにこたえてくれるだろうか」
小さな笛を握りこみながら、目を伏せて呟く。瞬きをしたひよりは「大丈夫ですよ」といつもの柔和な笑みを浮かべて、うなずいた。
「いとしい女の呼びかけにこたえぬ男がいるわけがない」
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