二章 さきぶれの音
二章 さきぶれの音 1
暗闇に、汚物と血の饐えたにおいが充満している。
頭から水をかけられて、イチは薄く目を開けた。木で組まれた格子の前には、盥を持ったひとりの老爺が立っている。年老いてなお精悍さを失わない面構えに、「じいさまか」とイチは呟いた。咽喉に血が絡まってがらがらする。腕は後ろで縛られていた。
「おまえはどうしていつもそう、ぼろぼろになって帰ってくるのか」
牢の中に転がったイチを呆れた様子で眺め、老は格子のあいだからにぎり飯を差し出した。夜闇に沈み込むような墨色の衣は、陰の者たちがつけるものだ。足元に置いた蜜蝋の灯りが、険のある老の横顔を照らしている。
「腕、解いてくれないのか」
「解いたら、逃げ出そうとするからだめだ」
「しねえよ」
「いいや、する。腕一本折ったっておまえはする。そういう奴だ」
イチたちが名前のない『雛』だった頃から、躾けてきた老である。もとは天の一族の長の『陰の者』だったという。
『陰の者』の寿命はふつう、二十に満たない。天の一族の穢れを肩代わりし続けるうちに、身体と魂が枯渇して死ぬ。イチのように十代半ばで天都を離れた『陰の者』は数少ない例外だ。それだってイチ以外は全員死んだ。だが、ごくまれに、運よく二十を過ぎても生きながらえる『陰の者』がいて、この老がそうだった。先代の老が死んでからは、この老が『陰の者』を育てていた。
足を使って半身を起こし、イチは口でにぎり飯を受け取った。まともな食料を口にしたのは数日ぶりだ。天都の門の外にもうけられた仮宮――調理や儀式のための供物の処理はここで行われる――にある牢に閉じ込められ、昼夜、鳥の一族による尋問を受けた。彼らが聞き出したいのは、忽然と姿を消した天帝の花嫁についてだったが、イチだってかさねがどこにいるか知らないので、答えようがない。
「不浄を厭うと言いながら、不浄の極みだな、ここは」
イチのほかに牢に入っているのは、年明けの供儀に使う獣たちだ。糞尿はそのまま垂れ流されているのか、饐えた悪臭を放っている。
「俺はいつ、ここを出られるんだ」
「おまえが花嫁のゆくえについて話せば、殺しはせんだろう」
「あいつは海上で消えたんだ。俺だってどこにいるかわかっていたら、探しにいきたい」
「それがまことだとしても、天の者たちは信じないだろう。何しろ、おまえは鳥の一族に刃を向け、花嫁を連れ去ったのだから」
老の言葉に、イチは舌打ちする。鳥の一族に歯向かったことで、よもやこんなしっぺ返しを食らうとは思わなかった。早く地上に下りて、かさねを探しに行きたい。だが、大地将軍の帆船のことを話せば、それこそ天都の思う壺だ。あの娘を天都に奪われるわけにもいかない。いつの間にかあっちもこっちも敵だらけだな、と思うと、少し笑えて、腹も据わった。
「じいさま」
にぎり飯を腹におさめると、イチは格子の前に座った老に身を寄せた。
「孔雀姫に会わせてほしい」
イチの願いはある程度、予想の範疇だったのだろう。老は口端を歪めた。
「この老に何の片棒を担がせるやら」
「ひとりでここに来たってことは、俺をたすけてくれるんだろ。ちがうか」
「『雛』がたいした口を利くようになったものだ」
皮肉げに呟く老の口元には苦笑がのっていた。血のこびりついたイチのこめかみに老のあたたかな手が触れる。
「『陰の者』はころころ死んでいくからな。生き残ったのには甘くなっちまっていけねえ」
「……ありがと。じいさま」
くしゃりと頭を撫ぜて離れた手に、イチは目を伏せた。
老が去ると、中は再び供儀用の獣たちの息遣いがするだけの薄闇に戻る。孔雀姫が来るまでは、もうすることがなくなってしまった。イチはしばらく半身を起こしたまま、格子に頭をもたせていたが、そのうち疲れて横になった。
(あいつら、容赦なくひとをぶっ叩きやがって)
熱を発する身体を石床にくっつけると、ひんやりして心地よい。むきだしの上半身は至るところが赤黒く腫れていた。イチは首にかけていた口琴がなくなっていることに気付く。考えてみれば、当たり前だった。口琴は神霊に作用する強力な呪具だ。イチに持たせておいてくれるわけがない。
けほ、と乾いた咳をして、イチは床の上でうずくまる。なんだかこうしていると、年端のゆかない子どもの頃に戻ったみたいだ。穢れを移されて動けなくなっていた頃の幼い自分。イチはあまり郷愁にひたる性格ではないので、過去に想いを馳せるのはめずらしいことだった。もしかしたら、思った以上に弱っているのかもしれない。
「お探しのものはこれですか」
ぶらりと眼前で常磐色の笛が揺れたのに気付いて、目を開ける。
いつの間にかまどろんでいたようだ。牢の前に人影がかがみ、格子から差し入れた腕をイチのほうへ伸ばしている。背にぞっと悪寒が走る。イチがこれほどまでに人を自分に近付けるのは絶対に、無いことだ。眠っていても、怪我をしていても、絶対にそれは無い。だからこそ、本能のようなものが警鐘を鳴らしていた。目の前の男は、おかしい、と。
「誰だ、あんた」
「先ぶれですよ、ただの」
口琴を持っているのとは逆の手に携えた杖をしゃらんと鳴らして、男はこたえた。木を削ってつくられたらしい杖の先には銀の鈴が結んである。翳りになっているせいで、男の顔はよく見えなかった。どこかで会ったことがある男だ、となんとなく思ったが、すぐには思い出せず、イチは数歩男から距離をとる。
「先ぶれ? 何の」
「何の? さて……」
「……天都の者か? どうやってここに入った?」
尋ねると、暗闇の向こうで男がさざめき笑う気配がした。まるでイチのした質問自体がおかしくてたまらない、といった様子だ。眉根を寄せ、イチは男を睥睨した。男が差し出した口琴はまだ手にかかったままだ。腕は後ろで縛られていたので、イチは片足を動かして口琴をかすめ取った。最初からくれてやるつもりだったのか、口琴はあっけなく男の手からイチの足首にかかる。
「そなたはその口琴の使い方を知っていますか」
「は? そりゃあ……」
口をあてて息を吹き込むだけだ。ただし、天の一族の血を引く者以外は使えない。ひよりが樹木老神の木膚からつくり、天帝となした子どもに贈ったいっとうの呪具。神霊を鎮めることができる不思議な笛。壱烏の形見。
「本当はもっとうまく鳴らせる。たとえば、このように」
イチの足にかかった口琴を男の手が取り、口元に持っていく。
直後、大地を揺さぶるような激しい咆哮が上がった。
それはイチが知る口琴の音色ではなかった。もっと清らかに澄んで、暴力的で、烈しい。イチは思わず、身を引いた。空気がびりびりと震えているのがわかる。口琴を口にあてる男の面がぱっくりふたつに裂けて、黒々と濁ったものが噴き出した。それはイチのほうへと押し寄せ、身体にかかる前に粉々に砕け散った。
からん、と男がいたはずの床に、高らかな音を立てて口琴だけが落ちる。
気付けば、イチはひとり暗闇に戻った牢の中に座り込んでいた。呼吸がうるさい。背中がぐっしょり汗をかいているのがわかる。格子越しに話をしていたはずの男はどこにもいない。
「何……だったんだ、いまの……」
夢というにはあまりに鮮烈な音色だった。脳髄を内側からかき回されるような不快な音はイチの内側にまだ残っている。息をつき、イチは今は静かに床に転がるだけの口琴をそっと引き寄せた。
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