序章 白兎と金烏

序章 白兎と金烏

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 昔、子どもの頃に大罪を犯した。

 けがれを移すということが壱烏は嫌いだった。この世で唯一憎悪していたものといってよい。はじめてそれを知ったのはいつだったろう。自分のけがれを移した「ミイ」は苦しみ呻き、最後に吐息ひとつを残して冷たくなった。撫でてもさすっても、二度とぬくもりが戻ることはなく。死んだ。

 天の一族は清浄の一族だという。しかし、それゆえに天都ではその身のけがれを別のものに移さねば、生きてゆけない。壱烏には、「トウ」まで「陰の者」がいた。フタ、ミイ、ヨン、イツ、ロクは死んだ。壱烏のけがれを移され続けたせいで。

 そしてついにイチが役目を終えようとしていた。

 蒼褪めた顔は触れるととても冷たく、いくら衣を重ねても、さすっても、一向に体温は戻らない。もう丸一日だ。今までこんなことは一度だってなかった。

『イチ。イチ。おきて』

 恐ろしかった。この片割れを今までの片割れたちのように失うことが。今にも泣き出しそうな壱烏の声に、イチは茫洋と目を開けた。とろとろとあたりを見回すと、額に置かれた壱烏の手に気付いて、ほう、と息をつく。

『あったかい』

 急に何かが音を立てて崩れるのを壱烏は自覚した。それは天の一族として自分を戒めてきた何かのようだったし、押し込めていた感情のようなものなのかもしれなかった。壱烏はイチの身体に衣をかけ直すと、今は眠れる天帝を祀る祭壇へ走った。ぜいぜいと息を切らして中へ飛び込むと、薄くらがりに鎮座する鏡を仰ぐ。

『天帝』

 壱烏は呼んだ。かつて天帝がなした子ども、そのすえたる者の声をもってして、天地を総べる神の名を呼んだ。

『天帝、お願いです』

 衣を握り締め、壱烏は叫んだ。

『わたしのすべてを差し上げるから、イチをたすけて……!』

 暗がりの向こうで金の双眸が光った気がした。

 結果として。イチは何事もなかったかのように身体を回復させた。しかし、天の一族がみだりに天帝の力を引き出すことは禁じられた大罪である。壱烏と「陰の者」たちは天都追放という天都における極刑に処せられた。

 そして天帝と交わした壱烏の誓約は、五年後に果たされることになる。


「――イチ」

 目を開けると、枕元のあたりで鼻を赤くしてすすり泣いている少年が見えた。

 山間にある鹿骨カボネの冬は厳しい。炭不足のせいで使われていない七輪は、霜がうっすら張り付いていたが、イチがありったけの衣をかけてくれたから、褥に横たわる彼は温かかった。すべての衣をやってしまったせいで、下袴以外何もつけていないイチは、けれど彼が目を覚ましたことに気付くと、泣き腫らした眸を喜びに輝かせた。

「壱烏」

 イチのよく通る声が彼を呼ぶ。

「起きたのか」

「イチ、ここから一枚持っていってください。君のほうが僕よりずっと寒そうだ」

「いいよ、俺は。寒いのは慣れているから」

 そう言ってイチは細い首を振り、素焼きに溜めた水を注いで彼に渡した。なけなしの金で買ったいくつかの薬草も一緒に手渡される。熱を下げる薬。痛みを和らげる薬。およそ根っからの解決には至らないそれらの薬すら尽きかけていることに、彼はずいぶん前から気付いていた。差し出されたそれを飲み下したはずみに、乾いた咳がこぼれる。かたわらで見守るイチが不安そうな顔をするので、彼はにっこり笑ってやった。

「イチ。話をして。今日は何がありました?」

 雪をかぶったかむりを撫でてやりながら、尋ねる。イチが壱烏の代わりに見たことや聞いたことをとつとつと語るこの時間が彼は好きだった。ずっと、壱烏のためにだけ生きてきた少年が一生懸命、自分の目で見て、聞いたことを話そうとしているのがわかるから。同時に言葉にならないいとおしさが胸を締め付ける。自分がいなくなったら、この片割れはどうなってしまうんだろう。壱烏だけを愛してきたイチには、ほかには何にもない。かわいそうなくらいに。

「イチ」

 やさしく呼びかけると、イチは目を細めてなんだと問うた。片時も離さなかった木彫りの口琴を少年のほうへ差し出す。

「これを」

「壱烏?」

「もし僕に何かあったら、姉上に届けて」

「いちう」

 金の眸が不安に揺れ始める。痛いほどわかる。イチは恐ろしい。壱烏を失うことが恐ろしい。たぶん身が砕けてしまうほどの恐怖とこの片割れはずっと戦っている。

「そして伝えて。あなたの幸せを祈っていると」

 そう、祈ってる。

 のしあわせを僕は祈っている。

「天上からずっと見守っていると」

 たとえ、この身体がなくなってしまっても。

 のこれからを見守っている。

「必ずですよ、イチ。壱烏がイチに頼むんです。かならず、何があっても僕の願いをかなえて」

 言霊というのは、ことほぎであり、呪いだ。この言葉がある限り、君は必ず悲しみから立ち上がる。最愛の片割れを失っても、孤独に打ちひしがれても、もう一度立ち上がって生きてゆける。だから、どうか。

「約束ですよ、イチ」

 このやさしい片割れを見つけて。

 できれば、あいしてくれる誰かに出会えますように。

「もう泣かないで」

 くしゃりと表情を歪めた少年の頬にやさしく手を添わせて、彼は微笑んだ。


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 天の一族の孔雀姫が今生ひとたびと願い出て地都に降りたのは、天都での騒動があったその翌年の春だった。天の一族の長は初めこそ難色を示したものの、しまいには愛娘の願いを受け入れ、小鳥少年をつけて外へと送り出した。

 ひとつ、こんな話が伝えられている。

 地都に降りた孔雀姫は、こもの三道を通り、北の鹿骨に向かったという。そこでセワの樹の下に人知れず立つ墓前に参り、しばらく募る話を交わしたのだとか。無論、誰が見たわけでもなく、アルキ巫女の間でひそやかに語られるだけの話であるので、真偽は定かではない。たとえば侍従の少年が鳥笛でそっと漏らしたのでなければ。

「――と、リンがアルキ巫女仲間から聞いたらしい」

 山奥にある菟道の里までその話が伝わるには、数年の月日がかかった。春初めの菟道のみどり野をひとりの少女と男が歩いている。男は小脇に籠を抱えて、薬草摘みをしているようだ。もうひとり、前を行く少女は少年とみまごう切袴を裁いて馬を引き、背には旅の荷物を背負っている。

「ふふん、兄さま。孔雀姫ならば、かさねも先立って文を取り交わしたぞ」

「なんだ、おまえ、孔雀姫とも知己なのかい?」

「ああ。姫も小鳥も元気そうであった。地都の都はますます栄えんばかりであるし、あの野蛮人も性懲りもなく地神退治にふけっておるわ」

 「野蛮人」と呼びならわす将軍を好まぬかさねは、思いきり顔をしかめて言った。そうか、とうなずくいざりは楽しそうだ。大地将軍の地神退治は毎度の邪魔が入るため、昔に比べては幾分なりをひそめたようだが、さりとてあの将軍がたやすく己の望みを捨てるようにも思えない。「毎度の邪魔」をしている当人であるかさねは胸をそらして、「それで、兄さまは?」と問うた。

「うん? 私かい?」

「セワ守のお役目は次の者に譲られたのだろう? リンとはいつ一緒になるのだ?」

「さて。リンはアルキ巫女だから、次の帰りを待たないことには」

「兄さまは、気が長いからのう。かさねはだめじゃ」

 結んだ白銀の髪を振って、かさねはからりと笑った。

 この三年。かさねは北へ南へ旅の日々を送っている。それにはふたつの目的があった。ひとつは、各地の地神とひとの間の仲立ち。古き契りは両者の軋轢を深め、争いの火種となっている。そこで、よそもののかさねが出向いて、地神とひとの両者の言い分を聞いて、事に当たる。大地将軍とたびたび鉢合わせるのはこのためだ。

「契りにもいろいろとある。無論、地神を説き伏せることは容易ではないが」

 地神はもともと、ひとの手に余る。話し合いの中で、命の危険にさらされることもたびたびあったが、どういうわけかかさねを気に入り、道中にしつこくついてくる狐神がそのたびうまく化かして、なんとか生き延びている。娘の酔狂を近頃は菟道の棟梁も「好きにさせておけ」などと投げやりで、兄のいざりばかりがひっそり支えてくれている。

「今回もまた長い旅になるの?」

「いいや。たぶん早く帰れる。こたびは小鳥が見たと教えてくれたから。きっと『当たり』じゃ」

 口端を上げると、かさねは勢いよく馬上のひとになった。

「いってらっしゃい」

「うむ。いってくる!」

 送り出すいざりに大きく手を振って、かさねはみどり野を飛び出した。川沿いに湊に出て、セワの老樹に挨拶をしたあと、北の鹿骨へと向かう。

 ――三年前。

 トウが変じた魔にあわや食われかけたとき、孔雀姫が口琴を鳴らした。姫は口琴の使い方を心得ていたわけではなかったので、まったくの偶然であったのかもしれぬ。あるいは、死んだ壱烏が手助けでもしたのだろうか。呪具たる口琴の音によって、ひととき魔がひるんだ。そのわずかな間で十分だった。鳥の一族の嘴が魔を一閃する。血一滴流すことなく、魔は消滅した。「トウ」という名前の男のことは以後語られていない。

 あのあと、かさねは迎えに来た父に連れられ、菟道へと戻った。また、天の一族の長の温情により、再度の天都追放のみで済んだイチは天門から出たのち、どこぞやへ消えたのだという。その後のイチの行方は誰も知らない。死んだ、と噂する者たちもいた。あるじを失くした陰の者は生きてゆけない。とても生きてゆけない。空っぽになってしまって、あとは死ぬだけのこと。

 鹿骨に降り立ったかさねは、泊場に馬を預け、小鳥に教わった道を歩く。

 つづらかさねのかさねみち

 つづれて つづれて かさねみち

 雪のちらつき始めた道を息を吐きながら歩いていると、自然と故郷のあない歌が口をついた。

 さあ はなもて かさをもて

 はなよめごぜんをあないせよ

 つづれて つづれて かさねみち

 さっと雪まじりの風が吹いた。

 道果てのセワの樹の下にたたずむ人影をみとめ、かさねは目を細める。

「――見つけた」

 墓前に花を置いていた男がつとかさねを振り返った。眉根を少し寄せてから、金のまなこを軽く瞠らせる。

「イチ」

 かさねはきざはしを数段飛ばしでのぼると、むんとしかめ面をする。両手を伸ばして、男の衿首をぐいと引き寄せた。

 ――こうしようと決めていた。

 御礼とも謝罪ともつかない捨て台詞を言うだけ言って、イチがどこぞやへいなくなってしまったあの日から。南へ北へ、ひとと地神のいさかいに奔走し、この男を探して歩いた、つづらかさねの、かさね道の中で。

「そなたが選ぶ道はふたつきり。ここでかさねに盗まれるか、今すぐ恋に落ちるかじゃ。どうする、イチ?」

 胸を張って尋ねれば、衿首をつかまれた男がふいにおかしそうに吹き出した。観念した様子で、金の眸がふわりと細まる。

「どちらだと思う?」

 そして、イチはかさねの手のひらに手を重ねた。


 *


 祈ってる。

 君の旅路に幸いがありますように。

 固い蕾をつけた枝に止まっていた烏はすべてを見届けると、ひらりと翼を翻す。かくして――。流れの金烏が白兔に出会い、そして再び旅が始まった。



【天都探索編・完】

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