五章 地都の星祭り 6
さらりと衣擦れの音を鳴らして、イチとそう年つきの変わらない青年が現れる。洗いざらし木綿を重ねているだけのイチに対して、青年のほうはひと目で上質とわかる絹衣に艶やかな深緑の帯を結んでいた。イチの双眸がわずかに見開かれ、トウ、と呟く。
「トウ、だな。『十番目』の」
「ふん。やはりあなたでしたか」
トウ、と呼ばれた青年は頬を歪ませ、息をついた。
「壱烏皇子。金眸と聞いてまさかと思いましたが、本当にのこのこ現れるとは驚きました。あなたが天都を追われて以来ですから、七年ぶりですね」
「何故、おまえがここにいる?」
「い、イチ」
話が見えず、かさねはイチの腕を引っ張った。
「トウ、とはなんじゃ。あちらが壱烏の偽者だったのか?」
「トウは壱烏の『陰の者』だった男だ」
「いんのもの?」
「天の一族に与えられる奴隷ですよ。この世に生を受けると同時に、その烙印を押される」
薄暗い笑みを浮かべて、トウが肩から袖を抜く。あらわになった背中に刻まれているのは赤い焼き印の痕だ。
(なんとむごい……)
「もういいだろ」
呻いたかさねを背にやり、イチは冷ややかに言った。
「トウ。おまえの目的はなんだ」
「あなたが天都を追放されたとき、私たち陰の者もまた、地上に落とされました。他の者は不浄の空気に耐えかねて、すぐに死にましたが。私は生き残った」
「死んだのか。八番目も、九番目も、みな?」
「ええ、死にました。最初から天都もそのつもりだったのでしょう。天都追放は私たちにとっては死と同義。ことのほか清らかな御身であるあなたが生きていたこと自体、驚きに値しますよ。正直、まっさきに死んでおられるだろうと思っていた」
「だから、壱烏の名を騙ったと?」
「十四年間、私はあなたの影として生きてきた」
トウがひたとイチを見据える。凝った情念とも呼べる炎が眸の奥でゆらめいた。
「それでも、あの頃は輝かしいあなたを誇りに生きていました。許嫁の孔雀姫さまと並ぶあなたは天の一族たる輝きに満ちていた」
(いっ、いいなずけ……!?)
瞑目するかさねをよそに、トウは言葉を継ぐ。
「だが、あなたときたら、どうだ。大罪を犯し、あっさりと天の一族たる身分を捨てた。そのときの私の失望がおわかりに? 天の一族でなくなった男の影など、もはや何の価値もないのに」
「トウ」
「あなたの捨てたそのお名前、私がいただいたまでのこと。しかし、今さら現れるとは、あなたもこの名に未練があったご様子」
「ちがう。俺に恨みがあるなら聞く。ただ壱烏の名を使って争いを起こすのはやめろ」
「起こればいいではありませんか。私たちを捨てた天都です。落ちれば愉快というもの」
「トウ!」
顔を歪めたイチがトウの衿をつかみ寄せる。
「大地将軍」
それをトウの手が振り払った。
「『偽者』の壱烏どのは牢へ」
「イチ!」
驚いてかさねはイチにしがみつく。大地将軍はやれやれといった風に肩をすくめると、カムラを呼んだ。ともに現れたいかにも屈強そうな兵士がイチとかさねの肩をつかみ、部屋から引きずり出す。
「ええい、離せ! 離せというに……!」
がむしゃらに手足を振るが、男たちの固い腕はびくともしない。しまいには担ぎ上げられ、かさねとイチは離れにもうけられた牢に放り込まれた。受身を取ることもできず、思いっきり腰を打ち付ける。呻いたかさねの前で格子扉が閉められた。
「この! 出せえええええい!!!」
張り上げた声はむなしく低い天井にこだまする。何度も格子を揺さぶったが、そのうち力尽きてかさねは黴臭い床に座り込んだ。
「……平気か」
「平気なわけがあるか。なんなのだ、あやつらは。無礼にもほどがある」
「壱烏がふたりいると、困るんだろ。……巻き込んでわるかった」
珍しく殊勝に謝られ、かさねは格子をつかんだまま、ぽかんと口を開く。暗がりのせいでイチの表情は見えない。ただ金の双眸は伏せがちに足元のあたりを見ていた。
「そなたこそ、平気か」
伸ばした手をそっと腕に触れさせる。イチは苦笑した。
「あんたに心配されると妙な気分になるな」
「冗談を言っているわけではない。イチは、壱烏は……」
「イチでいい」
「イチは天都と大地将軍の争いを止めるために、天都へ向かっていたのだな」
大地将軍は壱烏の名のもとに天都の機能を地都へ移すと挑発し、果ては天帝を弑そうと企てていた。けれど壱烏皇子自体が偽であれば、その目論見は崩れる。イチはそのことを伝えるために天都をめざしていたのではないか。
「――……、」
短い沈黙が落ちたが、結局イチは何も言わなかった。
「だが、何故じゃ。そなたがかような危険をおかさずとも、文なりなんなり、天都へ知らせる術はいくらでもあったろう」
「壱烏は天都から追放されたんだ。伝える術は途絶えているし、仮にアルキ巫女に託したところで、信じさせるには『俺』と口琴が揃ってないと意味がない」
首にかけた常磐緑の口琴をたぐり寄せて、イチは言った。
「どうしても俺自身が天都へのぼる必要があるんだ」
刃の切っ先にも似た鋭い眼差しを見つめ、かさねはしばし口をつぐんだ。
(……そうか)
イチは、不思議な男だ。はじめて見たときから、かさねとはまるでちがう生き物なのだと、その背が語っていたから。大地で群れて生きるうさぎと、空を翔ける一羽烏のようにちがう。
イチは誰とも交わらない。
どこにいても。誰といても。
決して、その心をひとに預けたりはしないのだ。
(そなたはほんに、ひとりなのだな。イチ)
(ひとりで戦っている)
無性に切なくなってしまって、かさねは目を伏せた。
(何ゆえ、かさねが悲しくなるのだろう)
「……わかった」
ややもしてからうなずき、かさねはイチを見上げた。格子窓から射した月光がイチの頬をあおあおと照らしている。正直、トウ、と呼ばれた男のほうが身なりも、喋り方も、立ち姿もずっとかさねが想像する「壱烏」らしかった。けれど。薄汚れていて、傷だらけで、粗雑で口の悪いこの男を、かさねは信じようと思う。
「そなたの道案内はこの莵道かさねが引き受ける。かさねがそなたを天都へ連れて行く」
口にすると、それまでの懊悩がふっとおさまって腹が据わる。イチの力になる。ひと月この男と旅を続けた自分のこれが答えだった。
「……いいのか。大地将軍を敵に回すことになる」
「ふん。この美少女を前にすれば、向かうところ敵なしじゃ。しかしまずはこの牢から出ないといかんのう」
「それなら問題ない」
外から微かな羽音がして、窓に一羽の鸚鵡がとまる。
「じいさん」
イチが声をかけると、鸚鵡が甘えるような声で啼き、嘴に咥えていた鍵を落とした。
「まさか」
「くるい芸座の今日の座敷は、大地将軍邸だからな」
ぬけぬけと言い放ち、イチは錠を落として扉を開いた。
牢から出ると、蔵の前に立っていた見張りに後ろから手刀を食らわせる。呻き声ひとつ漏らさず、見張りの男はその場に昏倒した。そのまま裏戸に向かうと思いきや、イチは蔵の表玄関についていた銅鑼を突く。そして声を張った。
「囚人が逃げた! 囚人が逃げたぞ!」
「なっ、イチ!?」
「来い!」
かさねの手を引き、すばやく身を翻したイチは、鸚鵡のじじさまを追って暗がりを駆け抜ける。蔵のほうへ集まる門兵を茂みに隠れてやり過ごし、屋敷の裏口に回った。
「イチ!」
暗闇から手を振っているのは梔子色の羽織をかぶった――フエだ。
「まったく君ったら、相変わらずド派手にやるんだから」
「わるい。出られるか」
「僕らの出番は終わったからね。中にはおかしらが残ってる」
見れば、フエのそばには巨漢の男や女装の青年など、くるい芸座の面々が揃っている。
「声を出すなよ」
短く命じると、イチはかさねの身体を抱き上げて、荷運び用の櫃に入れた。自らも中に入って蓋を閉じる。直後、櫃ががくんと大きく揺れて持ち上がった。かさねとイチを中に入れたまま、大地将軍の屋敷から引き払うつもりらしい。
「うお、むぐっ」
あちこちにごろごろ身体をぶつけていると、しずかに、とイチの手が口を塞いだ。櫃の中には小さな隠し窓がついているらしい。指でそれを開けたイチが外をうかがう。
「なんだか騒がしいですねえ」
「ああ。捕えていた囚人が逃げ出したんだ。屋敷中探し回ってる」
屋敷の門兵と話すフエの声が聞こえて、かさねも隠し窓からそっと外をのぞいた。
「じゃあくるい芸座、引き払いまーす」
「待て。その櫃の中を見せろ」
(ひぃっ!)
門兵の勘のよさに背中に冷たいものが這う。
「芝居用の道具が入ってるだけですよう」
「念のためだ」
しぶしぶフエがうなずいたらしく、櫃が下ろされる気配がした。心臓が激しく脈を打つ。がこん、と蓋を開けられ、門兵の手が中を探る――
「うむ。何もないな」
「でしょう? お仕事ご苦労さまでーす」
再び櫃が担ぎ上げられ、フエたちくるい芸座の面々が門をくぐる。次第に遠のく屋敷を眺め、かさねは深く息を吐き出した。
「……どうなっておったのだ?」
「くるい芸座の櫃は二重底仕様なんだ。昔からな」
しれっと返したイチに、それなら最初から言えというに!とかさねは頭をはたいてやりたくなった。
「はあい、とうちゃーく!」
かさねとイチを入れた櫃はしばらく歩いたのち、きのうの安宿の前で下ろされる。
「追手は?」
「だいじょうぶ。注意してたけど、かかってないよ」
櫃から外に出ると、新鮮な空気が肺腑を満たした。
「まったくとんだ目に遭ったわ……」
息を吐き出して、かさねは大きく伸びをする。
どん、どどん、どん、どん!
突然海のほうから地鳴りにも似た音が轟いた。
「十連打……」
「ああ。祭りの終わりだ」
澄んだ太鼓の音は背筋を正される思いがする。月の架かった海を見渡し、かさねは目を細めた。その隣にイチが立つ。
「あすには地都を発つ。大地将軍にこっちの存在がばれた以上、急ぐぞ」
「うむ」
莵道をひらく。
できるだろうか、とかさねは己の手のひらへ目を落とした。
――道を開くには足りないけれど、
莵道をはじめて開いたらしいとき、テンテイが呟いていた言葉が頭をよぎり、風に舞い上がった髪を押さえる。星夜の海は嵐の前の静けさのように、今はまだ凪いでいた。
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