第145話 悪意 -stare from abyss- 02

 白銀の髪を揺らしながら、一人の少女が、絨毯張りの廊下を歩いていた。

 寝巻き代わりのシャツの上に、淡い緑のチュニックを重ね着しただけの簡単な格好だったが、少女は特に見た目に気遣っていないのか、特に気にした様子はなかった。

 貴賓館という用途で作られた屋敷は、伯爵の経済力もあってか、それなりに高級な仕上がりになっている。

 無意味に装飾を施された廊下に若干眉をひそめつつ、柔らかい絨毯を踏む締めてゆっくりと歩く少女が、ふわぁと欠伸する。紫水晶アメシストの瞳に浮いた涙の玉を指先で擦って拭う。

 疲れているのだろうか。その足取りはどこか覚束なさを感じさせるものだった。


「だるい……寝過ぎかな?」


 天井に向かって伸びをして、そんなことをつぶやいた少女──ティナは、ふらふらと食堂に向かっていた。

 ジンと別れた後、素直に眠ろうと思っていたのだが、彼女はある事実に気が付き、急遽予定を変更したのである。

 ティナは昨日、カルティエ領内で起きたMCによる暴動事件に巻き込まれ、怪我をしたのだが、その怪我を圧して、他の人の治療や、クロエの手術、輸血を行った結果、意識を失ってしまったのだ。

 その後、ジンに傷の手当てを受けたらしいのだが──眠っている間に女性の身体に触れるのはマナー違反だと声を大にして言いたい──今朝目覚めるまでの間、ティナはずっと眠っていたし、この領都アガメムノンに戻ってくる間も、その大半を寝て過ごしていた。

 要するに、ティナはとても空腹で脱水症状気味だったのである。いざ眠ろうと思った時にお腹が鳴り、頭がふらついて──これは貧血だと思っていた──初めて、その事実に気付いたティナは、いそいそとベッドを這い出て、食料を調達することにしたのである。


「んん……いたっ……」


 伸びをしたせいで傷口に痛みが走ったらしく、ティナはその端正な顔立ちをしかめ、すぐ側の壁に手を付いた。

 屋敷の中には、彼女以外の人影はなかった。ドゥバンセ男爵の件で作戦行動中の革命団ネフ・ヴィジオンのメンバーはほとんど出払っているのだ。当然とも言えた。

 唯一、一緒に戻ってきたジンは、ティナをおいてさっさと出払ってしまったので、ここにはいない。

 ティナは、ドゥバンセ男爵の企みがどのようになったかは知らないが、すでに正午は過ぎているので、作戦自体は終了しているのではないだろうか。成功であれ、失敗であれ。

 ならば、夜になれば戻ってくるだろう。ドゥバンセ男爵領は、旧ヴィクトール伯爵領から見て、帝都を挟んでほぼ反対側にあるため、移動には相応の時間がかかる。今すぐに戻ってくる、というわけにもいくまい。

 痛みが落ち着いたようで、再びとぼとぼと歩き出したティナだったが、階下の玄関ホールの談話スペースに座る男を見つけ、ふと足を止めた。

 そこに座っていたのは、ティナたち革命団ネフ・ヴィジオンのリーダーたる《テルミドール》であった。


「ん? 何してるんだろ?」


 ティナは、その場に足を止めて、こてんと首をかしげた。

 〈テルミドール〉を含む、革命団ネフ・ヴィジオンの中核メンバー──『始まりの十二人』と呼ばれる彼らの多くは、旧辺境伯領の隠れ家アジトにいる。

 始めの一月半ほどは《テルミドール》もいたのだが、その後は、技術班に所属する《プリュヴィオーズ》を除いて、入れ替わり立ち替わりにこの領都に滞在する形になっている。

 とはいえ、革命団ネフ・ヴィジオンは作戦中である。激励のために《テルミドール》がここに来ていること自体はそう不思議ではない。

 ティナが首をかしげたのは、ほぼ誰もいない貴賓館に、彼がいるということの一点に尽きる。


「あ……」


 そして、ティナは気付いた。《テルミドール》がここにいるのなら、ジンが出て行ってからそう時を経ず外に出たティナが彼を見かけている以上、ジンも会ったはずだ。

 状況の確認にはこれ以上ない存在に会ったというのに戻ってきていない。

 なぜだろう。ものすごく、面倒ごとの匂いがする……!

 その時、《テルミドール》がふと振り返る。ティナの紫水晶アメシストの瞳と《テルミドール》の碧眼がぶつかる。

 ティナはとっさに身を隠そうとして、周りに何もないことに気付き、曖昧な笑みを浮かべて、小さく頭を下げた。

 《テルミドール》は少々驚いたようだったが、小さくうなずくと、ティナを手招きした。

 ──うわぁ……行きたくない

 《テルミドール》が呼んでいるということは、内容はどうあれ、なんらかの問題が起こったということだと考えられる。

 要するにかなりの高確率で面倒ごとである。ついでに言えば、ジンがいないこともまた、その予感を後押ししている。

 そうは思いながらも、ティナは諦観気味に肩を落とした。

 なぜなら、ティナもまた、《テルミドール》に用事がないわけではなかったからである。

 ティナ自身、半ば忘却しているが、ティナがカルティエ士爵領にいたのは、『始まりの十二人』の命を受け、セレーネ公爵の帰還に合わせ、動向を探るという目的があってのことだった。

 もっとも、その結果は惨憺たるもので、潜入3日目にして、休暇でカルティエ士爵領を訪れたジンにばれた挙句、クロエに付き合わされ、その後の事件に巻き込まれて負傷。あえなく、ヴィクトール領に帰還したわけだが。

 とはいえ、任務は任務である。報告はすべきだろう。

 小さく溜息を零したティナは、食堂に行くのを諦め、《テルミドール》の座る階下のホールへと降りていく。

 そして、仏頂面で《テルミドール》の対面のソファに座ると、


「何かようですか?」


 開口一番に、文句を口にした。まあ、本人的には、面倒ごとなど知らず、お腹を満たしていた方が幸せだったのだから、当人的には当然と言える。

 食べ物の恨みはなによりも大きいのである。


「いや、君も戻っているとは聞いていなかったのでね」

「任務は失敗です。あんな騒ぎの中、セレーネ領に侵入なんて無理ですから」

「ほう……まあ、予想していた通りではあるがね」


 そういってうなずく《テルミドール》を、ティナは軽く睨んだ。


「……わざわざ、わたしに頼む仕事でもなかったように思うんですけど」

「君ならば、と思ってのことだったのだがね。セレーネ公爵領の警戒態勢は、貴族領の中でも随一なのは、君も知っている通りだ。《メスィドール》麾下の隠密でも、その任務は困難を極める」

「……それ、わたしの瞳・・・・を見て言えます?」

「無論だ。私は、これでも君達には正直であるつもりなのだから」


 《テルミドール》は柔らかい口調でそう言った。その碧眼には、ただただ真摯な色が宿っている。

 しかし、ティナは、思わず、といった調子で顔をしかめた。

 《テルミドール》の目を見て確信した。こいつは知っている・・・・・。その上で、ティナにこの任務を依頼したということだろう。


「……私は体のいい駒じゃないよ? 《テルミドール》」

「私はもちろん、革命団ネフ・ヴィジオンという組織に、そのようなつもりはない。しかし、そのように感じのなら謝罪しよう」


 抜け抜けとそう言ってのけた《テルミドール》にティナは眉をひそめたが、そこであることに気付き、冷たい視線を向ける。

 先ほどから揺らいでいた、ティナの身体から発される気配が明らかに変わる。それは、他者を威圧し、押さえ付ける者の覇気。

 大の大人でも恐れを抱くほどの気配を身に纏ったティナは、不意に手を《テルミドール》に向けて差し出し、


「……実を求める者が、うつろを見せるものじゃないよ?」


 《テルミドール》の目を突いた。その指は瞳に触れるすれすれで止まったが、当の《テルミドール》はと言えば、身を引くどころか、瞬き一つせずに、ティナのほっそりとした指を見ていた。


「気付いたのかね? まったく、予想以上に素晴らしい洞察力だ」


 そんな臆した様子もない態度に、ティナは、無言で指を引いた。

 すると、《テルミドール》は、それを待っていたかのように、左目に手をやると、軽く触り、一度目を閉じた後、再び開いて見せた。

 その瞳は──


蒼玉サフィール……」


 ティナは呆然とした調子でつぶやいた。《テルミドール》の瞳には、まさに蒼玉サファイアと形容すべき輝きがあった。

 そう。ティナ自身の瞳のように、宝石のごとき透き通った輝きを持つ瞳が。


「もう分かったのではないかね? 君は実に聡明で、同時に自己保身に走り易い傾向にある。これ以上を敢えて語る理由もないことは理解できるだろう」

「ちっ……」


 ティナは小さく舌打ちを零した後、


「おっけいです。全部、わたしを試してたんですね。理解しました」


 降参だというように、両の手を広げて顔の隣まで挙げた。同時に、その身に纏った覇気は霧散し、いつも通りの彼女が戻ってくる。

 そんなティナに、《テルミドール》は小さくうなずくと、外していたカラーコンタクトを元に戻した。


「……性格悪いですね」

「この程度で性格が悪いと言われるのは心外というものだ。さて、《フェンリル・・・・・》。本題に入っても構わないかね?」

「本題、ですか?」


 ティナはこてんと首をかしげた。しかし、ティナ、ではなく、わざわざ《フェンリル》と呼んだ以上、そこには必ず別の意味があるに違いない。

 それはすなわち、先ほどまでのこととは、一切関わりのない、革命団ネフ・ヴィジオンのメンバーとしての新たな任務を与えるということだろう。


「ああ、ジンにもこの件には当たってもらっているが、少々人手が足りないものでね、君にも協力してもらいたい」


 ──ああ、だからジンいないんだ……

 要するにそれは、ティナが危惧していた面倒ごとそのものである。嫌な予感はしていたのだが、当たっていたとなると、やっぱりこう、胸に込み上げてくるものがある。

 ──お腹減ったんだけどな……

 残念ながら、食事その他もろもろは後回しにするしかないらしい。もし、貧血か何かで倒れたら、労働環境の劣悪さについて訴訟してやろうと思う。

 もっとも、そもそもの活動自体が、異分子イレギュラーかつ法外イリーガルな、革命団ネフ・ヴィジオンにそんなことを訴えかけるだけ無意味と言えるが。

 この組織、なにか問題が起きれば、終日出勤確定の職場なのである。よほど酷い状態でない場合も除いて。


「それで、なんですか?」

「目標は、この領都を襲撃している円卓の騎士ナイツ・オブ・ラウンズ、〈ブルーノ〉の撃破だ」

「ふぇっ?」


 紫水晶アメシストの瞳をまん丸に開いたティナの口から、間の抜けた声が漏れた。

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