第84話 連鎖 -butterfly effect- 15

 次に瞬間、ファレルは、瞬時に手首をスナップし、仕込んでいたナイフを投擲していた。

 しかし、高速と言って差し支えないほどの速度で投げられたナイフは、闇の中からにゅっと伸びて出てきた白い手によって、二本の指で白刃取りするという荒技で受け止められた。


「ほう、なかなかいいナイフ捌きじゃないかい。でもこれで堅気の線は消えたねえ」

「ちっ……」


 ファレルは舌打ちを溢し、ライトでその手の主を照らし出す。

 赤黒いマントに身を包んだ女。人相を読めないほどに深く被ったフードの影からは、妖艶な赤い唇が覗いていた。

 声が聞こえるまで、女の気配にまったく気付けなかった。相手がその気なら、ファレルは確実に、身体から首を切り離され、床に転がる物言わぬ人形と友達になっていただろう。

 背にしたドアを後ろ手に閉じ、頼むから余計なことしてくれるなよ、と信じてもいない神に祈るような気持ちで、カエデの存在を隠す。戦闘能力皆無のカエデを、この女と相対させるわけにはいかない。

 そして、警戒を解かず、ファレルはゆっくりとした調子で尋ねた。


「テメェ、何者だ?」

「はっ、答えると思うかい?」

「思わねーな」


 そんなピリピリと張り詰める空気をぶち壊すように、部屋の中から声が聞こえた。


「ファレル、ドアの前に立たれると邪魔だよ」

「黙って部屋に篭ってろ、そこの死人とお友達になりたくなけりゃな」

「なるほど、接触したわけだ。じゃ、頑張ってね。君が死んでも、僕も骨は拾えないよ」


 遅まきながら状況を把握したカエデが、あくまでも軽い調子で言うが、言っていることが悪質過ぎた。

 すでに何度か言っているが、カエデの戦闘能力は皆無である。そんな彼が、ナイフを指で白刃取りできる女に敵うはずもない。つまるところ、カエデは、ファレルが死んだら自分も死ぬことが確定するからがんばれ、と言っているのである。


「はあ……革命団ネフ・ヴィジオンってのはどっか抜けた連中ばかりなのかい?」


 女は、何やら呆れた様子で天上を仰いでいるが、その立ち姿にまったく隙はなかった。ファレルから目を切っているにも関わらず、だ。

 しかし、ファレルも攻め手に出るつもりはなかった。先手を打ってそのまま食われるくらいなら、会話で時間を稼いだ方が建設的だし、なにより、女は革命団ネフ・ヴィジオンと口にした。

 もし、名を騙っているだけとはいえ、革命団ネフ・ヴィジオンのメンバーであればそんな言い草はしないだろうし、ヴィクトール伯爵傘下の人間なら、赤黒い血に濡れたマントを羽織ってはいないだろう。

 考えられるのは、ヴィクトール伯爵を殺した人間の一味。そうであるなら、革命団ネフ・ヴィジオンが差すのは、今この領で革命政府を立ち上げようとしている革命団ネフ・ヴィジオンのことを言っているのではないのは確定的だが、その一方で、女は他のメンバーに会ったことがあるかのような言い草をした。

 抜けている、という言葉で、ファレルの頭に思い浮かぶのは、カエデ──まあ、ただマイペースなだけで、抜け目がないことにはないのだが──とティナ、そしてセレナだ。

 つまり、この女は、セレナを打ち倒した隠密である可能性が高い。

 正面からの戦闘ならば、ファレルにもまだ勝ち目があるだろうが、場所が悪い。ここは闇。隠密かれら世界フィールドである。

 だからこそ、ファレルは慎重を期せざるを得ない。よって、彼は、質問には答えず、自らもジンの推測を元に、カマをかけることにした。


「テメェは、御主人様エスメラルドに尻尾を振ってなくていいのか?」

「アタイが尻尾を振るのはロマンチストの御主人様って決めてるさね。そういうアンタこそ、尻尾を振る相手は選んだ方がいいんじゃないかい?」

「はっ、くだらねーこと言うなよ。おれのことはおれの意思で決める。誰かに振る尻尾なんざ持ってねーよ」

「悪くないねえ。アンタ、気に入ったよ」

「テメェに気に入られても嬉しかねーよ」


 互いに肯定も否定もしない。当たっていようと当たっていまいと、どうでもいいことなのだ。重要なのは動揺を見せないこと、隙を作らないこと、この二点だけだ。


「そうかねえ?」


 赤い唇を蠱惑的に歪め、笑み混じりに言う女をファレルは侮蔑を込めた目で睨み、


「言ってんだろ。虐殺者スローター風情に気に入られたかねーよ」

「ははっ、違いないさね。で、どうするんだい?」


 女はささやくように続けた。


「アタイは、アンタが素直に話してくれさえすれば、見逃してもいいんだよ?」

「はっ、笑わせんじゃねーよ。テメェこそ、ここでこそこそやってたこと吐いたらどうだ? 今なら見逃してやんよ」


 ファレルはそう啖呵を切りながらも、内心ではため息を吐いていた。どうやら闘争は避けられないらしい。


「ふふっ……ただの第二プランの予定だったんだけどねえ……なかなかどうして、楽しませてくれそうじゃないか」

「まっ、めんどくせぇことは後にして、端的に行こうぜ。どうせ、勝った方が正しいんだ」

「アタイ好みだねえ、そういうの!」


 次の瞬間、赤黒いマントが視界から消えた。しかし、ファレルは、仕込んでいたナイフを逆手に持って振るい、闇の中から飛び出してきた白刃を受け止めた。


「へっ、やるねえ」

「存外、遅(おせ)ーな」

「これくらいは小手調べさね」


 いつの間にか握られていた二本目のナイフが閃く。ファレルは、斬撃の軌道の向こう側に手刀を入れ、ナイフではなく腕を直接叩くことで、斬撃を無効化した。

 さらに、そのまま腕を絡め取って、女を引き寄せ、受け止めていたナイフを外側の押し出しながら、膝蹴りを叩き込む。


「くっ……」

「拍子抜けだな」

「そうかい?」


 ニヤリと口角を歪める女の様子を見て、ファレルは初めて自分の状況に気が付いた。女もタダで膝蹴りを食らうような人間ではなかったということらしい。絡めていた方の腕はいつの間にかナイフで切り裂かれ、赤い血が流れていた。

 言われるまで気付けなかった。切り口が鋭利過ぎて痛みがなかったのだ。その上、腕は上がらなくなっている。どうやら、腱を切られたらしい。あの一瞬の間にこれほどのことをやってのけるとは、凄まじい技量である。

 ──やべーな……

 切られた左腕は動かない。それは、つまり左側がまるごと全て死角になったということである。ただでさえ不利なのにも関わらず、先手を打たれて、打てる手を削られた。

 さっきも言ったが、正面からやり合えば、ファレルにも十分勝ち目のある相手だ。しかし、物理的に片腕を削られてはそうもいかない。

 否、あの女はそれを瞬時に理解し、その上で、確実な勝利のために、ダメージを覚悟で、五分の可能性を叩き潰したのだ。実に強かな戦術である。

 侮っていたのはファレルの方だった。売り言葉に買い言葉のような応酬の中でさえ、相手は常に冷静に敵を見極め、確実な勝利のために手を打っていたのだ。


「さて、諦めるかい?」


 女は赤い唇吊り上げて嗤った。しかし、ここで素直に諦めるほどに、ファレルは人間できていないし、何より負けを認めるのが癪で仕方なかった。

 これでも、ファレルは、対人戦、こと近接戦闘においては、先日の作戦で亡くなった〈プレリアル〉を除いて、まともに土を付けられたことはないほどの腕前である。そのことに対する自負もある。

 ここで負けを認めるのは、理性はともかく、プライドが許さない。


「はっ、おれもあいつを笑えねーな」


 ちょっとプライドが許さなくて、などと銀髪紫眼の狙撃手──ティナは言っていたが、今ここで心中では訂正しておこう。

 犬に食わせるようなものではない、と。


「へっ、折れたかい?」

「まさか、テメェをぶっ倒す算段を立ててたに決まってんだろ」

「へえ、その腕でやろうってのかい! いいねえ、楽しませておくれ!」


 再び赤黒いマントの影が消える。しかし、ファレルは闇の中から繰り出される斬撃を見切っている。

 女が両手に握ったナイフが縦横無尽に駆ける中、ファレルは片手のナイフを使って、最小限の動きでそれを捌いていく。

 ファレルは、壁を背にし、さながらフェンシングのように半身を突き出すことで、相手の剣筋の自由度を奪いつつ、動かない腕を庇っていた。

 右からの斬撃を刃を滑らせるようにして逸らし、追撃の斬撃は、逆手にしたナイフの柄で手を殴りつけて逸らす。

 白刃の軌跡だけが闇に閃き、ナイフを振るう二人の息遣いと時折響く金属音が、その演舞を彩っていた。


「ちっ……」


 そんな交錯が幾度となく繰り返され、ファレルは徐々に捌ききれなくなり、直撃はもらっていないものの、掠めた斬撃によって、ナイフを握った手からポタポタと血が伝っていた。

 明確に追い詰められている中、女はふとナイフを振るう手を止め、


「アタイとこの距離でやって、こうまで耐えるのも珍しいねえ。しかも、果物ナイフ一本で捌かれたのは初めてさね」

「はっ、お褒め預かり光栄だ」


 そう答えながらも、ファレルは冷たい汗を流していた。そう、ファレルのナイフは昨日買った果物ナイフなのである。軍用品は売っていなかったが故の苦渋の選択であったのだが、今になって思えば、隠れ家アジトから出る時点で、ジンを拾うだけ、と思って、きちんと武装してこなかったことが悔やまれる。

 おそらく女も気付いているだろうが、本来とは全く違う用途で用いられたナイフはすでに刃毀れだらけでボロボロである。それこそ、まともに斬撃を受ければ、砕けかねない程度には。


「さて、最後通告といこうじゃないか。黙ってアタイに従う気はないかい?」

「ねーよ、あの狙撃手といい、これ以上テメェらの好きにされてたまるか」

「何だい、やっぱりアンタ達が邪魔してくれたわけかい」

「おいおい、認めていいのかよ?」

「その程度ならアタイに不都合はないさね。一方的な確信ってのは存外利用しやすいものだからねえ」


 女にとっては、肯定も否定も無回答も大して変わらないらしい。相手が、何かを疑っているという事実や、その疑いに確信を持っている事実さえも情報になるということか。実に逞しい隠密根性である。

 それに──、と女は一度言葉を切り、その妖艶な唇を、狂気じみた感情に歪めた。


「吐かないなら殺すまでさね。その意味が分からないほど馬鹿じゃないだろう?」


 つまるところ、ファレルはもはや脅威とは認識されていないということだ。いつでも殺せるが故に、情報リソースの面からも、警戒の必要がないのだ。


「俺が終わったと決めつけるには早くねーか」

「そうかもねえ。アンタみたいなのは窮鼠猫を噛むタイプだろうからねえ」

「来いよ、ネズミも猫を殺すって教えてやんよ」

「へっ、やっぱり気に入ったよ、アンタ!」


 瞬時に切り込んできた女のナイフを、ファレルは受けない。身を屈めて回避し、逆に足払いをかける。

 女は跨ぐような最小限の動作でそれを避けると、素早く膝を繰り出す。しゃがみこんだファレルの顔面を狙う一撃。

 しかし、ファレルは同時に振り下ろされたナイフを、半壊したナイフをひ犠牲に防ぎながら、足と顔の間に腕を入れて蹴りを受ける。

 さらに、そのまま蹴りを受け流して横に転がり、ついでに足で壁を蹴った。


「ちっ……」


 舌打ちをこぼした女が、床に転がるファレルに追撃をかけるより先に、


「「吹っ飛べ!」」


 ファレルともう一人の声が重なった。


「なっ──!?」


 フードの女は、その場から大きく弾き飛ばされて、床に伏した。

 突然、勢いよく開かれたドアが、女を直撃したのだ。咄嗟に芯を外したのか、女は立ち上がろうとするが、予期していなかった女と、予期していたファレルでは対応までの時間が違う。

 ファレルは女の腕を後ろ手に捻り上げ、膝を乗せて床に押え付けた。そして、開いたドアから出てきた、今回の仕込みの立役者に声をかける。


「良くやった、カエデニート野郎

「誰がニートなのかな?」


 と言いながらも、カエデは懐から拳銃を取り出して、女の頭に突き付けた。


「さて、形成逆転だな。さっさと吐けよ」

「おやおや……捕虜にしちゃあ……雑な、扱いだねえ……」

「心配しなくても僕でもこの距離なら外さないからね、楽に逝けるよ?」


 普段からは考えられないような冷たい口調でカエデが言う。こんなのでも革命団ネフ・ヴィジオンの正規メンバーである。必要ならば、手を汚すことを躊躇するような甘さはない。


「おまえを使ってるのは誰だ? エスメラルドか?」

「さて、ねえ……」


 ファレルがさらに腕を強く捻り、膝を押し込むことで、肩の関節を外した。

 常人ならば絶叫するほどの痛みがあったはずだが、女は顔色一つ変えない。


「アタイが、拷問した、ところで、吐くような、タマに、見えるかい?」

「見えねーな。だが、必要ならやるだけだ」

「へっ……」

「あんまり動くなら関節くらいは砕こうか?」

「まだ必要ねーだろ。で、おまえはどこの誰に仕える隠密で、何のためにここにいるんだ?」

「そりゃ、決まってる、だろう……? ヴィクトールを、潰すため、さね」

「じゃあ、ここで何やってた?」

「なに、ちょっと、お手伝いを。ねえ?」


 ゴキっという音がしたと思った瞬間、ファレルは廊下の壁に叩き付けられていた。

 衝撃で肺腑から息が吐き出され、呻きが口から漏れた。


「がっ……!? ごほっ、ごほっ……」


 無理やり息を止めて、顔を上げたファレルの前には、黒い銃口が突き付けられていた。

 銃を握った女の足元には、同じように吹き飛ばされたのか、床に沈んでピクリとも動かないカエデの姿があった。


「さあ、形成逆転だねえ?」

「くっ……」

「心配せずともお友達は殺しちゃいないさね」

「テメェ……どうやって……?」

「はっ、愚問だねえ? アタイが、取り押さえられた時のことを想定していないとでも思っていたのかい?」


 当然のように言う女の様子を見て、ファレルは優位を取った時点で最低でも両腕と両脚は使えなくしておくべきだったと後悔した。拷問は意味をなさないが、抵抗を殺す意味では、確実に打っておくべき手だった。


「まあ、種明かしすれば、単純に関節を外しただけのことなんだけどねえ。アンタのおかげで一つ外す手間が省けたよ。感謝しないとねえ」

「…………」


 自分で関節を外して、本来の可動域を超えた範囲で身体を動かすことで、押さえつけていたファレルを押しのけたということなのだろうが、想像を絶するほどの激痛があるだろうに、ファレルとカエデという大の男二人をまとめて吹き飛ばし、わずかな間に関節を嵌めなおし、銃を奪うなど、まったくもって人間技ではない。


「化け物が……」

「はっ、アタイなんて可愛いもんさね。で、どうするんだい? 万策尽きたってとこなんだろう?」


 そう言いながら、女は、こっそりと伸ばされていたカエデの手を踏み潰した。


「ぐあっ……」

「よしな、アンタ、戦闘員じゃないんだろう? アタイの相手をするには力不足さね」

「くっ……」


 カエデの相手をしながらも、ファレルから一切意識を逸らすことはない。そこに隙はなかった。

 その時、ふと、何かに気付いたように、女は袖口から何かを取り出した。そして、それを耳に当てると、ニヤリと口角を歪めた。

 そして、引き金を引く──

 しかし、派手な音が響いたものの、そこにはあるべき惨劇はなかった。


「なるほどねえ」


 してやったりとばかりに笑みを浮かべたカエデが、地べたに這いつくばったまま言う。


「それ空砲なんだよね。僕、ド下手だから実弾持ってないんだよ。まあ、反撃の一手にはならないみたいだけど」

「くっくっくっ……ははっ! やるじゃないか、見直したよ」


 女は楽しげな笑みをこぼし、そして、銃から弾を抜いてから投げ捨てると、


「なんだい、命拾いしたねえ、アンタ達」


 そのまま闇の中に溶け込むように消えた。そして、ふと思い出したように、こう、付け加えた。


「そうそう、セレナによろしく伝えといておくれ。良い仲間を持ったじゃないか、とでも、ねえ」


 取り残された二人は、しばらくの間沈黙を共有した後、ゆっくりとした動作で立ち上がる。


「バレちゃってたか……見逃されたね、完全に」


 カエデはそう言いながら、投げ捨てられた銃と弾丸を拾い上げた。空砲なのは最初の2発だけで、他は実弾だったのだ。

 奪われた時の対策だったのだが、結局、見透かされて終わっただけだった。

 そのことは雄弁に語っていた。あの女は、殺せた相手を殺さなかったのだ。

 情報源にするどころか、弄ばれた挙句、みすみす逃した。

 壁に手を付いていたファレルは、そのまま、壁を殴りつけた。


「くそっ!」


 叩き付けた拳の痛みが、敗北感と悔しさそのものだった。

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