2 ぼやけた記憶の輪郭
穏やかな日差し、ないだ海の上をゆらゆらと漂う舟の上には二人の男。
一人は釣り竿を手に、一人はおおきな網を海に投げ込んでは小魚を獲っていた。
網を引き上げようとした男が、ぴくりと肩を震わせ、釣り竿男を振り返る。
「お、おい……」
「なんだぁ?」
網を持った男の怪訝そうな声に、釣り竿の男は釣り糸を引き上げ、釣りを中断する。
「なんか人が網にかかったみたいだが…………この頃船って難破したか?」
嫌な話に男は顔をしかめるが、地形のせいなのか、このあたりの海では日常茶飯事。少し前には大型船が座礁し、何体もの遺体が海を漂った。だが、それももう半月前のこと。
「いんや、しばらく聞かねえがな」
「だけど、こりゃ、ずいぶん新しい溺死体だぞー」
釣り担当の男はしぶしぶのように網の中を覗き込んだ。溺死体というのは、大抵が酷い有様。肉はふやけて魚に食われる。あまり拝みたくないものなのだ。鼻でもつまみたい気分だった男は、しかし、目を丸くする。
その体は、あまりにも美しかった。凄まじく精巧に作られた人形のようだったのだ。
「おんや」
「言ったとおりだろうが?」
相棒が網を握りしめたまま誇らしげにする。
まじまじと見ていた男の頭に、一つの情報が湧き上がった。少し前のことだが、その話が広がったときには、皆やっきになって捜索をしたものなのだ。
「こりゃ、あれじゃねえか。ほうら、城からお触れが出てた、あれ」
「ああ! あれか、あれ!」
目を丸くした相棒が相槌を打ち――
「おわ!?」
直後、男は釣り竿ごと海に放り出された。
「あ――! おい、抜け駆けする気か!」
立泳ぎをしながら男は叫ぶ。
「悪いが、こいつぁ、おれの網にかかったんだからな! 手柄も懸賞金もおれのもんさ!」
相棒は舟を漕ぎだす。男は、海の男だ。こんな凪いだ海で溺れはしないけれども、相棒は手柄とともに、すいすいと小舟を漕いでいく。仕事仲間の裏切りに、歯噛みしながら男は叫んだ。
「――あとで覚えてろよ!」
* * *
ユウキが目を開けると、真っ白な天井が目に入った。
(眩しい――)
一気に視界に差し込んだ光を受け止めきれず、開いた目をすぐに細める。
(あれ……? ここ、って)
見知らぬ風景に、自分の部屋ではないとすぐに察した。
目を動かすとベージュのカーテン。銀色のサッシの大きな窓。あらゆる装飾が削ぎ落とされたような部屋だ。
確かに知らない場所だった。だというのに、見覚えがあるのはなぜなのだろうか。つい最近、ここにいたような気がして仕方がない。
「夕姫!?」
目を動かすと、ひどくやつれた母の顔があった。そして母は悲鳴のような声で「真山先生!」と叫んだ。
バタバタと数人の足音が響いたかと思うと、ドアが開く音がする。
「賀上さん、意識戻ったって!?」
耳に膜が張っているようで、音がこもって聞こえた。
(あれ、わたし……寝ぼけてる?)
頭の一部に靄がかかったよう。
とにかく五感すべての感覚が鈍かった。ずっしりと身体が重く、指先一つうまく動かせない。まぶたさえ重い。なのに頭だけが覚醒している感じ。その感覚に覚えがあった。
(最近、こんなこと、あったような……?)
記憶まで曖昧だ。前後不覚というのはこういう状態だろうか。思い出したくて首を振ろうとするけれど、やはり無理。とにかく、どうしてこんなに体が重いのかわからない。
「ユウキちゃん?」
声が耳の傍で響く。目線をノロノロと動かすと、見知らぬ壮年男性。白衣を着ているところを見ると、医者だろうか。どうしてか初対面には思えない。
「あ、なた、は」
「僕のことを覚えていないかい」
「は、」
い、と言う前に声がかすれた。瞬きで続きを――是と答えると、その男性は顔をしかめた。
「背中を怪我しているんだ。それで、少し強い鎮痛剤を打っている」
ユウキは腕に刺さった点滴の針を見つめた。
「け、が?」
ああそれで、こんな状態――と思うけれど、どこで怪我したのか全く覚えがない。事故だろうか。それにしても、まったく状況がわからないなどということがあり得るだろうか。
ユウキは記憶を探る。だけれども記憶の海に伸ばした手は、何の思い出も掴んでこなかった。
そんなユウキへ、遠慮がちに、労るように質問は続く。
「どこで、どうやって怪我をしたか覚えていない?」
「け、が? ど、こ? です、か?」
するとどこからか別の声が上がった。
「――君の家だったみたいだよ。鍵は玄関も窓も閉まっていたんだけど、誰が――いや、なんでもいいから、覚えていないかい」
目だけを動かすと、スーツを着た男性が二人いるようだった。濃い色の服は、白い世界で異様に浮いている。だが、注視するのも長くは続かない。目を閉じるとぐるぐると世界が回っている気がした。
「今起きたばかりなんです。問答は無理です。もうちょっと休ませてあげていただけませんか」
母の切羽詰ったような声がして、人が外に出る気配がした。
あれは誰だろうと考えていると、どこにいたのだろうか、タクヤの声が響いた。
「ねえちゃん、あれ、警察のひとだよ」
僅かに抑えた声は怯えたように震えた。タクヤは構わず言い募る。
「ねえちゃんの……背中の傷だから、刺されたって疑われてる――なぁ、ほんと、何も覚えてないのかよ?」
いつしか、タクヤの声は怒りをはらんでいた。
(刺された?)
家にいてどうして? 自分にはあまりにも縁遠くて、他人事のようだった。
眉をしかめるユウキに、タクヤは更に問う。珍しく必死な様子だった。
「ねえちゃん、どうして――」
「タクヤ。今は休ませてあげて」
母が遮ると、弟の追及が止む。部屋が静まり返ったとたん、ユウキの意識はずるずるとベッドの下へと沈んでいく。海の底に引き込まれていくみたいな――
(あれ? この感覚にもまた、覚えがある)
それもつい最近味わったような。
ひどく不可解な気分のまま、ユウキは夢の中に落ちる。夢で会いたい人に会えればいいのに――そんな願いが泡のように浮かんだ。
けれど、誰に会いたいのかがわからない。見たい顔の輪郭はピントがずれてぼやけている。もどかしさに溺れながら、ユウキは重い体を引きずって、夢の中をさまよった。
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