22 恋した誰かのために
風が吹き込み、クリスが目を上げると、視界の端――薄闇の中、何かが、動いた。
無防備になったところを狙った刺客だろうかと、クリスは身構えた。
身の回りの世話をする使用人はすべて下がらせているものの、外には護衛の兵がいるはず。どうやって入りこんだのかわからない。
「誰だ!」
クリスが鋭く誰何すると、小さな影が大きく伸び上がる。その人物が立ち上がった瞬間、クリスは一瞬、呆然とした。
「なんで、おまえがここにいる!」
「エミーリエ!?」
ユウキが驚いて振り向く。そして目を見開いた。エミーリエの手には小さなナイフが握られていた。
「何の真似だ?」
問うたあと、彼女が口が利けないことを思い出し、聞いても無駄だったと思い直す。だがエミーリエは小さく首を横に振り、言った。
「この結婚が成立すると困るんだよ」
クリスは言葉を失った。そしてゆっくりと納得した。それならば、彼女が口を利かなかった理由や、クリスとオフィーリアの結婚を妨害しようとした理由がわかるからだ。
「カタラクタの者、か」
エミーリエが口にしたのはカタラクタ語だったのだ。幾つもの言語を習得しているクリスは、言葉は耳から入って身に染みこんでいくようなものだと思っている。エミーリエは、聞き取れるけれど、話せない。だから、ボロが出ないように話さなかった。
そしてパンタシアとリーベルタースの結びつきはカタラクタを脅かす。だからこそ、彼女は送り込まれたのだ。クリスが黒髪の死体に執心しているという噂を聞きつけて。クリスを様々な方法で、籠絡しようとし、政略結婚を妨害した。
いろいろな情報が結びつき、納得する。
だが、納得してすっきりしている場合ではない。
ナイフを警戒しながら、クリスはユウキに目を配る。彼女は何が起こっているかわからない、という様子で食い入るようにエミーリエを見つめたあと、ふ、と童話本に目をやり、息を呑んでつぶやく。
「そうだ。人魚姫の、最後の、選択……」
ユウキはどんどん青ざめていく。彼女が何を危惧しているのかわからないが、目の前の危機をどうやり過ごすかを優先させるべきだ。クリスはエミーリエのナイフを睨む。
(どちらが標的だ?)
物語の、この先の展開を知らないことが悔やまれる。だが今本を開く余裕などとてもない。
だがユウキは確信を持っているかのようにクリスを背にかばった。
「エミーリエ、あなた、クリスが好きだって言ってたよね!?」
「そんな嘘を信じて……あんた、おめでたいねぇ」
エミーリエは呆れたようにため息を吐いた。
「アタシは、黒髪の死体にご執心の王子様を落とすために、攫われてきたんだよ。だから、役目が果たせなけりゃ、命がないんだ」
泣きそうな顔で、エミーリエはクリスを睨む。
「だけど、どうやら、そっちは望みなしだ。なら、もう一つの手段に出るしかない。結婚だけは阻止しろって言われてる――もう手段は選べない」
「なんで!」
ユウキが叫ぶとエミーリエは笑った。
「世間知らずのお姫様はこれだから。大国パンタシアとリーベルタースが結べば、間
のカタラクタはどうやって生き残る? 二つの国は結託してうちの鉱山を奪い、国ごと潰しにかかるに決まってる」
カタラクタが危惧するのも当たり前だとクリスは思う。あの国は昔からそのために人質のように王女を差し出して、なんとか平和を獲得してきたのだから。
だが、クリスの祖母は他界し、カタラクタへの攻撃の抑止力はもはやない。
そして、リーベルタース側も同じく。もともと人質でしかない娘に力などないのだ。
新しい絆はカタラクタの王女不在で、途切れようとしている。
両国は虎視眈々と機会を狙っていた。そしてとうとうその時がやってきた。
大陸を覆う力の均衡が崩れる時が。
(あれ?)
何か、違和感があった。
パンタシアとリーベルタース、二つの国を結ぶ政略結婚。カタラクタをつぶし、二つの国が力を合わせるための大事な政略結婚。
(だというのに、リーベルタースは、偽物の花嫁をよこそうとしている? ――それは、つまり、どういうことだ)
ユウキのことばかりに気を取られて、大局を見失っている気がしてならなかった。ぞわぞわと這い上がる悪寒にクリスが身震いした時だった。
ユウキが「エミーリエ、だめ!」と、エミーリエに向かって叫んだ。
注意が散漫になっていたクリスは、はっと我に返る。
「エミーリエ! 人魚姫は、王子様を殺せなかったはずだよ! 王子様を、愛してるから! 自分より、王子様が大事だったから!」
「人魚? なに言ってんだ。アタシは、そんなバケモノじゃない! 王子を愛しても
いない! 単に命が惜しいだけだ」
「だけど! クリスを襲ったら、あなただってただじゃ済まないよ!」
「そんなこと最初から覚悟の上だ」
「それ、命が惜しいから、結婚を妨害するって言ってたのに矛盾するよね?」
エミーリエははっと息を呑んだ。それに力を得たように、ユウキは説得を続けた。
「だめだよ。あなたの家族だって悲しむ」
家族、という言葉にエミーリエの顔が歪んだ。だが、すぐに彼女はユウキから目をそらし、ナイフを構え直す。
「アタシがこいつを殺れば、あんたは自由だ。好きな人のところに行けるんだよ。――だから、邪魔せずに退いてな!」
一気に殺気をまとい、目を釣り上げるエミーリエにクリスが構えると、
「クリス、危ない!」
ユウキが突如抱きついて視界を遮った。ほぼ同時に、エミーリエが体当たりをする。
どん、という衝撃とともに、エミーリエをユウキごと腕の中に受け止めると、
「――――っ! は――あっ」
胸の中のユウキが痙攣するように大きく震え、直後脱力する。
「あんた――どうして。どうしてこの男を……」
エミーリエは驚愕に目を見開いた後、恐怖に顔をひきつらせたまま部屋の隅で膝を折る。
背に回した手がぬるりと滑った。クリスは目を見開く。手のひらが赤く染まっていた。見るとユウキの背にナイフが突き刺さっていた。
「ユウキ!?? ユウキ! ――誰か!」
大事なものが手の中からすり抜けていく気がした。
恐ろしさにクリスは発狂しそうになり、助けを呼ぶ。
だが、なぜか誰も現れない。静まり返る部屋の中、クリスの腕の中でユウキは「……あぁ、そっか」と何かを悟ったようにつぶやいた。
「人魚姫、って、ね。つまりは、自己犠牲の、お話なんだよ。恋した誰かのために、自分を、犠牲にする、愛の、おはなし。だから、これで、よかった――の、」
また遠回りしちゃった。と、ひとりごちたユウキが咳き込む。
「わたしは、ここから、去らないと、だめ、だから」
それ以上言わせない。クリスは遮る。
「ユウキ! だめだ。――だめだ!!」
だが、ユウキはクリスの拒絶も無視して続けた。
「わた、し、かえ、る、ね」
クリスの絶対聞きたくない言葉を吐いた。
「嫌だ」
ユウキは弱々しい力でクリスの腕を剥がそうとする。離したくない。強く抱きしめたいと思ったけれど、背中の傷を思うと、手を回して囲うだけで精一杯だった。
クリスが離さないと、ユウキは小さく笑う。
「こんどは、待たない、で。わたしを、忘れて……ぜったい、しあわせに、なって」
絞りだすように言うと、ユウキは一度クリスの胸に頬を寄せた。今にも先立とうとするような言葉を、クリスは全身で拒絶する。
「なんなんだよ、それ。死ぬつもりかよ!」
だが直後、渾身の力を振り絞るようにして、ユウキはクリスを突き飛ばした。
不意を打たれ、バランスを崩したクリスはベッドの向こう側に落ちる。慌てて起き上がった時にはユウキは部屋を出ようとしていた。
ユウキがどうする気なのか。どうしたいのかがわからなかった。
(何か――何かが心に引っかかっているというのに)
焦燥に焼かれたクリスの視界にユウキの童話本が映った。
(――おれは、どうして結末をしっかり確認しなかった!)
本を引っ掴むと、ふらふらと甲板に出ようとしているユウキを追いかける。
部屋を出ると、見張りの兵が寝入っている。エミーリエに薬でも盛られたのだろうか。
視界に広がった紫色に染まった空は、夜明けが間近なことを知らせていた。
右を見て、左を見る。ユウキは東の空に向かって、体を引きずるようにして歩いていた。
「どこに行くんだ! やめろ――歩くな! 出血がひどくなる!」
叫んだクリスの手から本が滑り落ち、クリスは目を見開いた。
それは、偶然なのか、必然なのか。
開いた頁には、海に飛び込む人魚姫。
船べりに足をかけるユウキと挿絵が重なると同時に、物語とユウキの言動が結びつく。
(人魚姫に、配役交代――って、つまり、やっぱり、おまえはまた死ぬ気なのか!)
クリスは叫んだ。
「行くな――行くな! ユウキ、おれは待つなと言われても、待ってしまう。愛してるんだ。だから――行くな!」
さきほど決死の思いで口にしたのに、届かなかった言葉。口から溢れたあと、パンタシア語では伝わらないのだと思いだした。
だが、ユウキはクリスを振り返る。
「今の、パンタシア、語?」
何を問われているのかがわからなかった。もしかしてリーベルタース語で言ってしまったのだろうかと思ったが、とっさに出るのは母国語に決まっている――と思った直後。
質問の意味に気がついて、クリスは戦慄した。
「通じた、のか?」
(パンタシア語が? さっきまでわからないって――)
ユウキは、嬉しそうに、だけど切なそうに笑っていた。
「聞こえた。最後の、欠損が治った……よ。どう、やら、これが、正解、みたい」
それがユウキにとっての朗報だとはわかっている。彼女が帰れることを喜ぶべきだと思うのに。
だけど、欠損などどうでもいい。物語の正解なんて、どうでもいい。
今が――今ユウキがここにいることが、クリスにとっては全てなのに。
泣き叫びたいような気持ちで必死で手を伸ばす。だが、
「さよなら」
ユウキは船べりを乗り越える。
「待ってくれ! 行かないでくれ!」
朝日が顔を出し、赤く染まる海に、ユウキの体が落ちていく。
「行くな……!」
クリスの手は、声は、届かない。
海面には小さな泡だけが残されていた。
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