12 二者の境界線
正体を確かめるため――そう言い聞かせてエミーリエの元に通い詰めていたクリスは、次第に目的を見失っていた。
エミーリエが笑えばユウキが笑ったように思えてしょうがない。相変わらずエミーリエは喋らなかったが、二者の境界は日に日に虚ろになった。エミーリエはやはりユウキなのではないか、クリスは次第にそう思いかけていた。
だが、過ぎゆく時はクリスが甘い夢に浸っていることを許さない。
クリスは成人し、義母との約束を果たす時を迎えてしまった。
成人してしまった以上、母親の言いつけは絶対だった。母はクリスにリーベルタースに行けと命じた。そして約束通りに結婚相手を決めて来いと。
クリスはユウキは目覚めたのだ――エミーリエがそうだと言い張った。だが、エミーリエがユウキであるという確証が得られていないせいで、母は納得しなかった。
ユウキが消えたのが母の策略なのではないかという疑念はある。だが、エミーリエがユウキであると証明できないのはクリスも同じなのだ。
ここで間違うことは出来ないと思った。
だから、可能性があるのならば、肖像画の姫君に会って、彼女がユウキではないと確かめておこうと思ったのだった。
姫がユウキではないのなら――クリスは、エミーリエを選ぼうと思っていた。
そんな煮え切らない態度を責めているのだろうか。リーベルタースに到着してからというものの、あからさまにエミーリエの態度が変わった。恋人のように振る舞うようになってしまったのだ。控えめで慎ましかった態度を思うと、豹変と言っていい。
そのせいで、クリスはエミーリエに違和感を感じ始める。
そして、姫君の風邪のせいで、対面が済まないままに決定的な事件は起こった。
リーベルタースに到着して三日目の夜だった。
「あのさ……頼むから、部屋から出て行ってくれないか」
エミーリエはとどめを刺すかのようにクリスの部屋に入り込んできてしまったのだった。しかも今は真夜中だ。その意味がわからないほどクリスはこどもではない。
じりじりと後ずさりをしているうちに壁際に追い詰められたクリスは、追い詰めた相手を静かに諭す。だが彼女はまるで聞こえていないかのように妖艶に微笑むだけ。その笑みは、まるで知らない女のもの。昼と夜で顔を変えるこの少女は一体何者なのだろうと思う。
(まさか、娼婦とか――でもこの歳で?)
港で売られていたと言っていた。見捨てれば悲惨な未来が待っているからとわかっていたからこそ引き取ったのだが、もしかしたら既にそんな職業に身を落としていたのかもしれない。
言葉が通じないことで守ってやるべき対象だと思い込んでいた。迂闊だったと思う。裏を返せば、話すことが出来ないだけで、ほかは十七歳の少女と何ら変わりがないのだ。そして年頃の娘を近くに置くには、相応の覚悟が必要なのだと、クリスは思い知る。
「近づかないでくれ」
クリスの言葉は完全無視で、エミーリエは距離を詰めてくる。後ろに逃げ場を失ったクリスはそのままカニのように横へと移動を始めた。
(これじゃあ、愛人だとか噂が立っていても文句言えないし……!)
リーベルタース城の使用人たちの視線が冷ややかなことに、感づかないほど鈍くはない。理由を探ったところ、ルーカスが「愛人連れで来てるって噂になっていましたよ?」と他人事のように言ったのだった。
そしてエミーリエは、まるで噂を事実にするかのように、クリスに迫ってきている。ユウキにそっくりな外見で、熱のこもった視線を向けるのだ。十五まで女になりきっていて、その後はユウキ一筋だった――つまり女慣れしていない彼に軽くあしらえと言うのは酷だと思う。
だが、焦りと同時に、思考が停止していた頭が働き出すのがクリスにはわかった。
(っていうかさ、よく考えるとおかしいだろ!)
そもそも、女性が、こんな夜中に用もないのに王子の部屋に易々と入り込めるはずがない。宮殿二階の東側は全てクリスのために使われてている。出入り口は厳重に警備が敷かれているから、一階の客間を使っているエミーリエがこの場所に入り込むには手引が必要だった。
手引する人間など一人しか思い浮かばない。この顛末を面白がっていたあいつだ。
(ルーカス――あんの、役立たず!)
ルーカスはエミーリエの豹変について「恩返しのつもりかもしれませんねえ、いや、そういうつもりで囲われてると思っているのかも」とのんきに言っていたのだ。だが、冗談ではない。身にまとう悪評など、死体愛好家一つでも多すぎる。
ルーカスへの悪態をつきながら、ともすれば寝間着姿の少女に堕ちそうになる自分を叱咤する。
「俺には――心に決めた人がいるんだ」
振り絞るように言うと、わずかにエミーリエの顔色が曇る。一瞬の隙がクリスの心に余裕を与える。
(そうだ。――ユウキならこんなことは絶対にしない!)
気づくとエミーリエに重なっていたユウキの像が完全に消えた。これはユウキではない――そう思ったとたん、あれだけユウキに似ていると思っていたはずのエミーリエがまるで別人に見えた。
クリスは力を得て言い募った。
「その人は、森でさまよってた俺を助けてくれた。命の恩人だ。妻にするなら――彼女以外は考えられない」
エミーリエを退ける言い訳をしているはずが、口からこぼれたのは紛れも無い本音のようだった。クリスは自分に驚く。彼女と過ごしたのはほんの半月ほどの間だけ。あとは眠る彼女の前でただ目覚めを待つだけの日々だった。だが今も森で過ごした日々は未だ色褪せない。永遠の輝きを持つ宝石のようにクリスの心に鎮座しているのだ。
森の中の木漏れ日を思い出すと、じわじわとユウキの顔が輪郭を取り戻す。浮き上がった顔は、エミーリエとは全く違う顔をしているように思えた。
「君のことは大事に思っているけれど……そういう感情を持つことは出来ないんだ」
エミーリエに心が救われたのは事実。それでもきっぱりと言い切ると、エミーリエは悲しげにうつむいた。しかし名残惜しげに部屋を出ようとしない。また迫られては敵わないと、クリスは自ら部屋を飛び出した。
宮殿の東端にあるバルコニーまで逃げたところで、膝が笑って立ち止まる。手すりによりかかり、しゃがみこんだクリスは、膝を抱えて深く嘆息する。
(エミーリエはユウキじゃなかった……のか)
振り返ってみると際どかったと心底思う。いつの間にか沼に足を取られて抜け出せなくなっていたのだ。思っていたよりも心を病んでいたのだと自覚する。誘惑に負けなかった自分を全力でほめてやりたかった。
(……じゃあ、ユウキは一体どこに消えた?)
一転してまやかしに惑わされていた自分を叱咤したくなる。以前ここにやってきた時には、手がかりを求めていたはずだったのに。目の前の安易な幸せに逃げようとしていたのだ。喪失の悲しみが消えたと……信じたかったのだ。
(馬鹿か、俺は。どれだけの時を無駄にした)
肖像画が眼裏に浮かび上がる。まだ対面できていない姫君のことを思うと、本物をないがしろにしていた可能性に、胸の内の焦燥がちりちりと音を立てだす。
もし。もしも彼女がそうだったとしたら? クリスの遠回りをどう思っていただろうか。
(リーベルタースの姫君……オフィーリア王女)
見渡すと宮殿の一室には灯りがぽつりぽつりと灯っていた。最上階の西端にもまだ灯りが灯っているが、もしかしたら姫君の部屋かもしれないと思った。
(一刻も早く会わないと)
エミーリエによって曇っていた視界が晴れた今、本来の目的が再び顕になった気がした。
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