11 月の浮かぶ池へ

 今朝がたパンタシアからリーベルタースの王宮へとやってきた王子は、死体愛好家という不名誉な噂話をまとっているだけでなく、なんと、愛人を連れていた。

 愛人はしかもあるじのオフィーリアにどことなく似た少女。つまり、王子は節操無しだとハンナは決定づけた。

 オフィーリアを慕って何度も会いに来る熱心さを買って、変態は大目に見たらどうか――でも――と、なんとか気持ちに折り合いをつけようとしていた折のことである。ハンナは王子に伴侶落第の判を押し、主が不在であることを心から喜んだ。


(……だけどねえ)


 身代わりの少女にはまったく落ち度がないところに、どうしても良心の呵責を感じる。オフィーリアに似てしまったせいで、変態で誠意のない王子と結婚させられてしまうのだ。しかもオフィーリアが見つかったあとは、きっとしまう。この世にオフィーリアは二人も要らないのだから。

 悶々としながら部屋の前で待機していたハンナだったが、寝静まっているはずの部屋からブツブツと娘の声が聞こえてきたのだ。娘はどうやら口がきけないのではなく、言葉がわからないだけの異国人であるようだった。この辺りでは聞いたことのない言語を使う。

 大陸では主にリーベルタース語、パンタシア語、カタラクタ語という三つの言語が使われているが、ハンナはリーベルタース語とパンタシア語を嗜む。二つの言語はルーツが同じなので、どちらも使える人間は多いのだ。だが原住民の言葉がルーツであるカタラクタ語だけは苦手だった。


(でも、カタラクタ語でもなさそうなんだがねえ)


 万が一侵入者だとまずいと思ったハンナは扉を開けた。だが部屋には人影は娘のもの一つのみ。


「独り言かい?」


 ほっとしつつ尋ねる。だが娘の顔にはどこか焦燥感が滲んでいる。どうしたのだろうかとハンナは目を細めた時だった。

 娘が突如駆け出したかと思うと、軽やかにハンナを躱して部屋の外に逃亡したのだ。


「――ちょっと待ちな!」


 ハンナは追いかけるけれど、無駄についた肉のせいで身軽な娘には全く追いつけない。

 ハンナが大声で救援を頼むと、あちらこちらからわらわらと衛兵が湧いて出た。


「娘を――を捕まえてくれ!」



 *


 ユウキは逃げに逃げた。結婚だけは嫌だ――ならば逃げてしまうべきだと、ハンナと扉の間に隙間を見つけた時、とっさに動いてしまっていたのだ。

 だがどこから現れたのか、追いかけてくる衛兵はどんどんと増えていく。幸いまだ前を塞がれてはいないけれど、時間の問題だ。ユウキは行く先のあてもないままに疾走する。

 と、前方に大きな掃き出し窓が見えて、ユウキは顔を輝かせた。


(やった――外に逃れられる――!)


 だが、窓を大きく開け放ったあと、眼下に広がる景色にユウキは怯んだ。

 山脈を右翼と左翼に抱えた平原が広がっていた。そしてその先には月の色に輝く水平線が世界の広さを主張している。

 突如、風景画の中に放り込まれたような心地だったユウキだが、後ろから響く怒声に状況を思い出した。


(ちょっと……なにここ――高、い!)


 そういえばここは三階だったと思い出す。落ちたらただでは済まない高さだ。

 足元を風が駆け抜けてスカートの裾が舞い上がる。

 恐る恐る手すりを掴んで下を覗くと、そこには海と同様にクリーム色に光る池があった。どのくらいの深さだろうか。浅かったら怪我するかもと思ったが、背に腹は代えられない。

 近くで足音が上がってユウキは振り返る。


「――――!」


 いたぞとでも言っているのだろうか。こちらに向かって指をさしている。後ろにはよろよろと追ってくるハンナもいる。


(迷ってる暇はない!)


 ここで捕まってしまえばもう逃げるのは無理だ。


(このまま流されるわけにはいかないんだから! わたしはだけは、絶対にごめんだよ!)


 ユウキは手すりによじ登ると、月の浮かぶ池に向かってダイブした。

 だが、普通の女子高生であったユウキが、飛び込み選手のように華麗に飛び込めるわけがなく――結果、腹を激しく打った。

 全身を巨人に打たれたらこんな心地かもしれない。衝撃で目がくらむ。そして池は幸か不幸か深く、足が届かない。


(泳げるとか思ってたけど――)


 着衣でなど泳げない。しかも長いスカートを履いていては。泳げるのは水着を着た状態での事だったと、今更気がついたユウキはもがく。だが池の水を大量に飲み込み、気管が焼けるよう。手足が動かない。


 「たす、けて――!」


 一瞬水面から顔が出たユウキは叫ぶが、きっと言葉は通じないだろう。

 どこかでばしゃんという水音がした気がしたけれど、何の音か確かめる事もできないまま、ユウキは暗い水の中に引きずり込まれた。



 *



「ったくさあ……アタシ、この頃水難の相でも出てんのかねえ。つい最近だよ、海で溺れてるあの人を助けたの」


 耳に懐かしい音を聞いた気がして、ユウキはぼんやりと目を開けた。


「あーあ……このままじゃあの人のところに戻れないじゃないか。色が落ちちまった」


 高くて透明な鈴のような声。女の子の声だけど、なんだか気取らないしゃべり方だ。雰囲気がなんとなく出会った頃のクリスに似ていると思ったら胸がすさまじい音を立てた。と、人の顔が近づいて、ユウキは完全に目が覚める。


「あれ? 起きた? あんたは誰だよ」


 我に返ると同時に、興奮がじわじわと全身を駆け巡った。


「……ええと、ユウキです。カガミユウキ」


 ユウキは声が上ずるのを抑えきれない。胸が大騒ぎをする。


(だって、だって! !)


 たった今、欠損が修復されたような気がしてしょうがなかったのだ。


(え、え、どうして? 今まで全然だめだったのに!)


 溺れたせいだろうか。それともこの少女に出会ったからだろうか。わからないけれど、とにかく一段階話が進んだということになる。


「あ……の、あなたは?」


 なんだか目頭が熱くなる。いままで我慢していた人恋しさが一気に湧き上がって溢れ出そうだった。いくらでも話がしたくてユウキは会話を続ける。


「ちょいとワケアリでさ。名乗れないんだよなあ――――って、そうだ。オマエ、簡単に命を捨てるんじゃじゃねえよ!」


 急にすごい剣幕で怒りだした少女に、ユウキは絶句する。


「簡単に諦めんなよ。世の中にはなあ、しんどくても必死で生きてる奴がたーくさんいるんだよ!」


 急に始まった熱烈な説教は、なんだか演劇を見ているようだった。ユウキはあっけにとられる。


(わあ、こんなこと言う人本当にいるんだ……)


 変な意味で感心しつつ、申し訳ない気持ちになる。心配はありがたいけれど、ちょっと的はずれだ。ユウキは生きるために飛び込んだのだから。


「いや、あの……わたし、逃げて落ちただけで――って、あれ、ここってどこ!?」


 追手の事を思い出し、見つかったらいけないとユウキはあたりを見回す。そこはどうやら部屋の中らしかった。ユウキが与えられたいた部屋より広く、寝具や建具なども豪華。花まで飾られているしどうやら客間のように思えた。


「ああ、アタシん部屋だよ」


 少女は鬱陶しげに淡い茶色の髪を絞った。ぽたぽたとしずくが落ちていくが、滴る水が黒く濁っているように見えて、ユウキは自分を見下ろした。もしかしたら泥だらけなのかと思ったのだ。だが、ユウキはびしょ濡れだけど特に汚れていない。水は澄んでいたようだが、じゃあその水は? とユウキは首を傾げかけたとき、部屋の扉がノックされる。


「――――――!」


 ユウキは耳を疑う。理解できない鋭い言葉が外から聞こえてきたのだ。


(え、欠損って治ったんじゃなかったの!?)


 わけがわからないけれど、どうやら相手は衛兵のようだ。考えている場合じゃない。どうしようと焦るユウキは部屋の主に懇願する。


「ちょっと、あの、おねがい! かくまって!」


 だが、少女は「嫌だね」とあっさり拒絶した。目を剥くユウキにとうとうと説教は続く。


「逃げてても始まらないからな。逆境には立ち向かえ。自分の持つ武器を見極め、磨いて、戦って勝利しろ」


 どうやら熱血少女は人の話を聞かないらしい。説得の方法を思いつかず、絶望して打ちひしがれると、少女はニッと笑った。


「アタシもしばらくここにいるからさ。悩んだら相談にのるよ。暇だし――たいてい池の畔でうろうろしてるから、いつでもおいで」


 少女は部屋の扉を開けて、どこか恐縮した雰囲気の衛兵にユウキを引き渡した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る