5 欠損する言語
目を開けると、ユウキの前には異常に静かな世界が広がっていた。
(……なに?)
二度目の
(ここ、どこ?)
ユウキは状況を把握しようと周りをぐるりと見渡す。
辺りは静謐な空気とやわらかな光に包まれている。どこからかパイプオルガンの音が聞こえてくる。
ユウキは木でできた簡素なベンチのようなものに腰掛けていた。公園などにおいてありそうな、硬い木の椅子だ。床は木でできているけれど、ワックスがかけられたかのように磨かれている。目線を上に上げると、天井はものすごく高い。柱が複雑に組まれた、芸術的な建物のようだった。
そして前方には、髪を隠すように
(ここって、教会?)
と思い当たる。賛美歌を歌うシスターという、映画のワンシーンを思い出したのだ。
ユウキはキリスト教徒ではないので、教会に行ったことはない。だが、親戚の結婚式か何かで結婚式場のチャペルには行ったことがある。建物はそれに似ているけれど、荘厳さが五割増しくらいだと思った。それはここに神様がいるからなのではないかとユウキは思う。
目を閉じり祈る女性たちの姿に、神社にお参りに行った時に漂うものと同じ空気を感じたのだ。
(ん――?)
さらに視線を前方に向けたユウキは目を見開いた。建物の一番前には女の人の石像があり、神父らしき男性が祈りを捧げている。ユウキはそこでふと違和感の正体に気づいた。声が聞こえない。いや――声らしきものが聞き取れない。言っていることがわからないのだ。
ひどく嫌な予感がして、身を震わせた時、ちょうど祈りが終わる。礼拝が終わったのかもしれない。一言もしゃべることなく出て行く人の波に飲まれる。流されるようについていきながらも、ユウキは途方に暮れた。
これからどこに行けばいいのかわからないのだ。
(えっと……まず、このお話って何? わたし、今何になってるわけ?)
前回は森という人のいない場所に迷い込んだから、自分が何者であるかは意識せずに済んだ。それにクリスが異世界からの客人に理解があったため、賀上夕姫という人間のままでいられた。だが――
(今回は、これ、話がぜんぜん違うよね……)
賀上夕姫という人間の居場所が、この社会に作られているとは思えなかった。
周囲に人物がいるとなると、自分の存在について説明ができないと困ることになる。おそらくこの人の波は今から自分の住処へ帰っていく。だけど、ユウキにはその場所がおそらく用意されていないのだ。
周囲に人がいるのに、森に一人でいる時よりも孤独な気がした。
(どうすればいいの)
ユウキがじりじりと焦燥感に焼かれているときだった。前方から波に逆らうようにして少女が駆けてきて、――そのままユウキとぶつかった。
突如やってきた衝撃に、ユウキはよろめいてその場に倒れこむ。
「――――」
手を差し伸べられ、何か言われたけれど理解できず、ユウキは首を横にふる。だが、少女と目があうと戸惑いは吹き飛んだ。
ユウキは「うそ」とつぶやいて、顎を落とした。
ぶつかった少女も同じくぎょっとしたような顔をしている。
少女とユウキは鏡に映したかのように同じ顔をしていたからだ。ただ――頭巾の下から覗く碧い目を除いては。
「―――――――!」
少女が叫ぶ。だが、やはり理解できずにユウキは「ごめんなさい、分からないの」と返した。すると言葉が通じないと気づいたのか、彼女は少し考えこむ。そしておもむろに自分のかぶっていたケープを取り去る。中から少し癖のある栗色の髪が現われ、ユウキが彼女の頭に出来た天使の輪に見とれた次の瞬間、
「え、なに!?」
少女はユウキにケープを無理矢理に押し付けると、そのまま廊下を奥に向かって逃走した。
「ちょ、ちょっと待って……なんなの、一体!」
縋るようにして追いかけようとしたユウキは、背後から上がった怒声に思わず直立不動になった。
「――リンサスオフィーリア――!!!!」
振り向くと、目を吊り上げ、顔を真赤にしたすさまじい形相――そして大迫力の体格の女性がどすどすという地響きとともに廊下を駆けてくる。
迫力に思わず逃げそうになったユウキだが、相手は体格の割に素早かった。首根っこを掴み上げられ「ぎゃっ」と叫ぶ。
「オフィーリア――、――!」
名前だろうか。オフィーリアと言うのだけなんとなく聞き取れた。女性はまごつくユウキに構わず矢継ぎ早に何か叫んでいる。
「――――――――! ――――――!!!」
どこの言葉だろう。もちろん日本語ではない。英語に似ている気もしたけれど、単語が全く聞き取れない。そこまで英語の成績は悪くないはずだけれど、全くわからないというのは腑に落ちないから、きっと英語ではないのだろうとユウキは思う。
(ドイツ語? フランス語……でもなさそう……もし英語なら、まだなんとかなったかもしれないのに)
言い訳もできないらしい。ユウキはとにかく放してもらおうと身振り手振りで頼むが、全く通じなかった。海外旅行でも経験してればまだ対応できたのだろうか。と後悔するけれど、時既に遅し。
ちょっと忘れ物を取りに戻ります――などということは不可能なのだから。と考えて、ユウキははっとする。何か持ち物で使えるものがあるかもしれないと思ったのだ。
(辞書――入れなかったっけ?)
慌てていたからその辺にあるものを選別せずに詰め込んだのだ。ユウキは背負っていたリュックを漁りだす。手に硬いものが触れ、顔を輝かせたユウキだが、歓喜はすぐに落胆に変わった。
(あ、童話集……か。でも、なにかに使える?)
眉をひそめた時だった。女性がリュックを強引に奪うと、その造りを訝しげに観察したあと自分が背負ってしまった。
「――――――?」
何と言ったのかわからないが、彼女は口元だけ歪ませてニタリと凶悪な笑みを浮かべる。すさまじい悪人面だ。
(うっわあああ……、『逃げたら殺す』とか言ってそう……)
脇の下をつぅ、と冷や汗が流れていく。
意図がわからないから動きがとれない。笑顔の迫力に半笑いで固まっていると、彼女はユウキの背を後ろから押して廊下を歩かせる。縄はついていないけれど、まるで囚人のよう。どうやら、逆らうことは無理のようだ。
ユウキは長い回廊を歩かされ、長く急な階段を登らされて、建物の三階に辿り着いた。一番奥の部屋に連行され、「――――――! オフィーリア――」とやはり何か意味の分からない言葉を念を押されるように言われると、扉は固く閉じられてしまう。
状況が理解できないまま見渡す。保健室のベッドのような狭いベッド。清潔そうだけれどつぎはぎのある古いシーツ。建付けの悪そうな小さな窓には薄いカーテンがひかれ、その下に筆記机と衣類などが置かれた棚がある。おどろくほど質素な部屋だった。
ベッドの隅に置かれたリュックを引き寄せると、ユウキは童話集と、ノート、それから筆記具を取り出した。
まずドキドキしながらノートを開く。最初のページに書かれたルールは前回とかわりない。普通に読めるようで、ホッとして、次に童話集を開いて――
――ぞっとした。
「ちょっと、なにこれ」
泣きたくなる。そこに書いている文字がまるで読めないのだ。書かれているのはもはや文字にも見えない。文字化け――とでも言うのだろうか。記号が延々と並んでいた。
「たしか、この本に入っているのって……白雪姫と、眠り姫と、シンデレラと……なんだっけ」
残る美しい挿絵に縋る。物語を思い出そうと必死になる。だが、視界が涙で滲んでいってついには読むことができなくなる。怖くて震えが走って縋るようにノートの白いページを開くと、ユウキはペン先を乗せる。目をつぶるとうめき声とともに涙がぽとりと落ちた。
(まさかと思ってたけど、信じたくないけど……)
今回の欠損はおそらくは、言語だった。
(いや、相手は明らかに話していたし、読めるはずの童話が読めなかったりするから……言語の翻訳機能とか、そういうやつ……かも)
前回は食べ物や飲み物など、生きるために必要な物がないという状態だった。だけど、今回ユウキに与えられないのは――言葉から得られる情報だ。言葉を奪われてしまえば、ユウキの情報を得る手段は、視界から得られるもの以外なくなってしまう。
前回の経験が全く生かせないのではないか。となると初っ端からつまづいてしまう。クリスにたどり着くどころか、もしかしたら、この物語から出られないかもしれない――そう考えだしたユウキは、不安に押しつぶされそうになっていた。
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