11 内と外に闇を抱えた少女

 パンの焼ける、香ばしいいい匂いが辺りに漂っている。ルーカスが外に作った石窯の前では、ユウキが真剣な目で火の番をしていた。

 今日はルーカスが持っていた小麦粉でパンを焼くことになったのだ。

 ユウキはパンを焼いたことがないという。いや、《ほーむべーかりー》がないと焼けないと言っていたか。それを聞いたルーカスは、気味が悪そうに彼女の素性をクリスに尋ねてきた。彼女が庶民であれば、ありえない発言だからだ。だが、クリスは彼女の抱える事情を誰にも言うつもりはなかった。たとえ、信頼しているルーカスにでも。


 ユウキを、クリスは盗み見る。

 ユウキの顔立ちはこの辺りの者とは少し異なるように思えた。たまご型の綺麗な輪郭。目が大きく、鼻が小ぶりなせいか、随分幼く見える。最初十七歳と聞いて驚いたのだ。それに日に焼けているというわけでもないのに、肌の色が僅かに濃い。そして、限りなく黒に近い瞳と、背の中ほどまでの黒い髪はこの世界では珍しい。

 呑み込まれそうに深い闇をに抱えた少女は、不器用で、だけど何をするにも必死だった。クリスより二つ年上だからというただそれだけの理由で、彼を守ろうと懸命だった。

 守ってもらう必要なんかこれっぽっちもないのに――と思うと胸が罪悪感に痛むけれど、彼女の居場所を潰すようで未だに言い出さないでいる。 

 彼女は憂鬱そうに空を見ては、時折ハッとしたように竈に注意を戻して火をかき混ぜる。

 集中し始めると、ユウキの顔に浮かんだ憂鬱な色は消える。

 クリスはそれを見届けたあと、ホッとしながら自分も目線を空に移した。

 空には何があるのだろう。鳥か――それとも、彼女の世界に繋がる入り口か。


(泣けばいいのにな)


 時折見せる陰った表情を見るたびに、クリスはいつもそう思う。彼女が泣いたのは一度きり。それ以降は憂鬱をはねのけるように強がって笑顔を浮かべている。そんなユウキを見ては、力になれない自分に苛立った。


 ここが本の世界で、本の外側から来たと訴える少女。荒唐無稽な話だ。クリスだって最初は信じていなかった。夢見がちな――ちょっとおかしな少女なのだと思っていただけだった。

 だが、ユウキはおかしいどころか、この世界で生きるための必要最低限の知識――火をおこす方法、パンを焼く方法などがいい例だ――が欠如していた。そして、逆にこの世界では考えられないくらいの知識を身につけているようだった。文化のレベルが違う――最初に少し話した時にそう感じた。例えてみるならば、パンタシア王国建国時の生活と今のクリスたちの生活ほど――いや、それ以上の開きを感じたのだ。

 そして、完全に彼女の言うことが正しいと思えるようになったのは、あの手帖を見てからだ。

 真四角に切りそろえられ、薄くなめらかな、雪のように白い紙が、この世界のものではないと、クリスには一瞬でわかった。あんなもの、作れる技術はこの周辺の国には存在しない。そしてなにより、この国で、あの少女は当たり前のように高度な文章を読んで理解していたのだ。あの歳であれを読める人間など、それこそ高貴な生まれでそれなりの教育を受けていないとあり得ない。だが、一方で、彼女は高貴な生まれの者が持つ気品が欠落しているように思えた。決して卑しいという意味ではない。あの親しみやすさは、身分が高ければ高いほど疎まれるものだからだ。その辺りの情報を鑑みると、彼女が異邦人であることを信じるには充分だった。

 彼女は、自分の世界に帰らねばならない。だから、手帖の手順通り、些細な違いは無視して、物語を組み立てればいいのだ。クリスという白雪王子に、七人の小(隊)の人、王妃に、王子という役者を揃えて舞台を作ればいい。彼女が言うには、物語は、王妃を出し抜くという望ましい結末を迎えるのだから、クリスは感謝こそすれど、不満を抱くことはない。

 そして、クリスには今、目の前にすべての駒が揃っているようにしか思えないのだ。一歩踏み出してくれさえすれば。クリスはひと肌もふた肌も脱ぐつもりでいるというのに。


(だから……迷うことなどないはずなのに。帰ればいいのに。待ってる奴、いるんだろうし)


 タクヤとかいう男のことを考えると苛立つけれど、彼女が帰れない理由を、もしかしたら不甲斐ない自分が作っているかもと思うと、よっぽど腹立たしいのだ。

 彼女がクリスを見る眼差しには、放って置けない――そんな気持ちが常にだだ漏れている。姉のように、母のように、守ろうとしてくれている。だからだろう。クリスがいくら守ろうとしても、彼女から返ってくるのは「ありがとう」でなく、「大丈夫」なのだ。全然、同じ場所に立てていない。


(あー……ちくしょ……俺ができることってないのかよ)


 物語の内容を結末しか知らないことがもどかしい。ユウキはいつまでも「これが白雪姫だとははっきりしていないから」とごまかすし、彼女が口を閉ざせば知りようがないのだった。


(無事に返してやりたいのに、さ)


 だが一方で、ここにずっと居ればいいのに――そんなこともクリスは考えてしまう。

 物語が致命的な不具合を起こした場合、現実世界の死を意味すると書いてあった。単なる《死》と書かれずに向こうの世界での死と書かれている――それは、彼女が戻れなくなるという意味だろうとクリスは思った。

 戻れないということは、つまり、ここにずっといるということ。

 今の穏やかな生活がずっと続くということ。

 少しの逃避生活のはずだった。辞める時機を窺っていた。だけど――今までの逃避とは違い、二人での生活は楽しすぎて、やめがたい、そう思い始めたのも事実だった。

 体の奥底から湧き出る、ほの暗く、甘い誘惑にクリスは押し流されそうになり、慌てて頭を横に振った。


(だけど、俺もいつまでも逃げてる訳にはいかない――ルーカスは何も言わないけれど、あいつがここにいるのは現実を俺につきつけるためだ)


 何をするわけでもなく、平和にのんきに過ごす彼を見ていると、鏡を見ているようで落ち着かない。ルーカスの姿は、クリスに問い続けている気がしてしょうが無いのだ。

 いつまでもこのぬるま湯の中に浸かっていていいんですか? あなたには王子としての御役目があるのではないのですか――と。

 このままでいいわけない。いいわけないのだけれど、どうしてもこちらから歩み寄るのは悔しかったのだ。


(だって、あっちが先に仕掛けてきたんだ。……でも、ユウキのためにもなるんなら……)


 クリスには、彼女が膠着した状況を壊すきっかけを与えてくれているように思えて仕方がなかった。


 小さくため息を吐いたクリスの目に、ふとユウキのかばんが映る。

 彼女のかばんは丈夫で大きく、何でも入る。こんなものがあれば、ドレスにいろいろ縫い付けずとも、もっと楽に、たくさんのものが運べるのではないかと思えた。

 クリスは、周りを見渡す。ユウキが石窯に集中しているのを確認すると、かばんに近づき、手をかけた。

 ごちゃ混ぜの荷物の中を漁ると、クリスの靴が布に包まれて入っていた。


(そういや、預けたままだったか? 片方だけなんだし、捨てていいのに)


 不思議に思いつつも、さらに掘る。目的物を探す。――例のユウキの手帖だ。

 夜中にじっと見つめていることもあり、そういう時彼女の顔はいつも泣きそうだった。

 やがてクリスの手が手帖に触れる。もう一度周囲を見回してから開く。以前見たルールは最初の頁に書かれている。それから数枚めくっても白紙のまま。だが、そのままペラペラめくっていると、突如文章が現れた。

 最初の頁とは筆跡が異なる文字は、比べて柔らかく丸みのある字だった。


(これ、ユウキの筆跡?)


 とたんクリスの目に焼き付いたのは、独白だった。


『お母さんは、心配してるかな。きっと平気で仕事してるよね。だって――わたしは愛されてない。お母さんは自分が産んだ想像の人物のほうが、わたしよりも大事なんだから』


 胸がきりりと痛み、服を掴む。


「……ばかか。おまえが愛されてないわけ、ないだろうが」


 思い切り鼻に皺を寄せながら、いちいち彼女の悩みを打ち消していく。途中に関する記述に一瞬我を忘れかけるが、そうしながらも辿り着いた最後の頁には、目的の文章――白雪姫のあらすじがあった。


(これだ――)


 ざっと目を通したクリスは、天井を仰いだ。どうしてユウキがあらすじをすべて語らなかったを理解したのだ。


「………だから迷ってたのかよ」


 歯を食いしばりながら、ふと手帖の続きを見ると、下部で何かがぐしゃぐしゃに塗りつぶされている。


「なんだ?」


 目の高さに持ち上げ、裏から透かして見る。


(は――なんだ、これは)


 薄っすらと浮かび上がった文字を解読したクリスは、大きく舌打ちする。そして、深く深呼吸をして手帖を床に叩きつけたい衝動をぐっとこらえた。

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