chapter five: 天使の嘆き

ところが。

私はフラれてしまった。

見合いの翌日だった。聞かされたのは彼本人からではなく。

毎度の如く私は塾の仕事を終えて、向かった先の老夫婦の屋敷のキッチンルームでエプロンをつけていた。

そこで顔をしわくちゃにさせたまさ子さんが近づいてきて、

「ごめんねえ・・・・・・光雄さんのほうがどうも、だから・・・・・・今回は残念だけど」

とその申し訳なさそうな表情のまま、途切れ途切れにそう言ったのだった。

分かってる。向こうが一方的に交際を断ったってことが。

彼女が、はっきりとそう口に出来ないことは分かってる。

数夫さんもやってきて私に詫びた後、彼もまた歯切れの悪い物言いで、

「どうものお、セツジさんがアンタのことを多少なり調べたらしいんじゃ、小学校の先生を辞めた原因が、なんというか、少し気になっとるようで、のう・・・・・・」

なんだって!?

「そ、そんなっ」いわゆる初期衝動というやつで顔が強ばってしまった。

「あ、いや、ビ、ビックリさせてすまんのお・・・・・・で、でもワシらはアンタさんの過去を気にもしとらんでの。だげん、あんとこの家は堅いっちゅうか」

「そうよ、ねえ、サッチャンはとっても良い子なのに」

気休めはいいですよ、そう言いたかった。

それにしても。議員さんは私のことをよく調べ上げたものだ。

フラれたこと自体はショックではない。

将来の安定を保証する男性との出会いで、少しは期待していた部分も有ったけれど。


小学校を辞めた原因で、か。もう、運に見放されてるのかな。


水槽に落とされたコインのよう。私の気持ちはゆっくりとゆっくりと沈んでいく。

それでも私は、腰の曲がった老夫婦に作り笑顔をふりまいた。

「今回は、私に運がなかったってことでいいですよ」

声を絞ってでもそう発言することが出来たのだった。


そう、運がなかった。運がない。私は、運に見放されてるから。


運。運、運!


運! 運! 運!


運が逃げる!!


年の暮れ。1年の最後がこれかよ!


来年も再来年もその次の年もその次の年も!


死ぬまでずんずんどんどん運が逃げていく!


胸の内ではすでに正気を失っていた。


「今日は部屋の掃除や風呂の用意はせんでいいけえ」

どちらがそう言ったのか記憶にない。

彼等が寝に入ると、私は足取り重く屋敷をでた。

いつものように最終バスを待つ。

人気のないシャッター街。ぽつぽつと乗用車が狭い道路を走る。

作業着を着た中年男性が、機嫌良く鼻歌を鳴らしてペダルを漕いでいた。

反対に私の気分の落ち込みようは半端無い。

どこまで暗い底に沈んでいくのだ、私の心は。


冷たい風が露出した首筋を撫でる。


あ。そういえばセキュリティーを起動させるの忘れた。


刹那、着信音が鳴り響いた。


画面を目にする。


思わず手が震えた。


鳥肌が立つ。


同時に髪が逆立つ。


感覚がまるで無くなった。


私のカラダが私のものでないかのよう。


だけど感情は正反対で。


涙がどっと溢れ始めた。


送信者は、私のかつて愛した人。


「こ、こんなタイミングで・・・・・・」私は無意識にそう呟いていた。


それからどれだけの時間が経ったのか分からない。

長かったのか短かったのか。

私は札束を手にしていた。

1束や2束じゃない。

数えてもいない何束もの札束で布生地のバッグははち切れんばかり。

いつも薄っぺらな通勤用バッグは、今夜は岩のようにごつごつした堅い物体に変化していた。

セキュリティーの掛かっていない屋敷に忍び込むのは、本当に簡単だった。

老夫婦の資産の一部は、現金として寝室の隣に保管してあることは承知していた。

彼等の静かな寝息を耳にしながら、そろそろと引き出しを開けて札束を握ると素早くバッグに詰め込む。

その繰り返しで、手持ちのカネは一気に一千万円越え。

私は満足した。彼も満足するだろうな。


警戒しつつもほくそ笑みながら部屋を出ようとしたとき。


老夫婦が飛び出してきた。


彼等に私の顔が見られてしまった。


しまった。物音立てずにいたつもりなのに。


老夫婦が熟睡するにはまだ早かったか。


やっぱり、運がない。


手探りで何か無いかと慌てて探す。


鈍器のような堅い物体を偶然見つけた。


それを利き手に持ち直す時、よほど嬉しかったのか私は声を上げて笑ってしまった。




運は逃げていなかったんだ――――――――――――






                   ***


1月半ば。世間の正月気分はとうに抜けている。

昼下がり。外の世界の人々は、それぞれの肩書きを持って時として歯車と呼ばれながら活動していた。


Angel's CRY

店内。昼の営業時間帯は夜の盛況と比べれば幾分静か。

だが、外の世界から乖離された、快楽をいやらしく匂わす豪華絢爛さはまさに白昼夢だった。

目当ての男に昼からでも会いたがる女はいる。

(ちくしょう。またあの女だ)

そのうちのひとり、那波なは知久代ちくよはボックス席から店の中心部を睨み付けた。

彼女の目線の先は髪をアップにさせた30手前の女。

その隣で女の肩を抱きしめるのは、愛沙樹翔也。

彼女はあの女のことはよく知っていた。

(二度と来れなくしてやったのに)

かつて、女は翔也に貢ぎ、知久代の愛する『蒼汰』の勝利を脅かしていた。

知久代にはどうしても許せなかった。彼女にとってのにも拘わらず、その貢いだオトコに勝たせてやれなかったのだ。


ナンバーワンをとった翔也の隣ではしゃぐ女。


あの女だけは、絶対許さない――――――


知久代はあらゆる情報網を駆使して女の正体を突き止めた。

森田幸実。28歳。小学校教師。

早速、知久代は三流雑誌の記者に幸実の行動をリークした。

その知り合いである、62歳のハゲでデブで独身の中年記者には、彼女自身のカラダと引き替えに幸実を落とし入れる記事を書かせたのだった。

それだけでは足りないと、知久代はトドメにネットで幸実の素性を晒すと、幸実はやがて姿を見せなくなった。

それはそうだ。幸実は、職を失ってついにカネも尽きたのだ。

(ざまぁ!)飛び跳ねて知久代は喜んだのだった。


なのに。


(どこで大金を掴んだんだ?)

昨年末。

翔也を抜いて蒼汰の勝利が決定したかに思えた。

その時、ぎりぎりの時間に入店した、幸実。

幸実は、閉店間際に最高級の売上を翔也にもたらしたのだった。

万策尽きて。蒼汰は2番。

(ちくしょう! ちくしょう!)

幸実を睨み続けていた知久代。

口の端が獲物を狙うヘビのように裂けた。


再度あの女の素性を突き止める!


今度こそあの女を奈落の底に突き落としてやる!!


その時。

「ボンジョルノ」蒼汰が颯爽とやってきた。


カワイイ子系イケメンの美声に、知久代はすかさずタバコをもみ消して表情を戻した。


「そうたぁそうたぁ」と媚びる五十路の女。


「チプリアーノ、今日はご機嫌斜め?」


「うぅん。蒼汰の顔みたら嫌なことも全部吹き飛んじゃう!」













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