竜歴1160年

第18話 先触れ/Sign

「つーかーれーたー……」

「おかえりなさい、ニーナさん」


 酷く疲れた様子で帰宅したニーナを、クリュセが出迎えた。


「大丈夫ですか? まるで動く死体みたいですよ。ってわたしの方が動く死体なんですけどね!」


 今日も絶好調のクリュセのアンデッドジョークに取り合う元気もないらしく、彼女はぐったりとしたままソファの上に突っ伏した。


「お疲れ様。お風呂の準備できてるよ」

「ん」


 普段よりも帰りが遅い時点でこうなることは予測していた。私がそう告げると、ニーナはほとんど無言で私に向かって両腕を伸ばす。身体を近づけるとその腕が首に絡められたので、私はそのまま彼女を抱きかかえた。


「じゃあ、ちょっとお風呂入れてくるよ」

「はーい。お熱いですねえ、二重の意味で」


 含み笑いを浮かべる愛娘の生暖かい視線をやり過ごし、まるで人形にでもなったかのように脱力するニーナを浴室へと運ぶ。


「はぁー……」


 服を脱がせて浴槽の中に埋めてようやく、彼女は身体を弛緩させて深く息を吐いた。


「お疲れ様」


 浴槽の中で彼女を抱えるように支えてやりながら、私は改めてその労をねぎらう。


 ……彼女の思いの丈を聞いてから、十年。

 最近の彼女は時折、こんな風に振る舞うようになってきた。

 なんでも小器用にこなす癖に、甘え方だけがひどく不器用だ。


「それで、今日は何があったの?」


 今日のニーナはかなり疲れてはいるものの、ピリピリとした雰囲気がない。つまり、軽い感じで事情を聞いていい日だ。


「夕方頃急患が担ぎ込まれてきてね。それから四時間、手術しっぱなし。おかげで夕ご飯も食べ損ねるし、ほんといい迷惑だわ」


 憎まれ口を叩きながらも、彼女の口元はほんの僅か、緩んでいる。つまりは最悪の結果は避けられたということだ。


「それは大変だったね。何か大規模な事故でもあったの?」


 ヒイロ村の人達は基本的にかなり頑強である。精霊馬の引く馬車に跳ねられたくらいならピンピンしている場合が多い。私が問うと、ニーナはほんの少し表情をしかめた。


「それがね。明らかに、獣にやられた傷だったのよ。多分……切り傷の大きさから見て、鎧熊」

「鎧熊? ……やられたのは、子供だったの?」


 鎧熊は、確かに凶暴な猛獣だ。けれど近年……というよりここ数百年、被害は殆ど聞いたことがなかった。この世界の人間は、純粋に熊より強いからだ。もちろん生身では敵わないけれど、魔法や魔術を使えば簡単に下すことができる。


 魔法の扱いに不慣れな子供がうっかり村の外に出てしまって被害にあった、とかならまだ理解はできるけれど……


「それが、浅葱なのよ」

「何だって?」


 浅葱というのは、ヒイロ村で狩人をしているエルフの若者だ。若者と言っても三百歳は超えていて、村に来てからも百年を超えている熟練の猟師である。獣はおろか、魔物たちを相手取ったって遅れを取らずたった一人で返り討ちにしてしまう。ましてやエルフの本領たる森のなかでは、剣部たちとすらいい勝負をしてのける、恐るべき槍の使い手である。


 そんな彼が、鎧熊にそんな重症を負わされるというのはちょっと信じられない。


「明日には目を覚ますでしょうから、話を聞きに行きましょう」

「……そうだね」


 ――何となく、嫌な予感がする。

 ただ狩人が一人、怪我をしたと言うだけではなく、もっと恐ろしい何かがひっそりと通り過ぎつつあるような。

 そんな不吉な予兆を誤魔化すように、私は身体を湯に埋めた。



 * * *



 あれは確かに鎧熊でした。特別大きいわけでも、異様な風貌をしていたわけでもない。

 ごく見慣れた、森の獣。けれどその中身はまるで別物でした。俺の槍は全く通らず、逆に奴の爪は容易く俺を切り裂くのです。


 全身に血の滲む包帯を巻いた痛々しい姿で、浅葱はそう語った。


 結局その鎧熊を仕留めることは出来ず、片目を突いて怯んだところを逃げてきたのだという。


 ――つまり、件の鎧熊はまだ森にいる。


 その話を聞いて、私はニーナと二人、西の森へと赴いていた。


「ん。多分こいつね。隻眼の鎧熊……ここから、五分くらい歩いたところにいるわ」


 森に足を踏み入れた瞬間に、ニーナは何の予備動作もなくそう断じた。


「……なんか、久しぶりね、こういうの」


 森の中を歩きながら、ぽつりと彼女は呟く。


「ここのところ、忙しかったからなあ」


 言われてみれば、ニーナと二人で森の中を歩くなんて言うのはかなり久しぶりかも知れない。出会った頃は、毎日のことだったけれど。


「鎧熊か」


 それは私たちにとって、何かと思い出深い獣だ。私とニーナが出会ったのも、彼女が鎧熊に追われているのを見つけたのが始まりだった。


「今にして思えば、あんなのに殺されかけてたなんて情けない限りだけど」


 技術は、文明は、進歩する。

 けれどそれ以上に、この世界の人々は鍛えることによって強くなる。

 だから今のヒイロ村の人々が強いのは、どちらかと言うと鍛え方の質の向上によるものと言った方がいい。


 特に武器なんて、ヒイロ村では『言葉の時代』と呼ばれる頃……四、五百年くらい前からほとんど進歩していない。せいぜい使う金属が変わったくらいで、その進歩にしたって建築や調理器具なんかの他分野の恩恵だ。


 ――ということであれば。


「こいつは、あの時と同じくらい手こずるかも知れないわね」


 獣が強くなるということも、また不思議ではないのかも知れない。

 まるでこの森の王であるとでも言わんばかりにどっしりと構える隻眼の鎧熊を見据え、ニーナがそう呟く。


 浅葱は見慣れた鎧熊だと言っていた。確かに外見はそうかもしれない。

 けれど私にはそれが、まるで別物に……例えるなら、小さな竜のように見えた。


「木々よ!」


 ニーナの言葉とともに、一瞬にして地面から木々が何本も生えだし、槍のように鋭い幹が鎧熊に向かう。しかし鎧熊はそれを避ける素振りさえ見せず、その名の由来となった鎧のような鱗で悠々と受け止めた。


 あの頃のニーナとは練度が違う。普通の鎧熊であれば簡単に貫くはずの木の槍は、しかし尽くが砕け散る。


「危ないっ!」


 私は咄嗟にニーナを抱きすくめ、地面に押し倒した。砕けた木々を目くらましに、鎧熊は一瞬で間合いを詰めて爪での斬撃を繰り出してきていたのだ。


起動Awake!」


 追撃を加えようと爪を振りかぶる鎧熊に杖を向け、私はそこに刻まれた付与魔術を発動する。鎧姿の騎士を弾き飛ばし、トロールをなぎ倒す魔力の力場がぶつかり……


 そして、鎧熊はその衝撃を真っ向からこらえた。


魔女のほうきWitch's Broom!」


 とはいえそれは半ば予測していた出来事だった。

 こらえたという事は、逆に言えば動きを抑制できたということでもある。

 その一瞬で私はもう一つ魔術を唱えると、ニーナを片腕に抱えたまま空へと舞い上がる。


 低空しか飛べないと言っても、鎧熊の爪の届く範囲よりはいくらか高い。


「あんた、これ」


 ニーナの声に視線を向けると、私のコートに切り傷がついていた。ニーナを庇ったときに爪がかすったのだろう。裾のあたりがスッパリと切れている。


 このコートは私の鱗が変化したものだから、放っておけば勝手に治るのだけど……それは、もう一つの事実を示していた。


 あの爪は、火竜の鱗さえ引き裂きうる。

 僅か十歳の幼竜であった私の鱗にさえ歯が立たなかったはずの、鎧熊の爪がだ。


「とりあえず、このまま上空から……」

「避けて!」


 ニーナがぐいと私の身体を横に倒す。杖がバランスを崩して、大きく横にそれた。同時に、ピシリと足先に痛み。見れば、私の履いたブーツに小さな傷が走っていた。


 眼下で、鎧熊が虚空に向かってその爪を振るう。今度は私にも見えた。

 鎧熊の爪はどこにも触れていないのに、木々の梢が落ち、木の葉が舞い散る。

 その目には見えない斬撃を、私は杖を操作して必死にかわした。


「悪い、ニーナ、着地お願い!」


 言って私は跨っていた杖を振り上げ、落下しながら鎧熊にぴたりと向けた。


魔法の弾丸×10Magic Missile by Ten!」


 十の光弾が鎧熊に向かって突き刺さる。私とニーナはそのまま為す術なく落下して、柔らかに生い茂った草に受け止められた。


 一瞬間をおいて、頭と心臓を貫かれた鎧熊はどうと地面に倒れ伏し、動かなくなる。


 良かった、爪と毛皮が強いだけで、死ぬ条件は普通の鎧熊と変わりないらしい。


「もう、急に言うんじゃないわよ」

「ちゃんと対応してくれたじゃないか」


 唇を尖らせるニーナに、私は草で出来たクッションをぽんぽんと叩く。ニーナ以外だったらもうちょっとちゃんと説明しているだろうから、こういうところは私も彼女に甘えていると言えるのかも知れない。


「それにしても……」


 ニーナは恐る恐る鎧熊に近づいて、その死体を確認する。


「確かに死んでるわ。さっきの攻撃は……」

「ああ」


 彼女の言わんとしていることを察して、私は頷いた。

 鎧熊の放ってきた、あの遠距離まで届く見えない斬撃。

 私のブーツを僅かに裂く程度の威力しか備えてなかったけど、あれは間違いなく。


「あれは、魔法だ」

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