第19話 伝達/Transmission
「槍でも投げた方が早くない?」
それが、クロスボウを見たユウカの感想だった。
聞く相手を間違ったな、と私は思う。
クロスボウの最大の利点は、その訓練期間の短さだ。
扱い方は弓よりもむしろ銃に近い。僅かな訓練で、誰でも扱えるようになる。
二百年以上を剣の修行に費やした剣聖とは、そもそもの発想が真逆であった。
「イニスはどう思う?」
「そうねえ。先生の言う通り、何百人もこれを構えて撃ってきたら厄介なんじゃないかな」
ソファに寝転がったイニスの前で、『透明執事』がカチャカチャとクロスボウを弄ぶ。
「えー、そんなの当たらないよ」
「試してみる?」
来なさい、と言わんばかりのジェスチャーをしてみせるユウカに、ばしゅん、と音を立てて矢が発射される。
ユウカはその矢を、空中で掴んで止めた。
「そんなの出来るのユウカだけだから」
ニーナも植物を操って似たようなこと出来る気はするけど。
「でもどっちにしろ、精霊に対してはあんまり効果なさそうね……」
イニスはクロスボウを眺めながら、残念そうに言った。
魔術が普及し、免許制度が出来上がっても、精霊の暴走事件はなくなったわけじゃない。むしろ普及に伴って年々増えてきている。けれど、精霊に対する効果的な対処方法というのは未だ確立できていなかった。
「甲斐甲斐しいねえ」
「別に、アラの為に調べてるなんて言ってないでしょ」
ニヤニヤしながら言うユウカに、イニスはくるりと背を向ける。
「ぼくも別にアラ君の為なんて言ってないけど」
意地悪く笑みを深めるハーフエルフの少女に、イニスはうっとうめいた。
精霊に対する効果的な対処方法は未だ確立できていない……しかし、個々の才覚に頼った対処方法は、だいぶ熟れてきていた。
メルはより強大な精霊を呼び出すことで対処し、イニスは無数の魔動機で封じ込める。ユウカはそもそも剣で精霊を倒すことが出来る。そんな中アラだけが、精霊に対抗する有効な手段を持っていない。
といっても彼の優れた身体能力は、被害者の救助なんかには大いに役立っているのだから、気にすることはないとは思うのだけど。
「なんだ、アラとのこと、ユウカにも話したのか」
「先生が聞けって言ったんでしょ」
拗ねたように、イニス。
「知らない人の惚気話を聞かされるだけで、何の役にも立たなかったけど」
「だってぼくも、結婚した後の父さんと母さんしか知らないんだもん」
そりゃあそうだ。二人が愛し合った結果生まれたのがユウカなんだから、付き合う前のユタカと水色の事を知っているわけがない。
……ん? 本当にそうだろうか?
「異種族でも幸せになれるって話ならもうお腹いっぱいだから、具体的にどうやったら好きな相手と相思相愛になれるのか教えてよ。できるだけ楽な方法で」
「それならぼくよりお兄ちゃんに聞いた方がいいんじゃない?」
微かな違和感は、話を向けられた途端に氷解した。
「色々あるじゃない。アイお姉ちゃんの話とか、ユウキさんの話とか……」
「そんな昔の話を知ってるなら、自分の両親の話だって知ってるだろうに」
そうだった、剣部は口伝だかなんだかで、過去の話をやたら詳しく知ってるんだった。
「えー知らないよそんなの。二人ともその頃の話はしてくれなかったし」
そんなものなんだろうか。九百年近く前の話を知ってるくせに、たかだか三百年前の話は知らないというのも変な話だ。
「しかし、私の話か……」
腕を組んで考え込むと、イニスが期待の眼差しを私に向けた。
結婚する前、相思相愛になるまでの話、となると……
「向こうから好きになってくれたから私は何もしてないな」
私が言った瞬間、ばしゅん、と音がして矢が放たれた。それは私の頬を掠めるようにして通り過ぎると、壁に当たってカンと甲高い音を立てて弾かれ、地面に落ちる。
「で、できるだけ楽な方法でって言ったじゃないか」
「そんな状況だったらそもそも相談しないわ!」
当てる気が無いのはわかっていても、流石にすぐそばを矢が飛んでいくと怖いものがある。
私が言い返すと、イニスは不満げに叫んだ。ごもっともである。
「……これ……なんで、矢、飛ぶんだろ」
不意に、イニスはクロスボウを眺めてそんな事を言った。
「そう複雑な機構でもないだろ?」
引き金を引くと、弓の弦を引っ張っている留め金が外れ、弓の張力によって弦が勢いよく引かれる。矢はそれに押されて飛ぶ。弦を引いたり、矢を落ちないように固定するための仕組みを除いてしまえば、その構造は私でも理解できるくらいに単純だ。
「精霊原理だよ、先生。物は勝手には動かない。この世のものは――」
「意思によってのみ、動く」
イニスの言葉を受けて、私は言った。
だから流れる川に水車を浸しても、風吹く谷に風車を建てても、それがひとりでに回ることはない。
私の知る地球の常識と、この世界の常識を隔てる理屈の根本……
それを私は、精霊原理と名付けた。
この世界は、精霊の意思によって回っている。それは表面上は地球上の物理学と似ているようでいて……しかし、その中身はまるで違う。
同じ環境を整え、同じ条件を揃え、同じ実験をしても、同じ結果が返ってくるとは限らない。
それは状況を整える精度の問題ではなく――世界を成り立たせる理屈そのものが違うから、だ。
「わたしは、この引き金を引く、という意思しか乗せてない」
イニスはカチャカチャと引き金を鳴らしながら言う。弓は引き絞られていないので、当然矢が発射されることもない。
「けれどわたしが触れてもいない矢は飛ぶ……なぜ?」
「え、当たり前でしょ?」
ユウカは腰の剣を抜いて構え、虚空を切ってみせる。
「ぼくが何かを剣で斬る時、ぼく自身は切る対象に触れてない。けれどその意思は剣を伝って、切る対象に伝搬する。それと同じこと」
そう。それ自体は、地球の物理法則もこの世界も表面上の出来事にかわりはない。
「……ユウカさん、これ、引いてみて」
しかしイニスはなにかに気づいたような表情で、ユウカにクロスボウを手渡す。ユウカは訝しげな表情を浮かべながらも、それをぐいと軽く引いた。……本来なら先端を足で踏んで固定しながら全身で引っ張って固定するものなのに、腕の力だけで普通に引いたなこの子……
「この弓は、今……」
弦を引き絞られ、弓の大きく反った部分をついと撫でて、イニスは呟く。
「ユウカさんの意思が、乗ってる。乗ったまま、保たれてる」
そこに彼女は矢を番え、壁へと向けた。
「わたしが引き金を引くことによってその意思は開放され……矢が飛ぶ」
ばしゅん、と音を立てて矢が飛び、壁に刺さる。先程は弾かれた、レンガ造りの壁にだ。明らかに先程よりも威力が上がっていた。
地球の物理学で考えるなら、これはおかしなことだ。弓の威力は、その素材とどれだけ引いたかによって決まる。誰が引いたかなんて関係ない。
けれどこの世界では違う。同じ弓を同じだけ引いても、非力なイニスが引いた弓より、ユウカが引いた弓の方が遥かに強い。
つまり今の矢は、引き金を引いたのはイニスなのに、その威力はユウカの意思によるものということだ。
「意思は……保存できる。他人に渡すことも、出来る」
突き立った矢を見て、イニスは呟くように言った。
その言葉の意味するところは、私にはわからない。
けれど彼女が何かを掴んだ事は、わかった。
あるいは世界を変えうるような、何かを。
* * *
「……本当に、行ってしまうのかい?」
「はい」
私の問いに、ノキアは頷く。
「これ以上ヒイロ村にいては、先生のお側から離れられなくなってしまいそうですから」
村に来た当初と比べると、随分流暢になった口調で彼女は言った。
ノキアがヒイロ村に来てから、一年近くが経つ。
「別にいいのに。君がこの村に住んでくれたら皆喜ぶよ」
異国の珍しい話を幾つも語る優しく誠実な旅人は、あっという間にヒイロ村の人気ものになっていた。旅を辞めてこの国に残るといい出しても、反対するものはいないだろう。
「皆……ですか?」
ノキアは私の瞳をじっと見つめて問う。
「うん。クリュセは君によく懐いてるし、イニスやアラ、メルも寂しがってるよ。ニーナやユウカ、リンだってそうだ。他の皆だって……」
私は知りうる限りの名前を並べたが、ノキアは何も言わずにただただ私を見つめる。まるで、挙げたりない名前があるとでも言いたげだ。
「諦めなさい。こういう奴なのよ」
ニーナが深々と溜め息をつき、ノキアに言う。ノキアは苦笑いでそれに答えた。なんだか、すごく呆れられている気がするな……
「ああ、そうそう、これを返すのを忘れてた」
「……これは?」
私が差し出したものに、ノキアは首を傾げた。
「預かってたクロスボウだよ」
わからないのも無理もない。
……それは、イニスの手によって別物に魔改造されていたからだ。
「一応前と同じ使い方も出来るけど、台座の部分に矢が十本入ってて、一発撃つと次の矢が自動装填される。矢は同じ太さならだいたい使えるから、撃ったら底から矢を補充してくれ。威力もだいぶ上がってて、百メートル以内なら鉄の鎧を真正面から撃っても貫けるそうだ」
「何をどうしたらそんなことになるんですか!?」
それは正直私の方が聞きたい。というか、聞いたのだが、理解できなかった。
「私からも一つ、餞別を贈らせてもらうよ」
言って、私はノキアを潰してしまわないように距離を取る。そして竜の姿に変じると、肩の辺りの鱗を一枚剥いで、彼女に差し出した。
「私の鱗だ。服の中に入れておけば冬も暖かいし、防具にもなる。多分、売ればお金にもなるんじゃないかな。……ノキア?」
何の反応もしない彼女を訝しんで、私は人の姿に戻る。
「あんたさ」
ニーナが呆れた声で言う。
「多分ノキアにその姿見せるの、初めてよ」
ノキアは――ヒイロ村に来てから毎日のように驚きの声をあげていた女性は、立ったまま、一声もあげることなく白目を剥いて気絶していた。
彼女の旅立ちの日は、結局それから一ヶ月ほど遅れた。
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