第18話 欠如/Deficiency
「はぁー……」
授業の終わりを知らせる三つ鐘が鳴り、私が教室を訪れると、ノキアは席についたまま放心した様子で天井を見上げていた。
「やあ、ノキア。授業はどうだった?」
「そうですね……素晴らしいものでした」
ヒイロ村を知ってもらうには、学校を見てもらうのが一番手っ取り早い。というわけで、ノキアには学生たちと一緒に授業を受けてもらっていた。
「というか……信じがたいものをいくつも目にして、正直頭がちょっとついていってません」
どこか夢見心地だった彼女の表情は次第に現実に帰ってくるとともに、机に突っ伏すように頭を抱える。
「どんなところが? 聞かせて欲しい」
「まず一番の驚きは、獣人や鱗人が普通に一緒に暮らしていることです」
ノキアと一緒に授業を受けていた生徒たちの中にも、
「奴ら……いえ、彼らは、人とは相容れず、文明も持たない、獰猛で野蛮な種族だと……そう、思ってました。事実、他の土地では襲われたことも何度もあります。そもそも、言葉が通じる相手であるとも思っていませんでした」
「そして次に……子どもたちが皆、本を手に文字を書きながら授業を受けていることです。恐らくは、彼らは貴族の子弟なのでしょうが、あのように幼い頃からこれほど高度な教育を受けているとは……」
「いや、この村に貴族はいないよ。彼らは皆、普通の子どもたちだ」
私の言葉に、ノキアは絶句した。
「ヒイロ村では、種族を問わず六歳から十二歳までの六年間、学校で基礎的な教育を受けることになっている。義務教育と言って、大人たちは全ての子供にこの教育を受けさせる義務を負っているんだ」
「義務、教育……」
ノキアはうわ言のように呟いて、ふらりと頭を揺らす。
「だ、大丈夫?」
「いえ……大丈夫、です。わかっていました。貴族にしてはやけに数が多いということは……薄々、察していました。教室はここだけではありませんものね……」
崩れ落ちそうになりながらも、ノキアは何とか机にしがみつくようにして堪えた。
「しかし、ということは、この村の識字率は……」
「うん。ほぼ百パーセントだね」
勿論、膨大な数の漢字を全部読み書きできる人、ということになるとごくごく少数だろうけど。かくいう私も、村の人達が自分たちで作った新漢字に関してはちょっと怪しいところがある。
「ひゃ、百……いえ、大丈夫、大丈夫です……もう、何を聞いても驚かないことにします。しかし、この紙は何で出来ているのですか? 非常に丈夫で、質のいいもののようなのですが……」
ノキアは貸し出された教科書をぺらぺらと捲る。
「それはベヘモスっていう……えーと、巨人より大きな獣の皮を引き伸ばして作ったものだよ」
あれから技術もだいぶ発展して、ベヘモス以外の獣の皮で紙を作ることも可能にはなっている。けれどやはり一番紙に向いているのは、依然としてベヘモスの皮だった。
「ベヘモス!? 地獣ベヘモスですか!? あの……鉄の如き肌を持ち、山の如き体躯を持つという……!?」
何を聞いても驚かないといっていたノキアは、早速驚きに立ち上がった。
「あ、うん。まあ山よりはだいぶ小さいよ。だいたい、この校舎の半分くらいかな……」
「十分大きいじゃないですか! ……まさか、いる、の、ですか……? ベヘモスが……?」
わなわなと震えながら、ノキア。
「流石に村の中にはいないけど、南の草原に行けばいるよ」
というか、この反応は……
「太古の昔に滅んだとされる伝説の巨獣が……実在さえ疑問視されていた存在が、今なお、生き続けているというのですか……?」
やっぱり絶滅しちゃってたかー!
そうだよね、あんなに美味しくて狩りやすくて目立つ生き物、保護でもしないと簡単に絶滅するよね……これについては多少強引に保護活動を進めていて、本当に良かった。
「見たいなら、後で案内をつけさせるよ。街道をいけば二、三日でベヘモスのすむ草原には辿り着けるはずだよ」
「街道……それも、数日かかる距離を伸びる道。そんなものまで、あるのですね……それは街中のような、レンガで舗装された道と考えても?」
「うん。ついでに隣を水路が流れているから水には困らないし、波馬船に乗っていけば半日でつけるよ」
私の説明に、ノキアはふらりと椅子に座り直す。
そして急に押し黙って、彼女は何か思い悩むように視線を机の上に落とした。
その真剣な眼差しに、私は彼女の言葉をじっと待つ。
窓の外から授業を終えた子どもたちの笑い声が響いて、ノキアはハッとしたように顔を上げた。
「……センセイ」
そして、私の顔を見上げ、呟くように言う。
「ワタシは……はじめこの街を目にした時、僻地にある秘境のような村……遅れた文化を持つ、小さな田舎に過ぎない、と思っていました」
ああ。言われてみれば、ノキアの言葉の端々からはそういうニュアンスが漏れていたかもしれない。だからニーナは不機嫌だったのか。……まあ実際、僻地の田舎というのは間違ってない気がするけど。だからこそ、他の国との接触も今までなかったんだろうし。
「ですが、それは誤りでした。多くの異種族と共生する不思議な国ではありますが……教育、文化、技術。どれもが、マシロを大きく越えた水準を持っています」
先程の驚きぶりをみれば、それはわかる。少なくともマシロでは教育は貴族……ごく一部の、選ばれたものでなければ受けられないのだろう。
「ですが」
ノキアは躊躇いながらも、はっきりと言った。
「ヒイロには、一つだけ、マシロに大きく劣っているものがあります」
私は頷く。それが何なのかも、予想がついたからだ。
「私が最初に、ヒイロを遅れた国だと断じた理由。それは、壁が見当たらなかったからです」
「壁?」
オウム返しに問う私に、ノキアはこくんと頷く。
「マシロでは……いえ、マシロに限らず、ワタシが目にしてきた人間の国では、必ず幕壁と呼ばれる壁が街を囲んでいます」
呼び方は地方によって様々なんですけどね、と付け加えつつ、ノキアは続けた。
「幕壁の素材や高さ、堅牢さをみれば、その国の文明度の高さというのはおおよそ見当がつくのです。それがこの国にはまるでなかった」
そういえば、昔は柵くらいは作って村を囲んでいたなあ、と思い出す。けれどいつの間にか、そんなものはなくなっていた。いつなくなったかはわからないけれど、なぜなくなったかはわかる。
必要なくなったからだ。
村人の誰もが、鎧熊程度であれば倒せるほどの実力を手に入れてしまった。この地方で最も凶暴な猛獣である、鎧熊程度であれば。
そしてそれ以外に、村を脅かす外敵なんて存在しなかった。いや、一種類だけいたが、それは柵や壁で防げる相手でもなかったしな。
――けれど、他の国ではそうではなかった。
「ワタシは……たった一日過ごしただけですが、この国が気に入りました。平和で、暖かく、子どもたちの笑顔に満ちている。他の国では恐れられ、邪悪なものとみなされているいくつもの種族が、ともに暮らしている。それは、ワタシにとってとても奇妙な光景だけど……同時に、とても美しく見える。まるで理想郷です」
私はノキアの長い袖からはみ出した、黒い肌に視線を向けた。そろそろ季節は夏だ。旅装とは言え、長袖の上にフード付きのマントをつけて、暑くないだろうか、とは思っていた。
けれどそれは、あるいは彼女が旅をしている理由そのものなのかも知れない。幾多の種族に囲まれ、竜とともに生きるこの国の人たちは、肌の色など誰一人気になんかしないだろうけれど。
「ワタシがソレを伝えることで、この平和な国の人々が相争うようになってしまうのは絶対に嫌です。けれど……伝えないことで、他の国の人々に滅ぼされてしまうのも嫌です。だから……どうしようか、迷いました」
それはきっと、ノキアの心からの言葉なんだろう、と思った。
「けれどセンセイ。あなたは、あの時ワタシを止めた。つまりあなたは教えるまでもなく、ワタシの弓が何であるかを知っていますね?」
「……ああ。知ってるよ」
弓。石器時代から存在する、槍や斧に次いで、人類の歴史に寄り添ってきた武器だ。
「この国に足りないもの……いや、はっきり言おうか。私が伝えず、作らせもしなかったもの」
けれどヒイロ村では、弓はまったく使われていない。理由は簡単で、獣を狩るなら槍の方が有用だからだ。一応、昔作ってみたことはあるのだけど、弓はこの世界の凶暴な獣の皮を貫くことが出来ない。だからそれは――
「人が、人を殺すための武器だ」
人の歴史は、争いの歴史だ、と前世では言われていた。
だがヒイロ村において、小競り合いや喧嘩はあっても、大規模な戦争が起こったことは一度たりとてない。
だけどそれは……けして、当たり前のことなんかじゃなかった。
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