橙のウサギ

新月

橙のウサギ

 1年で最も遅い日、大晦日。

 僕が住む東北では雪が降った。深々と降り続ける雪は、夕方までに膝下まで積もった。特に僕のいる海辺の街は例年、2月頃に積雪のピークを迎えるのだから、この時期にこれほど降り積もるのは珍しいことだった。

 時計の針は夜の11時半を回っている。あと30分もすれば、地球が爆発して文明が滅ぶとか非現実的な現象が起こらない限り、僕達は新しい年を迎えることになる。そして、新しい年を迎えた瞬間、僕は4年に渡って交際している夏希にプロポーズをしようと心に決めている。その夏希はというと、六畳一間の真ん中に置かれた炬燵に入り、僕の隣で静かに寝息を立てている。僕が住むアパートの雪かきをして疲れたのだろう。でも、夏希が来てくれたおかげで借り住まいの前は綺麗になった。感謝の気持ちを込め、起こしてしまわないように優しく頭を撫でた。艶のある黒髪は触り心地が良かった。

「残りの時間、どうしようかな……」

 年越しの5分くらい前には夏希を起こすとして、残った20分をどう過ごすかが問題だ。テレビを点けると音で起こしてしまうかも知れない。年越しそばをつくるにしても、時間に余裕が無い。何より、寒いからできるだけ炬燵を出たくない。何をするか考えを張り巡らせながら、僕は炬燵の中央に置かれた蜜柑の山に手を伸ばし、適当に1つ選んで掴む。鮮やかな橙色が眩しい。皮を剥き、白い筋に覆われた果肉を1粒口へ放り込む。噛む度に程よい酸味と甘みが口内に広がった。蜜柑はやっぱり冬に食べるのが最高だ。次へ、また次へと果肉を口に入れ、あっという間に1個を食べきった僕は、ゴミ箱に投げ入れるべく蜜柑の皮を手に取った。

「そうだ、これだ」

 僕が小さい頃、父親に蜜柑の皮を動物の形にして剥く方法を教わったことを思い出した。父親は手先が器用で、蜜柑の皮を1度も千切ることなく馬などの形にしていた。父親はこれを皮の芸術という意味を込めて「ピールアート」と呼んでいた。一方で、父親と違い不器用な僕はウサギの形を覚えるだけで精一杯だった。最初は、マーカーで下絵を付けながらやっていたけれど、何度もやっている内に、下絵無しでも剥くことができるようになった。だけど、あれから何年もピールアートを作っていない。残された時間で、またウサギを作ることができるだろうか。不安を覚えながらも僕は新しい蜜柑を掴み取り、当時の記憶を呼び起こす。


              □ □ □


 ――年越し5分前。

「ま、間にあったぁ……」

 安堵の溜息と共にウサギのピールアートを炬燵の上に置く。平たくて立体感は皆無だけれど、頻繁に作っていたあの時よりも不格好だけれど、誰がどう見てもウサギに見えるだろう。

「んっ……、いつの間にか寝ちゃってた」

 隣で眠っていた夏希もタイミング良く目を覚ました。夏希は目を擦りながらゆっくりと身体を起こした。

「もうすぐ年越しだよ。僕も丁度起こそうかなって思ってたんだ」

「ごめんね、雪かきってやっぱり疲れるね。良かった、寝過ごさなくて」

 小さく笑みを浮かべる夏希。まだ少しだけ疲労の色は残っているようだった。

「あ、ウサギ! 懐かしいなぁ、この形」

 夏希は僕の作ったピールアートを見つけたらしく、嬉々とした声を上げた。しかし、疑問がすぐさま脳内に浮かび上がる。

「あれ、見せたことあったかな? 夏希に見せるのは初めてだと思ったんだけど」

 僕が覚えている限り、最後にピールアートを作ったのは小学校の卒業式の時だったはずだ。なのに、どうして夏希は「懐かしい」という言葉を口にしたのだろうか。

「ううん、初めてじゃないよ」

 夏希は大事そうに橙色のウサギを手に取った。

「今まで黙っててごめんね、広斗。私達ね、昔、会ったことがあるの」

「えっ……?」

 学生時代の同級生に、夏希という名前の生徒はいなかったはずだ。他校の生徒とも遊んだことはあるけれど、その中に夏希と同じ名前はいなかった気がする。じゃあ、僕と夏希は何時、何処で出会っていたのだろうか。頭の中が渦巻き、混乱を始める。

「やっぱり、覚えてないよね。お互い幼稚園の頃だったから」

 流石に幼稚園のことまでは鮮明に覚えてはいない。だけど、殆どの園児が近くの小学校に入学したから同じ幼稚園ではない可能性が高い。

「悪い、思い出せない」

 申し訳ない気持ちで一杯になり、僕は俯くことしかできなかった。両手で顔を覆い、深く息を吐き出す。それでも落ち着くことはできなかった。

「無理ないよ。違う幼稚園だったし。広斗と出会って遊んだのも、ほんの数か月のことだったから。お父さんの都合で引っ越しが決まった時、私、広斗からこのウサギさんを貰ったんだ。凄く嬉しかった」

 昔の思い出を語る夏希。そのお蔭で、幼少の記憶を包んでいた霧が晴れてきた。

 夏希が言う通り、ピールアートを女の子にプレゼントした気がする。確か、その子の名前は「なっちゃん」。下唇の近くに小さいほくろがあった子だった。そして、目の前にいる夏希の下唇にもほくろがある。僕の記憶と同じ場所に。そうか、あの時の女の子が、夏希だったのか。

「まさか同じ会社に入るなんてね。顔が変わらないから、直ぐに分かったよ」

 夏希はウサギをじっと見つめ続けている。その目には薄っすらと涙が溜まっているようだった。

「……またウサギさん見れて、嬉しい」

 雫が1粒、ウサギに落ちた。それと同時に僕のスマートフォンのアラームが静かな部屋に鳴り響く。どうやら日付が変わり、新しい年を迎えたらしい。

「なあ」

「ねえ」

 僕と夏希の言葉が重なる。

「お先にどうぞ」

「お先にどうぞ」

 またも重なる。僕と夏希は思わず噴き出した。

「じゃあ、私が先に言うね。なんだか、恥ずかしくなってきちゃったな」

 夏希は1つ深呼吸をして、口を開いた。

「このウサギさんを、ずっとずっと私のためだけに作ってください」

 夏希の顔はみるみる赤くなり、下を向いてしまった。この言葉を受けて、僕の顔も徐々に熱くなってきた。

「じゃあ、今度は僕の番だね……。夏希のためだけに作るから、ずっとずっと僕の傍にいてください」

 俯いたまま、夏希は1回頷いた。僕は夏希を抱き寄せ、また頭を撫でる。

 ほのかに、蜜柑の香りがした。

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