5A

 こうして、ボスからの電話で。

 いま僕が遭遇している「異常事態」はなのだ……という実感が、より強まることになったのだが。とりわけ気になったのは、『車はいいから』という——全然ボスらしくないで。まるで、シェヴラが異常動作マルファンクションで停車中だと、ご存知のようではないか……と。あるいは、元第二むこうでも何か起きているのだろうか? 仮にとしても、ボスの言う通りに「放置」するというのは。今のこの、奈落ぎりぎりの路肩では。明らかにマズいと思えるのだが。


(とはいっても、レッカー車を呼ぶしかない……か?)


 そう思った瞬間。シートの後ろの方から、ずるずると。何かを引っ張り出すような音が聞こえた。ルームミラーには、バーキン氏の若々しい……白髪一つない頭頂部が映しだされている。シェヴラの荷室は車室内から独立していて、リア・ウィンドウも開くことはないから。僕自ら外に出て、後ろに回るしかなかった。


「何を出すんです?」

牽引環towing eyeがないかと思ってな?……おっ、あったぞ。結構いい奴だな。」

「?」


 バーキン氏は。シェヴラの緊急用工具箱から、っかの様な黒光りする金属を取り出してみせた。Cの字の開口部を金属板が跨ぎ、そこにボルトのような部品が嵌っていた。そして……


「ここに、こうしてだな。」


……と、既に手にしていたロープの「クエスチョン・マーク」状のフックを。牽引環towing eyeっかに引っ掛けるようなジェスチャーをしてみせた。それで、ああ……成程と思って、僕は。


「これを前につけて、そちらで牽引していただけるのですか。そこまでしていただいては……」


 などと、申し訳なさそうに切り出したのだが、バーキン氏は素っ気ない調子で。


「いや。前につけるのはその通りだが、俺の車のほうだ。」

「えっ、それはどういう……?」


 と。まったく僕の反応を気に掛けず、ご自分のワゴンの横をすり抜けて前側に向ったので。顔じゅうをクエスチョンマークにしながら追いついた頃には。バーキン氏はもう、フロント・バンパーの一部を外して。そこに、牽引環towing eyeのボルト部分をねじ込んでいた。


「ピッタリだな。」

「あのう……?」

「こっちのは、以前使ったときに仕舞い忘れてな。まあ、規格は同じだから。」


 それで僕は、ようやく。自分のを恥じて。


「ああ。やはり、先程ので……お車のが壊れたのですね。エンジンが掛かっているので、大丈夫なんだと……そう思い込んでいました、すみません。」


 バーキン氏は。軽く頷きながら、ワゴンの状態を説明した。


「ギアが入らなくなってな。エンジンが掛かる分、パワー・ステアリングが使えるのが幸いだが。まあ気にするな。」

「ニュートラルのままですか……」

「そうだ。リンクが逝かれたのか、クラッチを切っても入らなくなった。」


 僕は。ビルから、マニュアル変速機手動トランスミッションのことを殆ど教わらなかったので、そのとき特に不自然には思わなかった。

 いや、正確に言えば。ビルは僕へ、事あるごとに「本来ならな?」とか言いながら、UA事件と関係ないマニュアル変速機の解説とかを始めようとするので。そのたびに(ボスから指示を受けていた)ジェンやロージーが『本当に油断も隙も……!』と割り込んでしていたのだが。


「でも、そういうのなら。レッカー業者の側でも持っているのでは?」

「業者……何でだ?」

「え?」

「そちらは直付けの環っかがあるだろ。」


 促されてシェヴラの後ろ側へ戻ると、バーキン氏の指し示すバンパーの直ぐ下で。ごっついフレームから後ろに向けて生えている、三角形のプレートの先端に、環っかになった部材が溶接されていた……って。ええッ?


「ま、ま、まさかですよね。」

「何が『まさか』なんだ?こっちは州都シティまで戻って、修理せにゃならん。そっちだって、戻らないといけないのだろう? ちょうどいいじゃないか。」

「そんな大きい車を……」

「大丈夫。そっちのは後輪駆動だし、直付けのヒッチがあるくらいだから、もともと牽引を想定してる設計なんだろう。」

「ヒッチ?」

「その出っ張ってるそれだよ。トレーラーを装着する奴。」


 先ほどの三角形のプレートの先端、「環っか」のある部分の上に。鋼球を頂く短いポールが立っていた。よく見ると、そのプレートは根元のフレームに劣らずブ厚いもので、その中央部が三角形に切り取られているのは。牽引環towing eyeに取り付けたロープが撓んだ際の、跳ねた「フック」を逃がす構造にみえた。つまり、最初からデフォルトで牽引を重視した設計なのだと。

 そこでまた思い出した、ビルがこう言っていたことを。


『ウォレスは。荷室ラゲッジエリアの小さなシェヴラテインのために、純正のトレーラーまで用意していた……といっても、中で寝泊まり出来るとか、でかい舟を載せるとか。そういうクラスのではないが、結構大きい奴だ。シェヴラテインは車輪が前後異径だから、スペアタイヤも二つ要るんだが……トレーラー側で積めるようになってる。実際に曳いてるとこの写真も見たけど、トレーラー・ヘッドっぽくキマっていたね。まあでも正直、ステイツだと中途半端だなあ。』


 とはいえ、口から出てくるのは弱音でしかなかった。


「そんな……僕、牽引なんてしたことないです。」

「後ろは後ろで操作するからさ。さっきも言った通り、パワステは使えるから。」

「でもですよ、また……」

またagain?」


 決して、口にしたいことではなかったが。そのときは、妙に素直になっていたようで。


なるかも……知れないじゃないですか……」

「そうなったらそうなったで。こっちが重しになるし、ブレーキも二台分になるぞ?」

「……!!」


 成程、と思ってしまった。このワゴン車で、エンジンをアイドル回転数に維持して、スロットルを開けないようにすれば。ブレーキ倍力装置に必要な真空バキュームも、尽きることはない筈だ……と。シェヴラテイン側で意図せざるWOTWide Open Throttleが起きても、ワゴン車にまで影響することはないから。


「決まったな。」

「えっ?……えぇ?」

「いい加減に受け入れろよ。あないんだろう?」


 ゆっくりと、優しい口調だったが。その時点では、思ってもみなかった脅威……つまり「トラウマPTSD」の到来を予言していると気付いて、僕はギョッとした。


 今となっては。どのメーカーの車であれ、アクセル・ペダルはアナログの入力装置であり、そのA/Dコンバータから先はコンピュータの世界なのだ。その中身……ソフトウェアのコードは規制当局NTSAでも検査していないし、傷害事件になって証拠開示ディスカバリ命令が出なければ見ることもできない。ノヴァル車がこんな有様であった以上は、どのメーカーのどの車種だろうが、「大丈夫」という確信を持つことができないのだ。


 だからたしかに。もし、運転することができなければ。その先でも、二度と運転できなくなる可能性は非常に高い……そう思わざるを得なかった。そして一方、ここで運転がば。たとえ、再び意図せざる加速が起こったとしても、ねじ伏せることができれば。対処できるものだとば。


「……やってみましょう。」


 絞りだすように、僕は言った。

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