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ジェンのSUVが(珍しく)後席にロージーを乗せて、ここを離れていく音を聞きながら。いったい何ということになってしまったのか……と、しばし茫然とした。すっかり皆に、ノヴァル車の安全設計を疑っているかのように思われてしまって。これから僕は……どんな顔をして、どんな風に振舞えばよいのだろう?と。
ただ、冷静に考えてみると。本来ならクライアントの立場にある皆様と、ここまでタメ口……(ゴホン)親密に付き合って頂けてるのは異例のことだろうし。ノヴァル上層部でも、ここのメインであった「ブックホルド事件」の係争は続けないと決定されており。今後の事件も、和解対応を軸にせざるを得なくなっているそうだから。この州はタイツォータ事務所に任せて、
撤退、つまりは撤収だ。
頭でわかっていても、全然実感が湧かなかった。
その間も、身体のほうは勝手に動いて、街道に面した窓のブラインドを閉め、地下の隠しラックに収めたPC本体たちをリモートで落としていき、固定電話の受信メッセージを音声データ化してNLSCへと自動アップロードする設定へ、切り替えをしていたのだが。心ここにあらず……という状態だったからか、聞き慣れない車の音がパーキングに乗り上げているのに気付くのが遅れてしまった。
ちょっと耳障りな「シンシン」いうエンジン音に「あれっ?」と思ったのと、ドアが開くのとが、ほぼ同時だった。ツイードのブレザーに関数電卓を挿し、小ぎれいな
「やあレイ。元気でやってるか?」
「あ……アルじゃないですか!!どうしたんですか一体?」
「裁判所の件、ニュースを見てな。今日なら大丈夫かな?……と。」
「読まれてますね、その通りで。今から出ようと思ってたところですから。」
「カンピーニならこの時間でも大丈夫だろう。いいかな?」
「勿論!」
手早く照明を消して、金庫からセルラーを取り出し。デイパックを肩から提げ乍ら、ドアの施錠をして。アルの車へと滑り込んだ。パーキングの舗装面は乾いており。霧のような雨は、とうの昔に上がっていたようだ。
(お。車が新しくなったかな? これも、ファ・ブライトン=ヴァーゲンっぽいけど――)
――と。眺めている間もなく、バックが始まって。正面に来た建屋の入口のほうを。運転席のアルが指さして、
「あのシャッター、開いてるのを見たことないな。」
「開きますよ?中からモーターで。」
「使ってるの?」
「ええ。専門家証人さんの車と、ノヴァル法務の方の自転車と、あと僕の通勤用の自転車が入ってます。」
「レイの自転車って、あれ?」
「そうです、ずっと乗ってますよ。」
つい昨日まで一緒に仕事をしていたような口ぶりで、僕はさらに嬉しくなった。
「法務の人も自転車通勤?……のわけないか。置きっぱなしなんだしな。ん?じゃあ一体……」
「あはは。持ち主はトグラさんという方で、各州を飛び回っていらっしゃるんですが、要所要所に自転車を置いてると伺います。」
「?……意味がわからないんだが。」
「行く先々で、ホテルとの往復に使って運動不足を解消するんですって。」
「へえ。変わってるな。」
実際。僕がトグラさんと初めて顔を合わせたのも、早朝の通勤途中の路上で、自転車どうしだったのだ……と、アルに説明した。
つまり僕は。ノヴァル法務の人とは全く知らずに、陸橋の下で、自転車を倒して
今もガレージに吊ってあるのと同じ、白いフレームに赤いロゴ。競技用自転車でよくある細い車輪に、ぐねぐねと曲がった形状のハンドル……の首根っこには、速度計なのだろうか:可愛いサイズのデバイスがついていた。
『どうかしました?』
『?……ああ、ポンプがうまく動かないようでね。』
『パンクの修理なら、あそこまで移動したほうが……』
『何故かね?』
『この上からですね、落下物が出たことが。』
『おお、そうか。ありがとう。』
銀色のヘルメットに、鋭い形状のサングラス、黒地に挿し色で白と黄が入ったジャージ姿は若々しかったけれど。陸橋の裏側を見上げた顔を見て、結構いい年齢の人だとわかって、こっちの言葉遣いも変わっていった。
『よし動こう。君の……自転車のほうは?』
『え、何がです?』
『集合シートステーに亀裂が入ってないか?』
何ステー、ですって?……と思ったが、後輪の左右両側からサドルへと這い上がってくる二本のフレームが、一本に合流するあたりを指さしていたので、この方の言われたいことがわかった。
『ああ、これですか。こうやると……真っ二つになって、外れるんです。』
『えっ?』
何それ?わけがわからない、という顔をされたのも無理はなかった。実際には一回り細いフレーム……へ、被せるように作られた偽フレーム。そこには、今にも千切れんばかりに大きな亀裂が走っているのだ。もちろん、真のフレームのほうは傷一つない。
『前の持ち主の手作りなんです。こうしておくと、ダメ自転車に見えるでしょう?』
『ああ、盗難除けなのか……いろいろ考えるんだね。驚いたよ。』
『前輪だけ、持ちましょうか?』
『いや、大丈夫だ。ありがとう。』
前輪を右手に持ち、左手でフレームを引き上げて。後輪で転がすようにして移動を始めたのを。僕は、左後方をカバーするようについていった。
後ろから、あらためて見ていると。この方の両手の指先は、すっかり黒くなっており。先ほどまで、外したばかりと思われるタイヤ・チューブをその新品が入っていた袋?に押し込んでいたので。パンクへの対処は、ほぼ終わっており。あとは空気を入れて自転車へ装着すれば完了……という段階のようであった。
『しかし、こいつがな……』
『よかったら、お貸ししましょうか。』
『いいのか?』
背負っていたサックから二段式の「空気入れ」を取り出し、カバーを外して手渡すと。しばらくアレコレ弄られて、使えるとわかったようで。丁寧にお礼をされた。
『ありがとう。助かるよ。』
『終わったらこちらへ。この街道沿いにすぐなので、そんなロスにはならないかと。もちろん、夜でもOKです。』
実のところ。ここを開ける時間が近づいていた僕は、慌ててノヴァル式の
――なので、残念なことに。20分後に颯爽と現れて、ノヴァル「外様」法務のトグラ=ホバ氏と判明することになるそのお方が、僕の
「わはは、そんなことが……それは驚いたろうね?」
「前もってそういう方なんだと教えておいてくれたらよかったんですけど。」
「いやでも。知らないで親切をしたんだから、そのほうウケがいいだろう?」
「そうですけど……。」
「さあ、着いたついた。」
アルの言う通り、雲間に覗く透き通った光のなか。「今宵はカフェレストラン・カンピーニへ!」とパーキングに誘導する看板が既に出ていて、夕方の営業を始めていることがわかった。
協会の人と、最後にここへ来たのは何時だったろうか……? 数年ぶりの再会に、さきほどの悩みなど吹っ飛んでしまっていた。
そう、
僕はまだ、α協会の人間なのだ。
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