8

 十時半をまわり、ボスがビルを連れて外出した。ハイブリッド車であるパストーラの、さえずるような疑似走行音pseudo-travel soundが……路上へと降りて、遠ざかっていく。役所に行った後、早めにお昼をとるつもりなのだろう――ここでは、各自好きなように昼休みをずらして良いことになっている。


 お役目上、僕はここを離れられない。ジェンとロージーは食べに出てもいいのだが。最近はもう、殆どいつも……昼食持参で来ていた。


 何にせよ。ボスが不在となれば、すぐに空気も緩んでくる。

 ブックホルド事件が「和解」という結果に終わってからは、他の「意図せざる加速」訴訟も続いてるとはいえ、ここの緊張感テンションは失われていた。


 正直、大分のんびりした雰囲気のなかで。

 入口横の定位置から二人のほうを伺うと、奥へと伸びるカウンターの手前側でロージーが、二画面ディスプレイの片方に州裁判所のwebサイトを……もう片方にはノヴァルの訴訟用プライベート・クラウド「NLSC」を呼び出して、交互に閲覧しているようだった。

 しかし没頭してるという感じはなく、時々目が合う。


 実際、この女性ひとには。割と遠慮なく視線を投げてくる性質たちがある。最初の頃、あまり意識にのぼらなかったのは……堂々とこちらを伺う瞳もまた、そのギリギリにまで伸びている前髪と同様、深いハニー・ブラウンだからかもしれない。とはいえ、相当に大きな目であるのに、見られている感じがしないのは不思議なものだ。

 

 背もたれもないのに、ゆったりと腰を据えている。

 ここは間取りの幅方向に余裕がない。大柄なオフィスチェアは、ボス席にしか割り振ることができなかった。他は皆、キャスターのない四脚の丸椅子を使っている。カウンター・テーブルに合わせ、座面が高くなっているものだ。


 だから、というのもあるとは思うが。静かに腰を掛けているロージーの、キーボードに添えられている両手には、という感じがあった。打鍵の音も(ジェンのように)甲高くはなく。リズミカルに、滑らかに踊る五指は……けれど決して華奢とはいえず。どちらの手首も常に浮いており、打鍵していないときでもテーブルに預けたりはしていない。

 座業の人にありがちな、楽なほうへ、楽なほうへ……と、身体の芯を預けようとする気配など全くなく。けれど……背筋を伸ばして、すぐ立ち上がれるよう足腰へ力を貯めている……ようにも見えなかった。いちばんの若手で、奥にある「ボス席」との行ったり来たりも頻繁なのに、座ってるときと歩いてるときの「差」が無い……というと変だが。動作の移行が、ほぼなのである。

 そうした諸々からやって来る印象は。仮に――が空爆される!という警報が出たとしても。この姿勢から一瞬で、の「左手」に提げた帽子をひっ掴み、一秒も経ずに「脱出」できるに違いない――——と、思わせるほどであって。


 (何かのタツジン達人なのだろうか?)

 などとは、誰に聞いても笑われそうだしな――と思っていたその頃。分厚いファイリングを幾つも、殆ど指先だけで軽々と、段ボール箱からキャビネットへと移動させている彼女に向かって。


「ええと……その。疲れないかい?」

 ―—とか、

「それってどうやるの? 練習とかするの?」

 ―—などと。

 戸惑いながらしているビルを見て、おや?と思ったのだ。


(実は、皆思ってたり……?)


 それで。彼女居ないときを見計らって。

「ロージーって、姿勢いいですよね。スポーツか何かできたえられてるんでしょうか?」

 と。切り出してみたら――


 ボスは、「、そう思うか? 彼女、立てないしな。」

 ビルは、「でも、習い事とか全然やってないって……この間、聞いたけど。」

 ジェンは、「あのフィジカルで、隣のスポーツショップに関心ないのよ。不思議よね?」


 ―—という反応だったので、(あぁ僕だけじゃなかった)と。何か勝手に安堵していた……の、だが。


 じきに、ルーティンで訪れる州警OHPに……だいぶ感じの違う「私服」がついてくるようになって。ボスとの雑談に入ろうとせず、事務所の周りで……何かを探るような様子を見せていたので 。

 俄然、皆の妄想も――


「連邦警察にマークされる程の……?」

「州軍からスカウトに……?」

「史上初の宇宙飛行弁護士アストロゲーティング・ローヤー……?」


 ——と、エスカレートしすぎて。もはや膨らむ余地がなくなった噂は、「私服」が州警のOBさんだと判明して。あっという間にになっていった。


 どのみち。この頃のロージーは、何かをするようなタイプじゃなかったので。いつも安定して同じように振舞っていれば……皆、次第に慣れて。飽きて。違和感など感じないようになるのは、まあ時間の問題だった――が。


 ロージーはこの位にして、ジェンのほうは?

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