「手紙」4
***
それから、一ヶ月の時が過ぎた。
気温がたまに30度近く上がるけど、これでもオーストラリアは冬の季節に入っていく。この時期は雨の日が続いていた。この国は突然大雨が降ったり雷が鳴ったりと、天候が全く読めない国だと思った。それはまるで、梨香さんの心のよう。
一ヶ月間、勇作君と梨香さん三人で過ごす日々は今でも続いている。
時折、仲良く浜辺を歩く二人を微笑ましい気持ちで眺めたりした。
梨香さんの心が落ち着いたら、皆でダンさんのお墓に行こう。そう思っていたけど、完全にタイミングを失ってしまった。梨香さんは何事もなかったように普通で、変わりない日々を送ることが心地良かった。それを壊したくないという思いがあったのかもしれない。きっと勇作君も同じ気持ちだと思う。
いつもの穏やかな日常を送る中、この日は朝から酷い雨が降り続いていた。夕方、学校から帰ってきた梨香さんと二人で夕飯の支度をしている時、メリッサが家に遊びに来た。
「嫌だ、また降られたわ」
「お、いらっしゃい。ユウサクはまた遊びに行ってる。その内帰って来るから先に飯食おう」
勇作君はオーストラリアにも知り合いが多く、留学してた頃の友達とよく出掛けている。
今日はチーズとキノコたっぷりのリゾットに、サラダとコーンスープを作った。
リゾットはミシェルさんに教えてもらったレシピを元に私が作ったもの。
一口食べてみて、我ながら美味くできたと密かに思っていると、さらっと梨香さんが料理とは関係ない事を言う。
「ユウサクさ、このあいだ女と歩いてたぞ」
私とメリッサは、思わず食べる手を止めた。
もしかして梨香さん、ヤキモチ?そう思って目をぱちくりさせてしまう。
「なんだよ二人とも黙っちゃって。気持ちわりぃな」
そう言って不愉快そうな顔を見せた。
ちらっとメリッサを見てみると、笑いを堪えるような笑みを見せている。
「きっとただの友達よ。大丈夫よリカ」
「知ってるよんなこと!つうか、何が大丈夫なんだか意味が分からねぇ。別に私は何とも」
少し顔を赤らめる梨香さんを見たら、微笑ましい気持ちになって笑顔になった。
そんな中、玄関が開く音と共に勇作君が顔を覗かせる。傘を持っていかなかったのか、バケツの水をそのまま被ったかのようなずぶ濡れ姿だった。
「えー、何でみんな先に食べてんだよー」
変なタイミングで帰ってきたことに驚き、三人とも言葉をなくしてしまう。
それを見た勇作君が笑いながら言った。
「え、なになに?なんか空気変じゃない?」
「うるせーな、風邪引くから早く着替えて来いよ!」
梨香さんは照れ隠しのようにして怒鳴る。勇作君は何かぶつぶつと文句を言いながらバスルームへ消えて行った。
もしかしたら梨香さん、やっと勇作君を異性として見てくれる様になったのかな?
何も変わってないように見えていたけど、梨香さんの心に僅かな変化があったのかもしれない。
着替え終えた勇作君も席に着き皆で他愛もない会話をしていた時、メリッサの力を目の当たりにする出来事が起きた。
メリッサは突然驚いた様に目を大きく開き、そして私達ではない誰かの言葉に耳を傾け出す。いつもだったら何か見えてしまっても、何事もなかったようにして振舞うのに、今日だけは違っていた。それを避けられないというような状況に見える。
三人ともその異変に気付き、メリッサを見つめたまま黙ってしまった。
部屋が静まり返ってしまっても、メリッサは構わずに真剣な面持ちで何処かを見つめている。そんな中、梨香さんが振り絞るように声を出した。
「ダンが、居るんだな」
メリッサはこちらをチラッと見ただけで、再び誰かに視線を戻す。
そして数分経ってから、深いため息を吐き目を閉じた。
「ユウサク――。」
言葉に出すのが辛いのか、そのまま黙り込んでしまう。三人とも何も言わずに、ただじっと言葉を待った。メリッサはゆっくり目を開く。
「ダンが、二人だけでした約束を覚えているかって、そう聞いてるわ」
勇作君は瞬時に顔を強張らせた。何か思い当たる事があるのか、驚いた様に口を開いたまま何も言わない。メリッサはひとつ息を吐いてから話しを続けた。
「初めてライブをした夜、ダンがユウサクに言ったそうね?俺がリカを幸せにするって」
“二人だけでした約束”と言う様に、梨香さんは知らない事実なのだろう。勇作君とメリッサを交互に見つめ慌てている。
「俺はその約束を守れない。だから、ユウサクに託したいと言っているわ」
その言葉を聞いた梨香さんの顔が、途端に曇り出す。唇を噛み締め、怒ったようにテーブルを強く叩き立ち上がった。
「ふざけんなダン!自分が決めた約束を、人に、託すなよ――。」
後半の言葉は涙で声が擦れていた。三人の関係を知らない私は、ただ傍観する事しか出来ない。涙を隠すように俯く梨香さんに何も言葉を掛けられなかった。メリッサも心を痛めているのだろう。とても悲しそうな表情で梨香さんを見つめている。
「誰かと共に生きる喜びを、愛を―― リカ、あなたにもう一度感じてほしいと言っているわ」
顔を上げた梨香さんは、怒った表情で涙を流していた。肩で息をしながら、興奮した様子で怒鳴り出す。
「ダンが傍に居ればいいだろ!?」
ダンさんからの突然の別れ。それを受け入れられない気持ちは痛いほど分かる。だけど――
「梨香さん、ダンさんからの言葉だよ?聞いてあげようよ」
ダンさんにはきっと伝えたい事がある。メリッサだってそれを伝えるのは辛いと思った。だからこそ、聞いてあげないといけないんじゃないかと思う。
「ダンがね、本当は分かってるだろうって。ユウサクと居ると幸せな気持ちになったはず。二人が一緒に居る所を見ると、自分も幸せだって言って――」
「やめろ!」
梨香さんはそう叫び、怒ったように席を立つ。
メリッサの言葉を聞いて思った。ダンさんも私と同じで、二人を遠くから見ていたんだって。凄く微笑ましくて、これからもずっと梨香さんの傍に勇作君が居てくれたら心から安心する。そう思っていた私と同じ気持ちだったのかもしれない。
走り出した梨香さんを追い勇作君が手を掴んだ。
「梨香――。」
だけど顔を見ずにその手を振り解き、階段を駆け上がって行ってしまった。
勇作君に対する想いがまた離れてしまったのかもしれない。二階の部屋が乱暴に閉まる音と共に、切なく胸が痛んだ。
梨香さんの気持ちも分かるけど、勇作君の痛みも分かる。だけど二人に何も言ってあげられない。何も出来ない自分がもどかしくて涙を流した。二人が一緒になれない悲しみと、大好きな二人を救えない自分。その狭間で胸が苦しくなる。
メリッサは颯爽と二階に上がって行き、部屋の扉を何度も叩いた。
「ダンが最近傍に居なかった事を、リカだって気付いていたんじゃない?能力がなくたって感じられたはずよ。何故だか分かる?ダンだけじゃない、あなたとダン、お互いが離れる準備が出来たから。そうでしょリカ?」
懸命にそう声を掛け続けていても、扉の向こう側からは何の反応もない。だけどメリッサは少しもへこたれる様子なく、ここぞとばかりに訴え続けた。
「リカ、明日ダンのお墓に行きましょう?忘れろって言う意味じゃないわ。お互い別の道を歩むと決断してほしいの」
変わらずに何も返って来ない様子に、メリッサは深いため息を吐く。
何も出来ずにめそめそ泣いていたら、勇作君が慰める様にして背中を撫でてきた。自分よりも人を慰めるその姿に更に切ない気持ちになった。
そこへ、メリッサが携帯電話を弄りながら降りてくる。そして誰かと話をし出した。
「ええ、やっぱり明日が良いかと思うの。日曜だし、マイクが車を出してくれるでしょ?」
電話から漏れる声は女性の声。
話の内容からして、恐らくミシェルさんと話している。
「助かるわ。有難う」
通話を切ったメリッサは私達に視線を移す。
その表情は何時になく真剣で、何かを決意したかのように見えた。
「明日リカを連れてダンのお墓に行きましょう。ミシェルとマイクも来てくれるわ」
だけど梨香さんはまだ合意してない。それにあの様子だと、ダンさんにまた心が戻ったように見えた。こんな状況で、明日みんなでお墓に行けるのかな。
黙り込む私達を見て、メリッサは悲しげに微笑んで言う。
「大丈夫、リカは絶対に行くわ」
メリッサにそう言われると、なんだか本当にそうなりそうな気がした。勇作君は何か考え込むようにしてずっと黙っている。
私達は重い気持ちのまま夕飯の後片付けをして、明日に備えて眠りにつくことにした。梨香さんと勇作君とダンさん、この三人の辿り着く先は一体何処だろう?そんなことを考えては、不安な気持ちがどんどん膨らんでいった。
きっと全員が、今夜は眠れぬ夜を過ごす事になる。
――
―――
浅い眠りについては目が覚めた。締め切った窓の外から、激しく降る雨の音だけが聞こえている。不安な気持ちで雨の音を聞いていると、なんだか心細くなってしまう。メリッサに泊まってもらえば良かった。
その時、突然扉が叩かれる音がして驚いて飛び起きた。じっとそのまま動かずに居ると、小さく囁くような声が聞こえてくる。
「恵利、寝てるよな?」
その声の主は梨香さん。慌てて布団を剥ぎ取りベットから飛び降りた。そっと扉を開けると、驚いた顔で私を見つめる。
「起きてたんだ」
随分と泣いたのか、真っ赤に泣き腫らした目が痛々しく思える。梨香さんは何も言わずに部屋に入り、ベッドにゆっくり腰掛けた。
「恵利、生きるって―― どういう事だと思う?」
どんな言葉を掛けたら良いのか分からず、何も答えずに隣に座った。梨香さんをただじっと見つめていると、ふっと鼻で笑ってから呟く。
「秋田に居た頃に私が言った言葉。“残されたうちらの課題は生きる事だけだ”って言っただろ。自分で言っておいて、その意味がよく分からなくなっちまった」
生きるという意味。それは、旅に出た頃によく考えていた。だけど最近では考えなくなっていた。それが何を意味するのかは、今の私には分からない。
「死んだダンを想い続けながら生きる事、それは生きるとは言わないのか?」
正しい答えなんて分からないけど、微かに思い始めたこと、“生きる”という事について、それは――。
「私ね、この旅で沢山の人に出逢えて、色々な経験をして気付いたの。私だけじゃない、皆が私と一緒に生きていたって。一緒に泣いたり笑ったり、旅の中で大切な人の死を目の当たりにもした。だけど皆生きていた―― 何があっても、強く生きていたの。それを見てると、私も頑張ろうって思えた。人と関わりを持たなければ、こんな風に思う事もなかった。だからね、人が生きる意味を与えてくれる、そんな風に今は思う」
気付けばこの旅で出逢った全ての人に救われていた。生きる意味も分からなかった私のことを、全ての人が支える様にして、そんな風にして生きてこられた。
「生きて欲しいと願った人が死んでしまった時、辛くて悲しくて、もう一生笑えることなんてないかもしれないと思った。だけどその人はきっと、自分を想い続けて生きて欲しいとは思ってない。むしろ――。」
楠木マスターの事を思い出し、思わず言葉を詰まらせた。ぐっと込み上げる想いを飲み込んで、やっとの事で声を出す。
「むしろ、もっと大切な人を見つけて欲しいと、願ってくれてると思う」
涙が溢れてくる。旅に出ろと薦めてくれたのは、この気持ちに気付いてもらいたかったからかもしれない。それにこれは、楠木マスターの事だけじゃない。彩だってきっとそう思ってくれてる。そう考えると涙が止まらなくなってしまった。
「だからね―― だから私は、生きていくの」
亡くなった大切な人を忘れないといけないという事ではなく、その想いも抱え前に進まなければならないのだと思った。大切な人がきっと、それを望んでくれているから。この旅に出て本当に色々な事に気付かされた。一人で過ごしていたら、旅に出なければ、絶対に気付く事のなかった想いばかり。
気付けば梨香さんも涙を流していた。
梨香さんに幸せになって欲しい。この気持ちはダンさんが想う気持ちと同じだと思う。もしかしたらそれよりも、もっと強い想いかもしれない。
そのまま私達は泣き疲れ、寄り添う様にして一つのベッドで眠りについた。
外は降り止む事のない雨模様。どんどん強くなっていっていて、家を打ち付ける音が響いている。まるで気持ちを代弁するかの様な降り方をしていた。
それは誰の気持ちなのか――。梨香さんなのか、勇作君なのか、それともダンさんなのか。
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