「再出発」4
年月をかなり経たのであろう、少し茶色掛かった紙。
そっと開くとそこには――
“ごめんね”とだけ書かれていた。
それを見た時、キャサリンさんのお母さんはきっと、理解出来ない自分を酷く責めたのだろうと思った。 理解出来たらどんなに良かったか、向き合えたのなら、どんなに良かったのだろうと思い亡くなったに違いない。
キャサリンさんはそっと、零れ落ちそうな涙を拭った。
「謝るのはあたしの方なのに。ねぇネチ子」
声を出したら貰い泣きをしてしまいそうで、首を横に振るのが精一杯だった。
そんな私を見て、ふっと優しく微笑みながら言う。
「あたしは母親の分まで何があろうと生きていく。どんなに辛くても、この生き方を貫いてく。そうでないと、今までして来た努力も母の死も―― 報われないじゃない?」
それはきっと私には想像も出来ない人生。キャサリンさんの辛さと痛みは、計り知れない。そしてそれを背負い、強い意志を持って生きている。だから素敵に見えたのかもしれない。
「もぉやっだぁー、朝っぱらから湿っぽくなっちゃったぁ。この辺にキノコでも生えそぉじゃなぁい?男のキノコなら大歓迎なんだけどぉー」
涙をぐっと堪え、キャサリンさんに合わせて笑顔になった。
「もう、キャサリンさんったら」
「ねぇネチ子、あんたみたいに理解ある家族が一人でも居たら、何か違っていたかもしれないわねぇ」
「え?」
「色々と大変な思いをしてきたわね。だけどあんたの妹は、きっと幸せだったわよ。あんたがお姉ちゃんでね」
それは、ずっと胸に抱え込んでいた事。ずっと彩に問い掛けてきた事だった。
キャサリンさんは、全てを見透かしている様にいつも
「ちょっとの間だけどぉ、あんたと一緒に居てよく分かったわぁ。あんたはネチネチした女だけど、放っておけなくて側に居ると落ち着く。そんな女よ」
泣いてしまいそうになり、唇を噛み締めて堪えた。
「映画みたいにまた一から人生をやり直す事が出来たら、あたしは必ずまた、あんたと出逢う事にするわ」
耐えていた涙も空しくぽろぽろ零れてしまう。そんな私に追い討ちを掛けるように、優しい笑みのまま言った。
「大丈夫よ。今はまだ遠い未来の様に思えても、きっと幸せを掴む事が出来る。神様とか目に見えないものを頼るんじゃなくて、自分の力で掴みなさい。生きてさえいればそれが可能なのよ。それだけは忘れちゃ駄目よ、ネチ子」
そう言ったその表情は、母性に溢れた母の様な表情だった。
その優しさを忘れない様に、涙を流しながら目に焼き付ける。
そしてお決まりのボストンバックを手にし、マンションの下までやってきた。
キャサリンさんは遠くを指差して言う。
「駅はすぐそこだからねぇ」
振り向いて目を細めると、駅が小さく視界に入った。別れに名残惜しさを感じて動けないでいると、キャサリンさんが手招きをしてきた。
「ネチ子、ちょっと来なさい」
疑問を抱きつつも距離を狭めた。
すると、ガウンのポケットから昨夜付けてくれたハートのピンを取り出した。
「これは昨日愛のおまじないをかけたから、お守りだと思って持っていきなさぁい」
そう言って手渡され、嬉しくて思わず笑顔のままピンを掲げる。
朝の日に反射して光るキラキラのピン。それは心なしか昨夜よりも輝いて見えた。
「それとハンカチ、あれあんたのバッグに入ったままだからねぇ」
「えっ、ごめんなさい。すぐに返します」
慌ててバッグを開けようとすると、腕を掴んで止められた。
「あんたねぇ?あたしのお気にのハンカチが、チンチクリンの涙と鼻水でいっぱいになっちゃったのよぉ」
「ご、ごめんなさい」
「責任持って自分で洗いなさい。それで、必ずあたしんとこに返しに来るんだよ」
愛あるその言葉にまた涙が出そうになった。
だけどぐっと堪え、笑顔で何度も頷いて見せた。
そして、次の場所に向って歩き出す。
振り返るとキャサリンさんは、大きく手を振っていた。
「慎ちゃんにあんたの事伝えておくからねぇー、寅さんみたく、また旅に出たってぇー」
それに答えようと、両手を口の前で広げ大きな声を出した。
「いいんですー!慎はきっと、また電話かけてくるから!だって私達、腐れ縁だもん!」
きっとこれからも慎と縁を切る事は出来ないと思う。
だって慎は、彩を知る唯一の人だから。
それに、キャサリンさんにも出逢わせてくれた。
「ネチ子ぉ、気を付けてねー!」
キャサリンさんがどんどん小さくなっていく――。
私が角を曲がるまで、いつまでも手を振って見送ってくれた。
その姿が見えなくなった時、心の中でそっと呟く。
キャサリンさん――
やっぱり貴方は、私にとってこの街で一番美しい。
***
いつも通り、駅前の夜行バスチケット売り場に来た。
そこにはいつものお姉さんが居る。私に目を移すと、表情を柔らかくした。
「おかえりなさいませ!大阪はどうでしたか?いつ帰ってくるのか気になっていたんです」
屈託のない笑顔で、少し垂れた大きな目が愛らしい。
「わたくし
三田さんは眉を下げ、上目遣いでそう聞いてきた。名前くらいと笑顔で答える。
「笠井と申します」
「笠井さんですね!はっ、いけない。こんな大声でお客様の個人情報を――。」
そう言って慌てて口を押さえている。その様子を見て、どこか憎めない愛嬌のある女性だなと思った。 二人でくすくす笑っていると、三田さんが突然目を細くして遠くに視線を移し出した。
「あら?あの子――。」
気になってその視線の先を探した。
するとそこに、金色の長い髪で制服を着た女の子が横たわっている。
三田さんはおろおろしながら言った。
「大丈夫かしら、全然気が付かなかった。いつから居たのかしら」
「ちょっと私、声かけてみますね」
心配になってその子のもとへ向かう。もしかしたら、具合が悪いのかもしれない。
「あの――。」
「……」
その子から返事はない。
意識がなかったらどうしようと心配になり、何度か肩を揺らした。
だけど痛んでボサボサの金髪が揺れるだけ。 具合が悪いとしたら、あまり揺らさない方が良いのかもしれない。手を止めて大きめの声を出す事にした。
「あの、大丈夫!?」
すると、ゆっくりその子が顔を上げた。バサバサのまつ毛に縁取った真っ黒のアイメイク、鼻にはピアスをつけている。その派手さに驚き固まっていると、しかめっ面を見せ顔を歪ませた。
「あ?あんた誰」
「具合、悪いの?」
そう聞くとその子は、目を丸くした。
しばらくの沈黙があった後、再び俯いてしまう。
慌しく行き交う人達の足音と、ホームから電車が発車する音が聞こえる。
ふと三田さんに目を移すと、身を乗り出して心配そうに見つめていた。
その時、突然その子がふっと鼻だけで笑った。
「マジずっと此処でこうしてたけど、声掛けて来たのはスケベそうなおっさんばっかで―― 後はみんな無視だった」
よく見ると制服のスカートの裾が破れている。
所々薄汚れてもいるし、何かあったのかもしれないと思った。
その子は呆れる様な声を出す。
「東京は冷てぇなぁ」
まじまじ見つめていると、ある事に気付きドキッとした。
その子は顔を上げ、今にも泣きそうな表情で見つめてくる。
「ねぇ、助けて」
心臓の鼓動が徐々に早まっていった。息苦しくなって思わず胸を押さえる。
落ち着かせようと思っても、動揺が隠し切れなかった。
「連れてって―― 美紀の知らない所に。何処かに、消えちゃいたいんだよ」
そう言ったこの子の瞳、今もなお目が離せないでいる、手首にある無数のリストカットの痕――。その全てがまるで、彩のようだった。
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